POEM

季刊詩誌「地球131号」  2002年10月

特集 詩と宗教
1.詩的想像力は宗教を越えるか    P10
石原 武
― 略 ―
私はジョン・キーツの詩篇を開く。木洩れ日の中から、少し微熱を帯びた言葉が、私を誘いに
くる。「夜鳴鶯(ナイチンゲール)に寄せるオード」はこのように始まる。若い詩の個性は絶望
の淵で死の法悦を思う。
私の胸は痛み、眠りを誘う痺れが感覚を痺れさす。
いま毒人参や鈍い阿片を、ひと息に飲みほして、
忘れ川に向かって沈んでいったかのように。
おまえの幸せな運命を羨むからではない。
おまえの幸せにひたって、私も幸せだったからだ―
軽やか翼をもつ森の精のおまえが
ブナの緑や影々の 響き合う木洩れ日の中で、
咽喉いっぱいに夏を歌っているからだ。
それにしても、神の演出から逸脱した詩的想像力はなんと誘惑的でありことか。神の采配をはな
れて、絶望を越えるとき、詩は宗教を越える。実はこのひとことを私は書きたかった。「夜鳴鶯
(ナイチンゲール)に寄せるオード」は、これに続けて死の森への旅立ちに、「花神と田園の森
と、真実と日焼けした歓楽にみちた一杯の葡萄酒を!」と歌うのである。
 勿論、死のために宗教があるのではない。しかし、生から死へ、死から生へ、その永遠のサイ
クルを信じさせてくれるのは、私にとっては大いなる神ではない。矮小な個を越えた詩的想像力
の時差に顕現する自然の神々である。

2.宗教は愛そして詩も          P23
下村和子
 人は誰も自分が可愛いい。そして可愛いいが故に本能的に不安と怖れをも持つ。それ程私達は
不安定な場に在る。私はこれが宗教の根本であり始まりである、と思う。 
懼(おそ)れという言葉はラテン言の(religio)でありそこから、(religion)となったと
教えられた。
 怖れをなくすために知識を得よう、と科学が発達したが、全て分かるには程遠い。むしろ解か
らぬことの多さも知った、と言える。人間が人間らしく生きていくためには、人間を超えた大き
なものへの畏敬の念を持ち続けることだ、と思う。
 私は山や森に行くのが好きで、樹に囲まれ、風を肌に感じ雨の洗礼を受け水音を聞く時、最も
落ち着ける。道元禅師が「諸仏は風、雨、水,火なり」と言われた言葉を常に口ずさむ。そして
太陽、太陽と水があってあらゆる生きものも私達も生きていけることを再確認する。アニミズム
的宗教観は全てに優先するもの、と言える。私の詩の土壌でもある。
 初めに宇宙の法があり、その傘下に人間の法がある。このあまりにも当り前のことが現代は忘
れられて人間第一の錯覚に陥っている。地球が健全であってこその国であり思想である。宗教戦
争は正義の戦いという旗がたてやすいだけ激しい。しかしその両者共に宇宙の法の下に在るのだ
、ということに気付きたい。
 仏教思想は根本理念に於いては、人種が、それぞれの生き方、スタイル、志向を尊重し合い、
認め合っていくことであろう。それが<慈悲の愛>である。二十一世紀は慈悲の愛、友情の愛の
心で生きる時だ。宗教は愛である、と私は断言する。そして詩も。
― 略 ―

3.崇高なるものと濁世との葛藤     P82
                    三田 洋
 西洋の詩は神への讃歌で溢れているものが多く、詩と宗教が違和感なく共存しているように思
える。それに比べ日本の詩歌と宗教は何か拒否反応に似たものがあるようだ。
 キリスト教は超越的絶対者への崇拝・帰依が基本だから、自ずと神への賛美や感謝が中心とな
る。西欧の詩にはこうした宗教的感情を表出した詩も多いが、日本の詩の場合にはあまりみられ
ない。キリスト教者であった山村暮鳥、八木重吉などの詩には神への賛歌のみで成り立っている
ものがあり、それは稀な例であろう。
 とかく特定な信仰とか思想たかに固執すると世界が限定され批評精神を希薄にし、豊かで自由
な創作活動が妨げられるという否定的意見が強い。信仰は精神の自由な羽ばたきを拘束し、テー
マや世界が限定され深みを欠き、懐疑や葛藤が希薄になるという批判である。この観点からみる
と現代詩は成り立たない。
 しかし、この濁世の現実を生きるわたしたちには理想や崇高なるものへの希求は強く、そこに
現実との葛藤が生じてゆく。真摯に生きるかぎり、それを回避することはできない。詩作の場合
も崇高なものへの希求と濁世との葛藤は重要なテーマとなる。
 例えば法華経信者であった宮澤賢治も理想と濁世との葛藤を秘めている。ドイツの詩人ヘルダ
ーリンも信仰と理想と現実との狭間で煩悶しつづけ精神を病んでしまった。
 またこの人間存在自体がア・プリオリにもつ「原罪」は宗教上でも信仰の根底をなしているは
ずだが、詩作上でも抜き差しならぬテーマやモチーフとなり、疼きつづけることは確かだ。広義
の宗教と詩は深く繋がりつづけていくともいえる。
 さらに東西を問わず、自然イコール神という捉え方がある。この観念をふまえた詩は限りなく
多い。世界は闇と神秘に溢れている。真実を追究する詩も宗教世界を避けては存在できないのか
もしれない。 

