POEM
季刊詩誌「地球127号」 2001年 6月
1. メッセージ 世界から世界へ P10 |
秋谷 豊 |
一九八〇年初夏、カイバル峠を越えて、アフガニスタンの首都カブールに入った。砂まみれの ジュープの上で、私はヘミングウェイの文庫本「日はまた昇る」を読む。 「日は出て、日は入り、また出し所に喘ぎゆくなり」 「日はまた昇る」のとびらにかかげられた伝道之書の一節。日の入る地平線に向かって、私た ちは進んだが、あたりの岩はだは、焦げたような褐色で、樹木は一本もない。 峠の下り口にたむろする難民の集団がいた。荒れ放題の地面に野宿だ。木で作った楽器を鳴ら しながら、人びとの間を歩きまわるひげぼうぼうの男がいた。彼は自分で作った詩を朗読して歩 いている詩人だという。群集は熱心に耳を傾けて聞いている。 私は思わずジープからとび下りて、彼と握手した。通訳が私を紹介して「詩人」だというと、 彼は「おお詩人」と大きくうなずき、私の手を強く握り返した。とうに滅びてしまった吟遊詩人 の文化が、この砂漠では生きているのだ。 詩は一枚の毛布でもなく、一片のパンでもない。だが、そのとき詩は人びとに希望や勇気や優 しさを言葉で伝えることができる。 詩人はいま世界に向かって何をすべきか。 未曾有の戦争が終わって55年。あるいは『地球』の50年。 私たちが生きた時代は、まさに20世紀であった。 21世紀といえども、歴史の途上にある。一人の人間が、その途上において、いかに生き、ど のように対処したかが、詩の課題になるであろう。 この「世界詩人祭2000東京」にお集まり下さった世界の国々の詩人たち。アフリカの砂漠や 貿易風の吹く大陸。モンゴルの大草原や戦乱の国境を越えてやって来た詩人たち。 私たちは今日ここで多くの信頼と友情の上に詩の現在と未来を確かめ合う。 |
2. 二十世紀から得たもの P246 |
新川和江 |
テーマに従いまして、私個人の二十世紀体験の一端を、お話させていただきます。 私が成人して世の中にスタートしようとしていた時、日本は戦争に敗れて、民主主義という、 子供時代には思いも及ばなかった平等社会が開かれようとしていました。田園地帯のふるさとか ら東京に移住しましたのは、戦後三年目のことですが、まだ焼け跡があちこちに残っていて、進 駐軍の兵士が長い足で大股に闊歩し、空襲で家や家族を失った子供たちが、路上にあふれていま した。暗い世相ではありましたが、それでも、自分たちの新しい世の中を造ろうという活気が、 どの分野にも満ちていました。まだ少女期を脱して間もない私が最初にやろうとしたことは、少 女雑誌や学習雑誌に、甘味な花物語や児童のための詩を書くことでした。戦争中、優しいものや 美しいものが何ひとつ無い時代に、古き良き時代に出版された雑誌や単行本をどこからか探し出 してきては、教師の目をぬすんで回し読みしたそれらの小説や物語が、どんない私たち女学生を 慰め勇気づけてくれたことか−そういうものを私は書きたい、書いて行きたい、と思ったのです。 「少女小説になるのは困るがね、まあ、若いのだから、しばらくの間はいいだろう」と師匠の 西條八十は苦笑しながら、いくつかの出版社に紹介状を書いてくれました。今、巨大なビルが建 つ出版社が、まだ木の階段をガタピシいわせながら昇って行くような、おんぼろの家屋で営業を はじめたばかりの時代です。ある学習雑誌に連載しておりました詩が、比較的大きい児童文学賞 の対象になりまして、以来、道が、詩ひとすじに定まりました。 五十年が過ぎました。この半世紀の詩のいとなみが、私をどのように練り直してくれたか、振り 返って考えてみますと、つぎにお話する二つのことに絞られるような気がします。 一つは、国籍や国境にとらわれない、非常にコスミックな感覚で、自分の存在を認識できるよ うになった、ということ。今私はこの会場のこの壇の上に立っており、世田谷の片隅にささやか ながら定住の家もあって、まぎれもなく日本人であるのですけれど、私が立っていることは、地 球という名の星の上で、この惑星と一緒に、私は宇宙をめぐっているのだ、という意識のほうが 、日本人であることの意識よりも、世田谷の住民であることの意識よりもはるかに強いのです。 私らちは皆、同じ船に乗り合わせた、宇宙の旅人です。 一九六一年、ロシアの飛行士ガガーリンが、人間衛星第一号で宇宙を飛んで、「地球は青かっ た!」の名ゼリフと共に、二十世紀後半は、宇宙時代に入りました。しかし詩人の感性はガガー リンにさきがけて、宇宙を詩に取り込みました。谷川俊太郎が、『二十憶光年の孤独』という、 題名からして新鮮な衝撃に満ちた詩集をひっさげて、異なる星からやってきた若者のように登場 するのは、一九五二年のことです。この詩集には収録されていませんが、同じ頃谷川は「帰郷」 という作品の中で、このようにもうたっています。 私が生まれた時 世界(コスモス)は忙しい中を微笑んだ 私は直ちに幸せを知った 別に人に愛されたからでもない 私は只世界(コスモス)の中に生きるすばらしさに気づいたのだ コスモス−世界という言葉が、谷川の詩には頻発しますが、それまでの日本の詩にはあまり現れ なかった言葉であり、観念でありまして、なんとまぶしく、輝いていたことでしょう。 もう一つ、厖大な時間空間を飛翔する想像力のつばさを、詩が、与えてくれたということ。