「能」について へのコメント
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前川整洋さんは No.273「「能」について」で書きました。 >勤務先で能公演の観劇参加者(2名)の募集がありましたが、せっかくのチ >ャンスでも観劇しても分からないのではの不安がありました。不安ながら応 >募に申し込むことにしました。昨年は、現代詩創作集団「地球」同人の方か >ら能を題材にした詩集『瞼を彩りて消えず』(能楽書林)をお送り頂き、ま >た、能の解説書も一冊読みました。ドナルド・キーンの『能・文楽・歌舞 >伎』(講談社)も購入してありましたが、まだ1ページも読まないままであ >ったので、この機に手にとってみました。序文には、キーン先生は子供の頃 >から観劇が好きであったからはじまっていて、能については次のように書い >てありました。 > 「能の写真を見た覚えはなかいが、レコードで能を初めて聞いた時の驚き >が忘れられない。能の翻訳を読んで囃子の音楽を想像し、ドビュッシー風の >か細い旋律が遠いあの世から聞こえてくるかと思ったのが、鋭い鼓(つづ >み)の音や奏者の荒い掛け声が響きわたりびっくりさせられたからである」 > 本文は次のインパクトのある書き出し、「能という言葉は才能を意味し、 >ひいては演技における能力の輝きを意味する」ではじまり、能とギリシャ劇 >の違いを次のように端的にまとめてありました。 >・ 能は日本の宮廷の一握りの貴族のために書かれたものである。このこと以 >上に基本的に異なることは、能においてはすべてが結末のようであり、数々 >の場面を区切るのは異なる調子をもった音楽である。 >・ 能においては、主人公は劇が始まる前に死んでいることが多く、結末には >戒めというよりも生の苦しみからの解放が暗示されている。 >・ 能に出てくる者たちは美しい影以上のもではなく、束の間にほとばしる感 >情を体現したかのような存在である。 > > 「地球」同人でもある辻井喬さんは、地球誌に「能狂言を見れば、そこに >はシュイクスピアも驚くようは劇的な空間があり」と書いています。観劇す >ることよりも、論じることに興味がもてる観が、私にはあります。抽選に当 >たり観劇できることになった場合は、さっぱり分からなかった、という情け >ないことにならないようにしたいと思います。
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