4.掲載詩
野草             P48
石井眞弓
地磁気の上
群生している野の草
常に
太陽の位置を測定
陽にまっすぐ顔を突き出す
土地争いは残酷
表裏一体
ほかの野草を亡きものにしても
四方八方に根を張る

 長寿 太い幹 水平に延びる樫の木か
 華やかに咲き またたく間に散る櫻か

散り急ぎたくない
蝶をはびこらせ確保たる継承を見て

春夏秋冬を味わいたい
真夜中
バンドネオン奏者のかなでる
アストル・ピアソラのアルゼンチンタンゴ
「タンゴ・・ゼロ・アワー」を蛍と組もう
根の中心は
発芽の時間を計算している

新年の荒野      P186
秋谷 豊
やがて朝がやって来る
男の荒野
女の谷間にも
朝は来た 空や雲といっしょに―
ああ 新年
雲ひとつないこの日 キクがにおう
ふたたび始まる時のなかで
川の流れは こんなにも激しい
幾世紀ものあいだ同じように
川は流れてきた
人はその川の中を流れ下だってきたのだ
澄んだ水
澱んだ水
深い水
だがぼくたちの心の川は
もはやむかしの川ではない
われわれの国の文明の荒廃した新年
そして雲が拡がるこの日
キクは静かに におい
その花や川のことばに
ぼくたちは耳をかたむける
ざらつく街では青年たちが
一杯のコーヒーをなかに
革命やテロや飢えのなかになくした夢の話をしていた
広場に大きなケヤキがあったが
いつのまにかなくなった
ケヤキは切られたのか
枯れたのか
悪い空気にやられたのか
だがぼくたちと空気のあいだのこだまは
大きく拡がる
本当に 本当に 空は巨大な夢なのだ
そのはるかなこだまをひきもどすために
時の川の流れは次の行へとうつっていく

山の家          P190
秋本カズ子
古い峠道
ふもとに山の家がある
キッチンは はやりのセットもの
自炊道具が少し
米 みそあれば当分暮らせるところだろう

四方の窓をあけ
峠からおりてくる風を入れる
ほそくくねった道を小一時間上がると
ひとかたまりの集落がある
沢の水をためて
肩を寄せ合っている暮らしだ
飾りもののない部屋で
長い間身につけた
肩の荷をおろしている
山を登り 谷をおりた崖に
細々と立つ心がしなった
野の花を一輪生けたら
勝るもののない部屋が
春の花であふれた

まちの家は
沢山の道具があふれている
一瞬につぶされる量だけれど
捨て切れずまとうのも重い
峠のほのかなあかりの下では
体ひとつで生きる暮らしが
山はだにはりついていた

茅が岳        P192 
石井弘知
ススキの銀世界に頭を覗かせ
人目を引く山容なのに
ニセ八ツと呼ばれている
落ち葉に埋もれた
くぬぎ林の道
女沢のしたたり
稜線に上る
山影が樹海に落ちている
「深田久弥終焉の地」
朽ちた木柱にひざまずく
南アルプスのシュルエット
「人知れず存在して
擦れたところがない
私が求めるのは
非流行の山である」
彼は心から愛した山で果てた
山靴に荒らされることを恐れ
百名山の外に置いた
茅が岳で

水晶岳           P192 
石井弘知
有明の月が赤牛岳の背中で
手を振っている
花崗岩の砂礫の路
深い雲海の底から
真っ赤な光の球が
岩峰の緑を目覚めさせ
行く手の雅な山稜を彫る

分岐の地蔵に合掌
やせ尾根を攀じる

首にかけた銀の鎖は
雪と岩と這い松の根元から
滲み出てきた雫が
縒り合わさってできたもの
エメラルドのペンダントが黒部湖
小細工を飲み込んだ
自然の大きさ
白く光る燕岳は幻想の館
越えてきた連なり
翔んで振りかえるだろう
水晶岳

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