ミナハサ事情について(1)

Ikhtisar Minahasa pada tahun 1939 (1)

南洋庁長官官房作成 解説:北スラウェシ日本人会タルシウス編集部

昭和 14 年(1939)といえば今から 79 年前、⽀那事変がはじまってすでに 2年経過し、⽇本を取り巻く国際情勢はかなりキナ臭くなってきた時期です。昭和16年12 ⽉の真珠湾攻撃とそれに続くメナド攻略まであと 2 年余、植⺠地蘭領東印度(以下蘭印)の⽀配者であるオランダ当局も、⽀那⼤陸での⽇本の動きに神経を尖らせつつありましたが、北セレベス地⽅(以下、ミナハサ地⽅)では⺠間⽇本⼈による⽔産・農 林・商業などの事業が活発に展開されていました。

ミナハサ地⽅は当時、蘭領東印度とよばれたオランダ植⺠地の⼀⾓で、バタビア(現 ジャカルタ)の蘭印政庁の統治下にありました。ミナハサ地⽅の北東⽅向にはマルク海を隔ててハルマヘラ島、モロタイ島があります。その向こう側はミクロネシアとよばれる、多くの島々が散在する広⼤な海域で、当時は⽇本の委任統治領でした。また、ミナハサ半島の北⽅はフィリピン群島で当時はアメリカの植⺠地です。セレベス島の⻄⽅は⼤島ボルネオ(現カリマンタン島)で、ここもオランダとイギリスが分け合って⽀配する植⺠地です。

ミクロネシアを統治する⽇本は、パラオ群島コロールに南洋庁を構えて南進政策を進めていました。パラオ島という南洋開拓の中⼼地から⾒れば、アメリカが統治するフィリピン群島も、オランダのセレベス島他マルク諸島も、いわば「お隣の島」という感じです。⼈々は⽀配境界線を気にすることなく気軽に出⼊りしていた様⼦です。(もちろんそれなりの⼿続きは必要でしたが) たとえば、パラオのカツオ船で働いている若い漁師が、⼝コミなどで北セレベス・メ ナドの景気がよさそうだと⽿にして、「それなら俺も⾏ってみようか」と渡って来るのもいたでしょう。すでにビトゥンのカツオ船で働いている知⼈の呼び寄せ、という ケースもあったことでしょう。

漁師だけでなく、船⼤⼯、⻭医者さんや雑貨商など、メナドで⼀旗揚げたいという夢をもって多くの⽇本⼈が北セレベス・ミナハサ地⽅に⼊ってきました。昭和 14 年 時点で⽔産・農林・商業部⾨にかなりの⽇本⼈がミナハサ地⽅に滞在し、それぞれの 分野で実績もあげていたわけですが、その実態を把握したいと考えたのか、南洋庁は 調査を実施しました。(当時すでにメナドに⽇本国領事館あり。)
その報告書が「ミナハサ事情」と題されたこの調査報告書で、60 ページに及びます。 今号と次号でその内容をご紹介したいと思いますが、調査項⽬が広範におよんで、各項⽬をみると上滑りのような深みのない記述もみえます。「地勢」や「気象」の項⽬はあまりにも粗雑な上に、気温や湿度など細かい数字の羅列もあるのでここでは省きます。 物⾜りない部分もありますが、それでもおよそ 80 年前、太平洋戦争が始まる直前の ミナハサ地⽅の様相がうかがえる貴重な史料であることに間違いありません。 ということで、今回はこの報告書を会員の皆様に紹介します。

(報告書の漢字や⽂章などは旧字体旧⽂体で現代⼈には⾮常に読みづらいので適当 に改めました。また、「⼟⼈」とか「⽀那⼈」など、当時は悪意もなく普通に使⽤さ れていた⽤語もここでそのまま使うのは憚られるので、「現地住⺠」「華⼈」と改めま した。)

ミナハサ事情

(昭和14年8⽉ 南洋庁⻑官官房調査室)

    1. 位置・⾯積および⼈⼝(省略)
    2. 地勢(省略)
    3. 気象(省略)
    4. 住民
    5. 統治
    6. 宗教・教育
    7. 衛生
    8. 交通
    9. 産業
    10.在留邦人および拓殖事業の現況
    11.地誌

