POEM
地球 創刊50周年記念号
詩会「地球」は登山家でもある秋谷豊が、昭和25年(1950年)、ネオロマンシズムを かかげて創設し、詩誌「地球」を発行した。 2000年が創設50周年にあたり、記念事業として世界詩人際2000を開催するととも に、「地球 創刊50周年記念号」が発行なされた。記念号には同人160人の詩と詩論 小エッセイが掲載されている。その幾つかをここで紹介する。 |
小海 永二 |
―略− |
「地球」グループと秋谷さんの功績の第一は、何といっても前橋で 行われた日本で初めての世界詩人大会だと思っています。本来なら 日本現代詩人会がやるべき事業だと思いますが、残念なことに日本 現代詩人会にそれをやれるだけの力がない。組織がない。それを、 詩人たちの一グループである「地球」グループがやってのけたの ですから、それはまさに壮挙と言えるものでした。開催までの準備 万端を、秋谷さんは、グループメンバーや、協力するグループ外の 詩人たちを動員し、采配をふるって整え、会議を見事に成功させました。 |
―略− |
国内的には、「地球」グループには新川和江さんがいて秋谷さんを助 けています。「地球」の会員たちにとっては、新川さんの魅力がどんな に大きいことでしょう。二人のコンビが地球」グループをずっと支えてき たのでした。そこに語学の達者な石原武さんが加わってからは「地球」 は強い戦力を加え、国際的な活動がいっそう活発になったように見受 けられます。雑誌「地球」の編集にもそのことが反映し、海外の詩人 たちの作品の紹介が増え、雑誌の面でも国際化がいっそう進んだよ うに思われます。この方面で「地球」グループはさらにいっそう発展して ゆくことが期待されます。 |
「地球」の五十年と私 |
磯村 英樹 |
「地球」の五十年のうち、わたしが籍を置いたのは、一九五八(昭和三十三) から八二(五十七)年までの二十五年間で、「地球」が最も脂の乗った活動を した時期ではなかったとおもう。当時の雑誌を繰ってみると、秋谷豊、 新川和江の二本柱は現在と変わりないが、丸山豊、安西均、木下友爾の 御三家をうしろ立てに、菊地貞三、松田幸雄、唐川富夫、杉本春生らの幹部 たちが活発な作品活動と論陣を張ってグループをリードしていた。 そこへ、松永伍一、大野純、嶋岡晨、片岡文男、寺山修司、粕谷栄一、白石 かずこ、高橋睦郎、平井照敏、長田弘らの新鋭詩人たちが加わって活躍し、 世に出ていった。 昭和四十年代に入ると、鍵谷幸信、犬塚堯、財部鳥子、鶴岡善久、藤富保男 星野徹、高田敏子、三谷晃一、福中都生子、森田進等々が加わり多彩になっ ていく。 「地球」通過詩人の拾い出しはNO.44(一九六七夏季号)で打ち切るが、当時の 目ぼしい詩人の大方が「地球」にすぐれた詩業を残していると言っても過言で はない。 |
―略− |
二十一世紀へ |
辻井 喬 |
詩が衰退したのは我が国ばかりではないようだ。二十世紀は、多く の国で詩が力を失った世紀であった。それはいろいろな形のユート ピアが消滅したことと関係あるだろうか。もっとも、新しく思想表現の 自由を獲得した旧ソビエト・ロシアの国々、最近注目を集めるように なったカリブ海諸国では詩は、多様な生命力を示しているように見 えるのだから、詩の衰退は産業社会の爛熟思想を伴わない形式民 主主義の蔓延と関係があるのかもしれないという気もする。 では、そういった条件の中でなぜ詩は衰えてしまうのだろう。 それは大変むずかしい問題だけれども、わが国の場合は、それに 加えて、伝統との断絶の問題、文学の世界における思想の消滅と いう二重に不利な条件が重なっていると思う。そうした環境のなか で詩を書き続けるのはかなり困難な作業である。 この場合、伝統というのは、伝統短詩型、定型詩のことではない。 それも詩のひとつの形ではあるけれども、もっと広く、伝統的美意識 の問題として捕え直す必要があるのではないか。 今日、伝統的美意識とは雪月花とか花鳥諷詠のことだと考えられ ているが、これは間違いである。