ミナハサ事情について(2)

Ikhtisar Minahasa pada tahun 1939 (2)

南洋庁長官官房作成 解説:北スラウェシ日本人会タルシウス編集部

第10章 在留邦⼈および邦⼈拓殖事業の現況

A. 在留邦⼈

ミナハサに存在する邦⼈団体は次のとおりである。

    1 社団法⼈メナド⽇本⼈会
    2 セレベス産業協会
    3 メナド商業会議所

(1) メナド⽇本⼈会

蘭領印度法にもとづく邦⼈組織。現在、南洋貿易株式会社メナド⽀店⻑の稲垣⾠夫⽒を会⻑とし、会員数は191名である。左に昭和13年8⽉調べによるメナド在留邦⼈名簿を掲げる。

稲垣 ⾠夫 南洋貿易 柳井 稔 ⼆葉商会 ⽜⽥ 藤三 ⼤岩造船
細⾕ 定次 上園 勝治 倉元 国義
中野 正 菅原吉三郎 ⽔井 義雄
紫⽥鉄四郎 セレベス興業 ⼩島 正義 ⾼橋 嘉善
⻑野 智 弥栄 貞三 加治政⼆郎
合⽻井興之吉 宮地 貫道 棉花栽培 ⼤岩 勇 ⼤岩漁業
⼤友 登 ⼭本 典次 ⾦城泰次郎
⽩井 ⼤助 中尾 良⼀ 城間 清吉
⾚樫 繁治 森⽥⻲三郎 ⻑嶺 直三
鷲⾒ 正 伊藤俊太郎 カラセ農園 屋⽐久孟吉
︖ 徳炎 若菜 春時 ⼭城 諫雄
天⽻兵太郎 上⽥ 勝造 上⽥農園 名嘉 清松
⼭本 益雄 川辻 欽⼀ 池原 盛益
藤崎 末雄 ⽅倉 喜⼀ 新垣 清栄
新川 次郎 ⼤岩漁業 ⽷数⽵三郎 ⼤岩漁業 ⼤城 嘉真
新垣 五郎 伊是名 松 祖慶 ⻑盛
⾦⼦ 好松 理髪店 弥栄 貞次 ⽥畑 並順
⽟城 林⼀ 与那嶺 徳 兼城 福松
冨⾥ ⼲徳 与那城樽福 ⽟城 親信
上間 豊吉 与那嶺 亨 ⾼良 三郎
照屋 善利 上原 ⻲造 ⾦城清次郎
伊芸 安章 ⼤岩漁業 上原 ⻲助 ⼤岩漁業 ⽟城 安盛 ⼤岩漁業
上原 武雄 仲宗根松吉 出盛 康儀
古波蔵義⼀ 新垣 清吉 新川 清繁
吉⽥ 光盛 ⽥畑 盛順 ⽟城 幸新
仲村渠将廣 仲⽥清次郎 梅原 武助
南⾵原建康 ⽐嘉 樽 宮⾥ ⻲蔵
宮平 秀松 ⼩嶺 貞雄 上原 ⻲
上原 徳吉 ⼤城 博忠 ⽟城 ⻲蔵
⽟城 善吉 ⽟城 良雄 ⽟城誠七郎
⽟城 正次 上原 幸三 上原 満雄
⻘⼭ ⾠⺒ 中村 久吉 ⼭本 正輝
渡名喜 武 ⽐嘉 良⾦ ⽟城 喜⼋ ピジャク漁業
我喜屋武秀 ピジャク漁業 ⽟城 光夫 ピジャク漁業 上地 重順
古波蔵清吉 池⽥ 増蔵 譜久村清盛
池⽥ ⻲吉 宮城 幸正 名嘉 良明
⽟城 利勝 伊禮 良貞 伊禮 隆得
崎⼭ 喜正 ⽟城 ⻲範 ⾼良 三郎
中⾥ 孝吉 ⽐嘉 加真 名嘉 ⽜仙
池 春利 ⽇蘭漁業 池⽥ 忠好 ⽇蘭漁業 嶺 彦太郎 ⽇蘭漁業
悦 重義 悦 作次郎 0久 武則
儀間 増盛 中川 常吉 古波蔵市栄
伊佐川福盛 ⻄江 英保 島袋 松盛
宮城 喜保 ⼭内平次郎 ⽐嘉 正雄
親⾥ 次郎 仲川 正雄 末吉 蒲⼀
⻄江 孝栄 ⻄江 栄吉 ⾦城 吉正
⻄銘 仁盛 郁 池信 郁 信義
悦 重義 池 前国 嶺 善吉
池 ⻑英 池 栄良 池 春⾥
溜 義則 仲 永信 池 正吉
嶺 住英 満 彦熊 満 為典
⼭⽥ 稔 巴商会 野村 忠⼀ ⼤⼯ 秋⼭ 理 ⻭科医
⼤⾕ 茂 正⽥ 朝寿 ⾦⼦商店 堺⽥ 春
⻄浜 岩⼀ ⾦⼦ 繁男 ⽵中太郎吉 ⻭科医
畑⽥ 利男 ⼩熊 利重 本⽥ 博
⼩⼝ 久 加藤 清 ⼩林 常⼋ ⼩林農園
加来亥太郎 宮井源太郎 巴商会 ⼤⼭ 孝 雑貨商
中尾 友信 雑貨商 有光 武熊 セレベス農園 宮井源太郎 巴商会
今吉 国治 ⾦⼦ 誠⼀ 野⽥ 正雄 南貿農園
⼭⽥ 正雄 00000 岩⽊  
⾼⽥喜⼋郎 ⼤滝 セレベス興業 宇野  
池崎 敏⼀ 森 孫太郎 ムゴンドウ農園 栗本 ⽔⾞業
有光亥三郎 森 貫次郎 栗本 唯助 農園
河合 堅治 コーヒー園 ⽯橋理⼆郎 菅復 寛⼀ ハロ
⻑⾕部鉄蔵 桶泉 荘平 ⼆葉商会 坂⼝ ソヤ 不詳