では第3項の「気象」から紹介いたします。

3.気象

ミナハサの海岸地帯は熱帯気候で暑熱強く、海抜 1,000mの⾼地においては、年間の平均気温が 73 度(摂⽒ 22 度)程度である。 ⾬期は⼤体 10 ⽉にはじまり翌年 6,7 ⽉に終わる。7 ⽉の初旬あるいは下旬より 9⽉あるいは 10 ⽉の終わりまで乾燥期である。

4.住民

ミナハサの住⺠は前述のとおり 379,753 ⼈と称せられ、そのうち⼤部分を占めるのは現地住⺠である。それ以外の外来⼈は⽇本⼈ 372 ⼈、欧州⼈ 2,449 ⼈、華⼈ 10,715 ⼈、その他東洋外国⼈ 1,011 ⼈である。
オランダ⼈が領有国⺠(⽀配国国⺠)として政治、社会、経済的に有⼒な地位にあることはもちろんである。
⽀那事変以後、オランダ⼈の対⽇感情が極めて悪化し、極度の恐⽇病に侵され、最近、急に防空演習も挙⾏され、⼩学校その他の重要施設には塹壕あるいは地下室を設け、空襲に対する防衛設備および防空思想の涵養を⾏いつつあるという。聞くところによれば、最近トンダノ湖畔のカカスに⾶⾏場を新設し、あるいはトンダノのガソリンスタンドのタンクを満たし、また、帰休兵を動員してメナド市に兵員 200 名を増員したということである。以上の⾵説よりして、オランダ⼈の対⽇感情の⼀端も察知されるであろう。

それ以外において最も注⽬すべきは宗教である。華⼈は概して仏教徒であり、アラブ⼈はイスラム教徒に属する。
 今回の⽀那事変によって蘭印における華⼈の⽇貨排斥その他の排⽇的な⾏為は、当州の華⼈の勢⼒が⼤きいこともあって相当に猛烈をきわめている。
 現地住⺠(ミナハサ⼈)は現在においてはほとんどキリスト教に帰依し、教育も⽐較的普及し、開化の程度においては蘭領東印度住⺠の中ではもっとも進んでいる。 オランダ⼈に反して、現地住⺠はほとんど親⽇の態度を持ち、⽇本⼈に好感をもっている。これは⼀⾯、蘭印政府の苛斂誅求に対する反感からきたものであろう。

5.統治

    イ.ミナハサラート

ミハハサ分州は唯⼀の蘭印政府直轄地である。当州のなかにはメナド郡,トンダノ 郡、アムラン郡の三郡あり、これを合わせてミナハサラート(⾃治圏体)を構成している。 しかし⾃治領と称しても、単に蘭印政府に対してある程度の独⽴性を有するという程度で、近代的⺠主主義思想に基づく⾃治制度ではない。 ミナハサ議会においては、ミナハサ副理事官(副知事相当︖)が議⻑である。

    ロ.裁判

裁判は「証拠裁判」である。証拠のない場合はいかに理屈が整然としていても敗訴する。裁判を有利に導くためには、かなりの証⼈を得ることが必要である。 裁判をメナド市以外で⾏う場合は、コントロール(判事︖)が⽇を定めて出張する、 いわゆる巡回裁判で、陪審制度を採⽤しておりしかも即決裁判である。

6.宗教・教育

宗教はキリスト教であるが、新教(プロテスタント)旧教(カトリック)にわかれ、 いずれもしのぎを削って布教に従事している。 各部落には⼀つ、またはそれ以上の教会が必ず設⽴されている。冠婚葬祭はいずれもキリスト教によって執り⾏われる。しかし、ケマの住⺠のみはイスラム教徒である。 イスラム教徒はいずれも団結⼒が強く、華⼈につぐ実⼒をもつ。最近、経済的実⼒よりも 政治的進出を企画して、「アジア⼈のアジア」を標榜し、彼ら⾃⾝による⾃治を考えている。

