POEM

詩についてV


 西洋のネイチュアーに「自然」の訳語を当てたのは明治6年に西周がしたいわれているが元治元年の
村上英俊著「仏語明要」ですでに名詞として「自然」の訳語が当てられていたという。その「自然」という
訳語が本格的に詩語として現れるのは北村透谷においてであった。透谷は、西洋の「自然」思想を基
にそこから出世主義や世俗と対決する考えを導きだした。透谷以後は「自然」という言葉ほとんど用いら
れることはなかった。
 島崎藤村の「若菜集」は明治30年に刊行された。近代の新しい抒情詩といわれてきた。いまから
みると、「若菜集」の詩は七五調を中心とした文語定型詩で、古風な語感をもったものにみえるが、
当時は時代の新声と受け止められた。一方、「若菜集」にも「自然」は名詞としては出てこない。
「若菜集」の抒情では、「自然」という思想を直截いう語は避けられ、たとえば「天地」の語がわずかに
用いられているが、「自然」とは内容に微妙な違いがある。藤村は詩において、山だけでなく自然を、
主にみずからの感情や主観を表わすための比喩として用いている。
 藤村が自然をきちんと凝視するようになるのは、千曲川のほとりで、ジョン・ラスキンの「風景画論」
などの影響を受け、散文による身辺スケッチをはじめてからである。このスケッチのかたわら言文一致の
試みも進めた。「千曲川のスケッチ」の後、「破戒」を書くことになる。言文一致と「自然」に学ことを通
して小説家としての方法を築きあげた。藤村は「自然」から、自分を新しくする方法を得ようとしたので
ある。
 透谷の亡き後、「自然」という抽象概念を思想的に捉え、詩に取り入れたのは高村光太郎であった。


高村 光太郎
山の重さが私を攻め囲んだ
私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
山に向つた
山はみじろぎもしない
山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した
たまらない恐怖に
私の魂は満ちた
ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
底の方から脈うち始めた私の全意識は
忽ちまつぱだかの山脈に押し返した

「無窮」の力をたたえろ
「無窮」の生命をたたえろ
私は山だ
私は空だ
又あの狂った種牛だ
又あの流れる水だ
私の心は山脈のあらゆる隅隅をひたして
其処に満ちた
みちはぢけた

山はからだをのして波うち
際限のない虚空の中へはるかに
又ほがらかに
ひびき渡つた
秋の日光は一ぱいにかがやき
私は耳に天空の勝鬨をきいた

山にあふれた血と肉のよろこび!
底にほほゑむ自然の慈愛!
私はすべてを抱いた
涙がながれた


 高村光太郎は口語自由詩を詩として自立させた詩人といわれている。また、西洋
の自然Natureについての思想の流れに基ずき、宇宙のアナリジーとして自然を詩の
中で捉えた最初の詩人でもあった。この詩では情緒的に人間と合一する自然ではな
く、自然を宇宙的秩序としてみてそのコスモスの内における、一つの小コスモスと
しての人間の、内なる自然との交感が書かれている。
 この詩は大正12年12月の「文章世界」に発表され、のち「道程」に収められ
ている。自然という抽象概念にどんな創造的意味があるかを捉えている。山すなわ
ち自然は人間社会とか人の営みと対峙する一方、人間は自然の一部でもあることを
表わしている。
 詩は本来、真実と美を追求する文芸である。そのことからも山と自然は、詩の対
象となってきた。山が詩で表わされたとき、山の存在が人の内面に呼応したもので
あることが現実のものとなる。山は世俗の権威、地位、金銭に絡む争いや駆け引き
とは、係わりなく存在してきた。それは純化された言葉、すなわち詩によって表現
されるべき事柄なのである。そこには見えていて見えたいなかったもの、哲学的で
あったり、宗教的であったりのものまでも現れてくることがある。それが山と自然
の詩である。
 参考文献 田中清光:山と詩人、文京書房、1985年


戻る