職業別分類表 ︓ (省略)

本会(メナド⽇本⼈会)の事業としては現在、⼩学校を経営している。校舎は邦⼈・宮地貫道⽒の借地⼀町歩中に建築し、昭和11年、外務省より建築費として2,500円、教育費とし て600円の補助を受けた。⽇本⼈⼩学校の概略は次のとおりである。

    校⻑  宮地 貫道    上海⽇⽇新聞社⻑兼棉作業
    主任  上野 訓導    ⼀灯園托鉢⽣ 無給
    助⼿  ⼭⽥ やす⼦    ⼥⼦⼤出
    児童  19名。内6名は学校に寄宿

児童の⼤部分(15名)はミナハサ⼈を⺟とする関係上、ほとんど⽇本語を理解せず、教育上 すこぶる困難であるため、3カ年を経過すれば⼀部の優良児を内地に送り、将来の植⺠地教育 担任者として育てようとする計画がある。邦⼈教育については、財政的にすこぶる貧弱である ⽇本⼈会にまかせるのは考慮すべき問題で、将来、地理的その他の点において最も密接な関係にある南洋庁において、教員の派遣またはある種の援助などを要すべきものと思われる。

(2) セレベス産業協会

メナドを中⼼としたセレベス島北部およびハルマヘラ島⽅⾯には年来、⽇本⼈多数在留し、農 業、漁業、商業等に従事しているが、現在においては漁業以外の業種は経営困難で、特に農園 経営では放棄した例もある。しかし蘭印セレベス⽅⾯は我が南⽅経営上きわめて重要であることは⾔うまでもなく、在留同胞も深くこの点を憂慮して、このたび⾃発更⽣を図るべくその第 ⼀歩として当会を設⽴したものである。
同協会の⽬的は左記定款規定のとおりで、会員数も左記のとおりである。

    紫⽥鉄四郎   セレベス興業専務
    柳井 稔   ⼆葉商会代表
    江川 俊治  ハルマヘラ江川農園主
    上野 泰   セレベス興業重役
    ⼤岩 勇   ⼤岩漁業合名会社代表
    稲垣 ⾠夫  南洋貿易メナド⽀店⻑
    宮井源太郎   アロン農園主
    ピジャク漁業組合

    定款 (省略)

本協会の設⽴当時は在留邦⼈の⾦融機関として嘱⽬されたが、元来資本⾦に乏しく、しかも在留邦⼈の資⾦難は予想以上に深刻で、数年後には破産を免れないようなのもある。従って、同協会の貸付⾦は回収の⾒込みは少ないと云う。