① ミナハサ州は著しく⽂化が進み、教育も普及している。当州の⼩学校は次の 四種がある。

    (1)7 年制オランダ官⽴学校
    (2)7 年制私⽴オランダ語学校
    (3)3 年制官⽴⼩学校(マレー語)
    (4)3 年制私⽴⼩学校

(1)(2)はオランダ語を⽤いて教育している。(3)は主な街に 17 か所、(4)は各村⽴、キリスト教系あわせて 175 校ある。

② 師範学校

⼊学資格は 5 か年(︖)のマレー語⼩学校を卒業した者と定められている。授業料 は 1 か⽉ 5 ギルダー、この中に⾷費およびノート、ペン、鉛筆、インキなど学⽤品⼀ 切を含む。
課程は男⼥共通、科⽬は教授法、オランダ語、博物、⾳符、建築、化学、家政学など。 修業年限は 4 年。
卒業⽣は更に資格試験を受け、合格した者は 2,3 年教員をつとめたあと校⻑となる 資格ができる。

③ 神学校

⼊学資格は 5 年または 7 年の⼩学校を卒業した者と定められ、修業年限は 9 か年 または 10 か年である。卒業⽣は牧師となり、⼩学校の先⽣以上の権威をもって尊敬される。

④ 中学校

⼊学資格 ① ミッションスクールの卒業⽣は無試験。②5か年の⼩学校卒業⽣。 ③KVIS 官⽴学校卒業⽣。授業料、⾷費、学⽤品など合わせて⽉に 25 ギルダーを徴収。

⑤ ⼯業学校

徒弟学校に近いものである。⼊学資格は 3 か年のマレー語⼩学校終了程度。授業料 は⾷費などあわせて 15 ギルダー50 セント。修業年限 3 か年。

⑥ 農業学校

⼊学資格、修業年限など⼯業学校と同じ。

⑦ ⾼等学校

当地⽅に⾼等教育の機関はなく、中学を卒業して⾼等学校に進みたい者はバタビア (現ジャカルタ)の⾼等の諸学校に進むしかない。

7. 衛⽣

ミナハサ地⽅は⾚道直下の熱帯圏内にあるにもかかわらず、気候はきわめて快適にして温帯に慣れた者(例えば⽇本⼈)もほとんど暑さで苦痛を感じることはない。⼟質は⽯灰質または砂質のところが多いために⽔質も良好である。
 他の蘭印諸島に⽐べて⾵⼟病も少なく、蘭印東印度中随⼀の健康地と称されている。 病院はメナドに官⽴病院1、現地⼈医師(医院︖)2 名である。トモホンにプレ⼿ スタント系、カトリック系の病院があって、医療を布教の⼀⼿段としている。ソンデルにはプロテスタント系の病院があり、トンダノには現地⼈医師がいる。プロテスタント系の病院は⽐較的親切で、設備も整い、費⽤は極めて安い。
 病院として特筆すべきは、ノーガン村のサナトリウムである。このサナトリウムは、 オランダの統治下になって 250 年の記念に、オランダ⼥王からの御下賜⾦で設⽴されたもので、レントゲンなども最新式のものである。

8. 交通

陸路の交通は不完全にして、現在においてもセレベス島全体に鉄道線路は敷設されていない。したがって陸上の交通は⾃動⾞に頼るしかない。
ミナハサ地⽅においては⾃動⾞道路の開設は統治当局が最も重視する政策であるの で、将来相当に発達する⾒込みがある。道路開設には多くの現地⼈労務者を使⽤している。
旅⾏者の宿泊施設としては、メナドに欧州⼈、華⼈、⽇本⼈のホテルがそれぞれ⼀ 軒ずつある。なお、各地にはパサングラハンと称する間接宿舎があり、欧州⼈および 欧州⼈対等国⺠に対しては実費を徴収して宿泊させている。ゆえに、宿泊所に関して は⼤きな不便はない。
海上交通は、沿岸航路にあたるものはKPM(オランダ王⽴汽船)と現地⼈の⼩⾈がある。
外国航路にあたるものは、KPMのほか、ジャバ・チャイナ・ジャパン、⽇本郵船および南洋海運などがある。