伝 統文芸である短歌・俳句と異なり、私どもが今携わっている現代詩は、百年あまり前にヨーロッ パから移植された表現形式ですが、わが国にはすぐれた翻訳者がおり、よろこばしいことに近年 ますますその数がふえてきました。私が海外の詩にことさら関心をもつのは、異文化の中で培な われたものの見方考え方に、示唆を与えられることが少なくないからです。 その中のひとつを 、挙げてみたいと思います。ドイツ生まれのパウル・ツェラの詩で、連作詩「息の結晶」の中の 一節。山本定祐の訳になるものです。 未来の さらに北を流れている川で わたしは 網をうつ この詩句に出会った時の驚きは、格別なものでした。靄のかかったようなぼんやりした<未来 >が現出したのです。漠然とした時間の先には方位があり、流れる川があって、網をうつ人影ま で描き出されている。 こちらの概念を根底から覆してくれるのが詩の力であり、詩人の使命もまた、そこにあるので しょう。未来についても、過去についても、生活次元の時間ではなく、とほうもなく大きな時間 空間があることを、この詩は私に示してくれたのでした。 このようなものの見方考え方を、詩によって学び得たことは、二十世紀が私に与えてくれた、 深い大きな喜びです。 結びに、「地球よ」と題した私の短い詩を、聞いていただきたいと思います。地球は冷えて、 命あるものは皆絶滅するものだと、悲観的終末論がとび交っていた、一九七二年頃の作品です。 億年なきつづけて 鳥はまだその歌を完成しない 億年育ちつづけて 木はきわみの空を知らぬ 地球よ 地球よ どうして炉の火を落とせよう 元気よく手をあげるちびっ子たちの声が響いて 小学校は授業中だ 私の所属しているグループも、地球です。新しい世紀がきても私どもは、<放課後>ではなく つねに、<授業中>の生徒でありたいと、願っております。ありがとうございました。 |
3.「言葉の前に詩があった」 世界詩人祭 P116 |
中原道夫 |
一昨年のモンゴルでのアジア詩人会議についで、昨年の世界詩人祭も感動的であった。「地球 」の創刊50周年を記念しての大会であったが、一同人詩誌がこれだけのイベントを行うという ことは並大抵のことではない。日本現代詩人会、日本詩人クラブという日本を代表する詩人団体 にしても、これほど大きな国際大会を開いていない。これは主催者秋谷豊氏の企画力によるもの であろう。韓国、台湾、モンゴルと連続してアジア詩人会議に参加させていただいた関係もあり 、地球同人でもないぼくも、微力ながらお手伝いをさせていただくことになった。 総務として終始受付けにいたために、会議そのものの参加はあまりできなっかたが、会議登録 や入場者の案内に携わった。おかげで、多くの詩人と接することができたのだが、ここ一番で困 ったのは言葉の問題であった。受付にいるべき通訳人も、会議が始まると、すべて動員されてい た。けれど、ながい間、ボリビアに在住していた細野豊氏が、側にいてくれたので、難なく任を 終えることができた。日本詩人クラブの田中眞由美、原田道子の両氏も、よく頑張ってくれた。 会議登録者は国内は沖縄から北海道にいたる300名、海外25ヶ国100名を超えた。会議登 録費を基本とする詩人会議の新規運営方式は成功したと言ってよい。昨年のギリシャでの世界詩 人会議がたいへんだったことを聞くにつれ、喜びもひとしおだった。 「マエバシ、マエバシ」(たぶん、前橋でお会いしましたね。また会えて嬉しい)と寄ってくれ る南米の詩人、だまって握手を求めてくれる中国の詩人、英語すらろくにできないぼくではあっ たが、言葉を超えた詩人の心だけで、意志の通じ合う場面が何回かあった。これはまったく言葉 の通じ合わないウランバートルで、固い握手を交わしたときと同じであった。 スペイン語が解らなくとも、南米の詩人と心が通じ、イタリア語が解らなくとも、イタリアの 詩人と意志の疎通ができる。これは、言葉の前に詩があるからであろう。詩は言葉によって創る ものであるが、言葉そのものではない。だから、海外の詩人の朗読を聞いていて、「詩」が言葉 を超えて伝わってくるのだ。 基調講演は、二十一世紀に向かう世界の詩人たちに多くの問題を提起したが、その夜の歓迎パ ーティーの韓国詩人協会会長許英子氏、日本詩人クラブ会長鈴木敏幸会長のスピーチも意義ある ものだった。ぼくは原田道子、岡野絵里子氏の助け借りて、司会の任にあたったが、そのパーテ ィーに漂うものは、詩人たちに国境はないということであった。もともと人類に国境などはなか ったはずである。 |
3. 掲載詩から 色彩教室 P174 |
下村和子 |
億年をかけて グランド・キャニオンの崖を染め上げた 夕陽の枝を見ていると 同じ光を浴びながら 私の詩(うた)は砂の崖 ポロリ ポロリと崩れて コロラド川に流れ去っていく 青を生もうと 刻々藍甕を確かめる藍師も 自画像を織り上げようと 百色の色糸を交差させる織師も あの海を描き出そうと 絵筆を握りしめる画家も そして私も あなたの教室の門下生なのだが… あなたの根気強い 繰り返しと継続 目新しいことなど必要ないのだ 日毎、刻々 誠実に枝を重ねていく あなたの教えは その一つの事 与えられた 私の歩巾で歩きつづけるだけだ エベレストに取り付いた 一匹の蟻だ、としても それは喜劇ではない 私の人生 私の真劇 私 そのもの |
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