(3) メナド商業会議所

情報収集機関として設⽴された。蘭印政府に公認された役員は左のとおりである。

    会頭: 南洋貿易 (稲垣⾠夫)
    副会頭: ⼆葉商会 (柳井 稔)
    理事: ⼤岩漁業、巴商会、⾦⼦商店、南太平洋貿易株式会社

B. 邦⼈拓殖事業の概況

(a)農林業

ミナハサ州における永借地(農林業⽤地などとして蘭印当局が貸した⼟地)は87か所で、 合計⾯積は 19,097 バウ(約1万9千ヘクタール)である。その中、邦⼈農園の総⾯積は 3,783 バウであって、ミナハサ州永借地全体の約19%を占める。現在の農園はいずれも往年のコプ ラ好況時代に開発されたもので、ヤシの栽培を⽬的としている。 以下、ミナハサ州における邦⼈経営の農園(昭和11年度調べ)は左のとおりである。

(1) 南洋貿易株式会社ボンコール椰⼦園

    所在地 ︓ アムラン町の対岸ボンコール
    借年限 ︓ 75カ年
    租借⾯積 ︓ 1,200バウ(=約1200ヘクタール)、内900バウはヤシ園完成、 未整地300バウ。
    年産量 ︓ 約300トン
    年産額 ︓ 昭和11年度時点では30,000ギルダーであったが、現在は市場の暴落に より3分の1の10,000ギルダーに減少。
    植樹本数 ︓ 50,000本
    種 類 ︓ 在来種
    地 質 ︓ 地質は複雑。マングローブ地帯接続地はおおむね肥沃であるが、⼭地は粘⼟ 質で悪地である。
    労働者 ︓ 約130名
    ⽇給平均 ︓ 25セント + ⽶⼀合(妻帯者は半⽄プラス、また、⼦供⼀⼈につき四分 の⼀増)
    備考 ︔ 園内の地形は複雑(最⾼地は標⾼200メートル)でヤシ果の運搬に不便であ るた園内各所に乾燥⼩屋を11か所設備。ヤシ樹間は6間(約11メートル)

(2) セレベス興業株式会社マンキットパザン椰⼦園

(3) カラセ農園

(4) ケロレンダー⼩林農園

(5) 上⽥農園

(b) 商業(商社)

主な業者は、南洋貿易株式会社および⼆葉商会の 2 社。概況は次のとおりである

(イ) 南洋貿易株式会社メナド⽀店

設⽴: ⼤正 4 年(1915)

⽀店⻑: 稲垣 ⾠夫 (岐⾩県出⾝)

資本⾦: 500 万円

主要事業:

備考 邦⼈店員 3 名。マカッサルに出張所。コプラ市況暴落のためやや不振。

(ロ) ⼆葉商会

設⽴: 昭和 8 年(1933)

⽀配⼈: 柳井 稔(兵庫県出⾝)

事業: 雑貨を輸⼊、コプラを輸出

備考: 邦⼈店員 3 名。サンギル島に⽀店あり。

(c)海運業

セレベス興業合資会社が5万ギルダー出資し、紫⽥鉄四郎、マレー⼈ビンセキの2名が設⽴した沿岸航路の株式会社があり、コプラの買い付け・運搬をおこなっている。
営業成績は良好であるが、近年、K.P.M(オランダ資本の王⽴汽船株式会社)の航路独占意欲が強く、(当社の)新規就航(認可取得)は難しくなっている。
現在の就航船はノビル丸(120トン)、豊年(100トン)の2隻、他に3隻が係船中。 「ノビル」「豊年」は、北セレベス、サンゲル、テルナテの沿岸航路に就航、ミナハサ、ピン ダン、マンキットの3隻は許可されず、メナド港沖合に係船中である。

(d)⽔産業

ビトゥンに⼤岩漁業、⽇蘭漁業会社、ピジャック漁業組合の三つあり、その概況は次のとおりである。

(イ)漁業の種類    かつお漁業

(ロ)漁船数     ⼤岩漁業 4隻      ⽇蘭漁業 1隻      ピジャック 3隻

(ハ)従業員数

  邦⼈ 現地住⺠    
⼤岩漁業 70⼈ 223⼈    
⽇蘭漁業 28 58    
ピジャック 30 62    

(ニ)同地漁業の特典

前記8隻の漁船は従来、オランダ国旗のもとに操業していたが、昨年8⽉末より⽇本国旗を掲 揚することに定められ、同時に (1)不開港地であるビトゥンを特別に(⽇本漁船の)根拠 地として使⽤することを許可、(2)漁獲物の輸⼊税は免除されること、(3)領海内において (外国漁船が)餌⿂を捕獲することは禁じられているが現地住⺠から購⼊することは許可され ること、(4)蘭印政府から何らかの指令があるまで当分の間、ケマ、タリセイ島の⼀部沿岸 漁業が許可されること、の特典を受けた。