現時点の⽇本関連航路は

    イ.ジャバ・チャイナライン・・・神⼾・メナド直⾏他2航路
    ロ.⽇本郵船南洋航路・・・・・ パラオ、ダバオ、タワオで神⼾・メナド間
    ハ.南洋海運株式会社・・・・・パラオ経由でメナドに⽉ 1 回寄港

現地住⺠の⼩⾈はこの地⽅でプラウと称する「くりぬき⾈」である。このプラウお よび帆を⽤いる当地伝統の⾈航は、昔はそれなりの発展をみたが K.P.M.の⼤型汽船が 当地の沿岸まで航路網をひろげたことにより、現在はほとんど重要性を失った。 K.P.M.の蘭印領内航路は、メナドを起点として、メナドージャワ航路 2 週に 1 回、 メナドーマカッサル航路 2 週 1 回、メナドーサンギ・タラウド航路付き 1 回と就航 している。

    * K.P.M.の概況 ︓ 設⽴ 1888 年、資本⾦ 50,000,000 ギルダー、所有船 142 隻、
    * ジャワ・チャイナ・ジャパンラインの運賃 ︓ 当社の乗客運賃表は 3 種あって (経路の違いによる)、そのうちのメナドに寄港するルートの運賃は次の通りである。

(等級は⼀等A,B,C,⼆等、特別三等、三等の 6 等級がある)
⽇本の始発港である神⼾からメナドまで、⼀等Aは 175 ギルダー、最下位の三等は 57 ギルダーで、約3︓1の割合になっている。

⽇本―パラオージャワ線の寄港地
神⼾発―⾨司―釜⼭―パラオーメナドーマカッサルースラバヤースマランーバタビ アーパレンバンーパダン
⽇本―台湾―ジャワ線
神⼾-⾨司―釜⼭―基隆―⾼雄―⾹港―サンダカン・タワオーバタビアースマランー スラバヤーマカッサル

9 産業

ミナハサ地⽅においては⼤昔アルフール⼈の勢⼒が⼤きかった時代は狩猟⽣活を 営んでおり、⾸狩りの蛮⾵も⾏われていた。この蛮⾵は⽐較的最近までおこなわれていた。しかしオランダの統治が始まり、キリスト教牧師による教化事業が進むにつれ てこれらの蛮⾵も次第に衰え、また⼀般的教育も普及して、現代においてはむしろ(ミ ナハサ地⽅は)セレベス島中近代化が最も進んだ地域であるが、現地住⺠の農業知識の⽔準はまだ遅れている感がある。

    イ.農業

当地⽅の農業(農産物)は⼤まかに⾔って、ヤシ、コーヒー、チョウジ、タマネギ、 コメの 5 種に分けられる。近年は⽇本⼈の進出によって野菜類も栽培されるようになった。
農作物の分布状態から⾒て、海岸に近い低地帯はヤシが多く、⽔が豊富で地形がよく肥沃な地帯には⽔⽥がある。
⾼地地⽅はコメを主産物とし、次いでコーヒー、チョウジ、タバコ、タマネギなどを産する。

    ロ.林業(省略)
    ハ.水産業

漁業についてはこの地⽅は相当に発達している。特に近年、邦⼈漁夫がメナド付近 に進出してかつお漁業に全⼒を注いだ結果、今やこの地⽅における⿂類の供給を独占するほどの状況である。
現地住⺠の漁業については⾒るべきほどのものはなく。いずれも零細規模でカヌー を使⽤している。漁⺠はメナドとケマの付近に最も多い。漁具は⼀本釣り、網(引き 網、刺し網など)で、漁獲物はカツオ、マグロ(少量)トビウオ、イワシ類、サヨリ、イカその他雑⿂が多い。
現地住⺠の漁船はケマの付近に最も多く、30数隻ある。漁船には10~13⼈が 乗り組む。これらの漁船はそれぞれ⿂倉に餌⿂を活かして出漁するが、そのほかに餌 ⿂を持たない⼩型のカヌーに2~3⼈乗りこんで出漁する。⼩型のカヌーは⼤型カヌ ーと⾏動を共にし、常時そのそばについてカツオを漁獲し、漁獲の20%を親船に供 出。この種の⼩型カヌーはきわめて多い。

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