POEM

長谷川龍生の宮沢賢治論

日本文学学校詩講座にて
平成14年3月28日

 晩年の宮沢賢治は独善的なところがあって、最終的には釈迦になろうとしていたのではないか
。「アメニモマケズ」の詩の最後には、「南無妙法蓮華経」の8行が入っていたが、父親の政次
郎氏がそれを削除して世に発表した。それが入っていたら、あれほどは有名にならなかったかも
しれない。
 宮沢家は質屋と古着商を営んでいて裕福であった。また浄土真宗の信者でありながら、花巻地
方にあった新興宗教の黒仏も信仰していたことから、浄土真宗宗徒にはよく思われていなかった
。これらのことから、周囲から孤立していた。そんな状況と自らが病もちであるこの救いを、賢
治は宗教に求めた。それが人類の救済思想へと発展したのであろう。法華経思想とも一致してい
た。
 賢治と似た境遇にあったのが梶井基次郎である。賢治は37歳で亡くなったが、基次郎は31
歳で亡くなっている。父親は鳥羽造船所の所長あったことから、やはり裕福な家の出身である。
基次郎も賢治も肺病を患っていた。病気のためであろうが、基次郎の小説は非常に暗い。暗いが
小説としては優れていた。賢治には、かっての東北農民の暗さを超えた明るさがあった。これは
宗教性によるものであろう。基次郎は死ねばそれまでであり、賢治には天国があった。
 宮沢家はいろいろな事業に成功し、花巻地方で現在も繁栄を続けている。宮沢賢治記念館の運
営も行っていて、賢治の名声とともに繁栄しているといえる。ある意味で賢治の名声を事業に利
用してきた面もある。
 賢治がはじめて東京に出てきたとき、浄土真宗のお寺に下宿するが、その後居場所を幾度も変
え、最終的には日蓮宗の急進派指導者の家に落ち着く。そこで布教のための童話執筆を奨められ
る。それから猛烈な勢いで童話を書くことになる。
 賢治は自分でお金を稼ぐことはなかった。家からの仕送りで生活していたのである。そのこと
からは、家族離れせず、同族意識が強かったといえる。
 小岩井農場は三井財閥が経営していたことから、近代農業の推進がなされていた。賢治はそれ
を見て、農業技術者であったこともあり、そういうものを目指したのであろう。賢治は花巻農学
校を卒業した農芸化学の専門家でもあり、肥料を開発したが、農民にはお金がなく、売ることは
できなかった。現在の北上川流域は、コシヒカリ、ササニシキの一大穀倉地帯に変貌した。これ
は土壌の入れ替えと品種改良によるものである。東北地方はヨーロッパ的な明るさをもつように
なってきた。他の地方のように過疎化が進んでいるといったこともない。このことからは、宮沢
賢治の理想は実現したといえる。小岩井農場牛乳はどこのスーパーでも売られている。雪印は小
岩井農場に打ち負かされたともいえる。
 賢治には宇宙からの電波を感じる超能力があったようだ。そこからいろいろな作品が創り出さ
れた。一方、結婚もせず、戦争に行くこともなく、親からの仕送りで生活をし続けたことを考え
合わせると、賢治作品にどことなく物哀しいさを感じるのである。

注:長谷川龍生先生の講義をメモ書きしてまとめたものなので、聞き違いの点もあるかもしれな
いことを、ご了承下さい

記 前川整洋


戻る