我が国の伝統は、能狂言を見れば 、そこにはシュエクスピアも驚くような劇的な空間があり、近松、西鶴 南北を見れば人間関係のダイナミックな展開があり、絵画的表現と しては、世界最古のインスタレーションとしての絵巻物という独創が あり、源氏物語に見られるような心理主義的文学空間があるのである。 それらを忘れて伝統的美意識を矮小化してしまったのは、「進んだ文化 をもっていた」西欧の知識人が自分たちにないものとしての日本文化に 殊に注目しただけのことだと私は思う。言いかえれば、花鳥風月を伝統 と考えたのは、ヨーロッパの目でみた日本の美を、日本人も日本の美で あると思ったからであった。その時、日本人は本来の伝統を忘れて、西 欧人の目になりきろうとしていたような気がするのである。 経済が欧米に敗けないほど発展した結果、風景としての花鳥諷詠は 困難になった。それに加えて思想もまた、「調べに馴染まない」というよ うな文学意識によって文学から排除されてきたのである。そこで、詩が 衰えずにいることは極めて困難であった。その結果、現在流通している 枠組みは、ヒューマニズム・民主主義、自由、平等といった概念で構成 されている。これらを侵すものは、反正義としてジャーナリズムに決めつ けられる。しかし、ノーベル賞受賞詩人のブロッキーが言っているように 「人間は自分を悪と戦う善の味方だと思いこんだ時、危険な人物となる」 のである。 詩人に課せられているのは、こうした〃常識〃をどうやって破壊するか という役割なのではないだろうか。そう自戒することで私は二十一世紀を 迎える用意を整えたいと思っている。 |
情報化社会と詩人 |
一色 真理 |
私たちの生きてきた戦後という時代はまさしく情報の時代であった。 一九五十年代から家庭に普及していったテレビは、今では衛生中継 により世界中のどこからでもリアルタイムで、生々しい臨場感溢れる 映像を見せてくれる。このため、私たちは一方的に大量の情報の受け 手となることを余儀なくさせられるだけでなく、自分の見ている映像が、 送り手によってコントロールされた二次情報に過ぎないことを、しばしば 忘れがちになる。湾岸戦争の際、全世界に流された「原油に汚染され たウミウ」の映像が、実に全く無関係のニュース映像からの転用であっ たエピソードは、ほんの氷山の一角に過ぎないであろう。 これに対して、一九九十年代に堰を切ったように始まったインターネッ トによる情報革命は、人々にテレビのスイッチを切らせ、私たちを一方的 な情報の受け手という立場から解放することに大きく貢献した。ネットワ ークを検索すれば、世界中から自分の必要とする一次情報をたちどころ に取り出せるし、ホームページにより誰もが平等に情報発信者になるこ とができる。IT革命は私たちを情報への奴隷から解放し、主体的に情報 化社会に向き合う力を与えてくれたのである。 戦後の詩の歴史も、こうした情報化社会の動向と無縁ではなかった。 テレビの普及とともに多くの詩人たちは、ブラウン管から供給される画一 的な二次情報を素材として、一見、社会的テーマを持つ作品を手軽に量 産していった。しかし、それらの作品は基本的に情報としての価値のない 三次情報に過ぎなかった。そのため、情報化時代の中で目や耳を洗練さ れた読者からは、失笑を買っただけであった。 また、社会のすみずみまでが見えないデジタルネットワークによってコン トロールされる今日、コンピュータの要求する、実用言語(比喩や象徴、寓 意、意味の重層化などを含まない言語)の隆盛が、それと対極にあるべき 詩の言語の衰退に、さらに拍車をかけていることも否定できない。詩の言 語は本来、非実用的で、反流通的なものだったはずである。多数者による 少数者、強者よりも弱者、中心より周辺に身を置くことでこそ、詩の言語は 輝くものであるはずなのに。 インターネットは少数者や弱者自身が、誰でも対等に情報発信者になる ことのできる、画期的なシステムだと思う。だが、優れた有益なテクノロジー であればあるほど、反面、公害などの非人間的な要素をあらわにすることが 多いのも、近代の歴史が証明してきた通りである。情報化社会という未知の 大海に船出した人類の、水先案内人としての力量が、二十一世紀の詩人た ちには何より求められているのではないだろうか。 |
深田久弥・山の文化館 |
高田 宏 |
―略− |
深田久弥は登山という行為を、大自然の中で精神の自由を得る ためのものだと確信していた。だから登山は決してスポーツなど ではない。勝ち負けも記録も、登山には不要である。スポーツに は公平を期するためのルールが不可欠だが、登山にルールは 要らない。山で自らの生命を守る、あるいは失うのはルールでは なく、自分自身の判断であり経験でもあり、とりわけおのれの心 である。付言すれば、登山にはスポーツを支えているような観客 のファンも無用である。 山の思想と文化の裾野は長く広大だが、その根幹にあるのは 深田久弥の言う「精神の自由」だと、ぼくは思う。「深田久弥を愛 する会」の目下の目標は、久弥生誕100年にあたる2003年に 「深田久弥・山の文化館」を開設することだが、ぼくはこの館を その意味での山の思想・文化の情報拠点にしたいとねがって いる。山小屋のような質素で小さい建物にハイキング情報設備 をそなえ、世界の山岳思想・文化情報の交流基地としたい。 さいわい会員の一人が所有地の一部を寄付してくださることに なり、建物の見通しが立ってきた。深田久弥の山の思想に共鳴 してくださる方々の物心両面のお力添えをぜひおねがいしたい と考えております。 別記:「深田久弥を愛する会」事務局は、石川県加賀市大聖寺 下屋敷町ホ8にあり、電話・ファックスは07617・3・2714です。 |
詩 作 | |||
新川 和江 | |||
古い書物は世のはじまりをそう記している 光がくるまで どれほどの闇が必要であったか 混沌は混沌であることのせつなさに どれほど耐えねばならなかったか そのようにして詩の第一行が わたくしの中の混沌にも 射してくる一瞬がある それからは 風がきた 小鳥がきた 川が流れ出し 銀鱗がはねた 刳り船がきた ひげ男がきた はだしの女がきた 木が生えてみるまに照葉樹林ができた 犬が走ってきた 驟雨がきた 修行僧がきた砂糖がきた スズメバチがきた オルガンがきた スリッパがきた 白黒まだらのホルスタインがきた 急行列車がきた… 脈絡もなくやってくるそのものたちを 牧人のように角笛を吹き 時にネコヤナギの杜の鞭をするどく鳴らして選別し 楡の 荷を負わせ 棚の中に追い込んで整列させる一日の労役 それが済むと またしても天と地は けじめもなく闇の中に溶け込み はじまりの混沌にもどる だから 光がやってくる最初の日のものがたりは 千度繙いても 詩を書くわたくしに 日々あたらしい |
化運平 |
前川 整洋 |
化雲岳の稜線直下は高原となっていた そこに湿原も拡がっていた 木道にザックを置き腰を下ろす 高原は谷に切れ落ちているかのように 地平線で行き止まり その地平線にニペソツ山と天狗岳が並び 屹立している 青と灰色の中間色の山体は 岩稜ではないがその傾斜には厳しさがある 沼のように大きな池塘が 二つ三つ目前に展がっている 池塘と向き合う連山を眺めていると ここが浮き上がっている感覚になってくる 池塘の囲りにはあき間なく 蝦夷小桜が 白山一草が 小流れに沿っては 得憮草が 群落で咲き誇る 道に沿って水が流れている こんな山の上にまで水が湧き流れている 水のある落ち着き 水のある潤い いつもの山景と違うアングル 池塘の神秘が醸しだされている 水は山から注ぎ込まれるのが 自然の摂理であろう ここでは山が水を湛えている いつもと違う水の様相 ここは雲上の楽園 やすらぎの自然美が集約されている |
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