(ホ) 地⽅官憲との関係

ビトゥン在留邦⼈漁業者と地⽅官憲側との間柄はおおむね良好である。但し、沖縄、南洋群島 からの漁船に対しては、メナド、サンギル群島、ビトゥンその他において、これまでに時々ト ラブルを起こすことがあったために、右の外来漁船に対する当地官憲の態度は、事故があった ときにこれを政治的に曲解することが多く、相当悪化している状態である。
(以上、報告書を転写.( )内は編集部注記 )


編集部付記

前号に引き続き、南洋庁⻑官官房によるミナハサ地⽅調査報告を紹介した。 「タルシウス」前号では「第9章 産業」の前半部までの紹介で終わった。第9章の後半部は 統計の細かい数字がたっぷり並んでいて、⾒るだけでめまいを起こしそうなのでそこはパスして、今号では第10章「在留邦⼈および邦⼈拓殖事業の現況」を紹介した。ここでは当時のミ ナハサ地⽅における在留⽇本⼈とその活動状況が報告されており、この報告書の核⼼部分とも いえる。

在留者名簿で⾒てとれるように、規模的に⾒て在留邦⼈経済活動の主体は漁業(かつお漁業) であった。しかし、漁業だけでなく、農林業とそれに付随する商社の活動も盛んであった。オ ランダ統治時代、蘭印中央政庁はバタビア(現ジャカルタ)にあり、バタビア中央から⾒れば セレベス島は遠いへき地である。オランダ当局としては、外国⼈(⽇本⼈)でも⼊植し未開地 を拓いてくれたらありがたい、ということであったのかもしれない。主にココヤシやコーヒー 栽培を⽬的とした⼤農園が⽇本企業の名でミナハサ州のそこかしこに拓かれた。 ミナハサ地 ⽅に⼊植したのは⽇本⼈だけではなく、ミナハサ半島東北突端(リクパンの東)のマリンゾウ 村付近、メナド市⻄⽅のタナワンコにもオランダ系あるいはドイツ⼈経営の⼤農園があった。 報告書にもあるように、この時点での⽇本⼈経営農園は、合計で3,783ヘクタール、永借 地全体の19%であった。⼤規模農園の経営は⽣産物を扱う商社活動とセットになっており、 産品は⽇本輸出向けのコプラやゴム、コーヒーであった。ゴムは⽇本の戦略物資ともいわれて 重要物産であったが、⽣産地としてはミナハサ地⽅よりジャワ島、スマトラ島などの⽐重が⼤きかった。

⽇本の戦略物資といえば、「綿」の重要性に着⽬し、棉作の普及に努⼒した⼈物がいた。⽇本⼈⼩学校の校⻑として報告書にも載っている宮地貫道⽒である。宮地はもともとマスコミ⼈ (上海新聞社⻑)で、⼤陸が主な活動舞台であったが、かねてから棉作の重要性を説いて、⾃⾝も棉作の研究に余念がなかった。実は、宮地は札幌農学校出⾝の農学⼠で、以前から棉作に 並々ならぬ関⼼を持っていた。その彼が棉作の適地として南洋・セレベス島に⽬をつけたのは 時代の必然であったかも知れない。ミナハサ現地でのパートナーは⼆葉商会(南洋拓殖)の柳 井稔であった。後に、⼆葉商会(南洋拓殖)はゴロンタロに綿花⼯場を建て、⽇本向け輸出の 拠点を築きあげたが、⽶軍の空襲により⽂字通り「灰燼に」帰した。

宮地と柳井は棉作の開発と同時並⾏で⽇本⼈学校の設⽴にも尽⼒した。メナド国際空港⽅⾯からメナド市街地に向かうとき、ショッピングセンター(GIANT)の前あたりで道路が⼆股にわ かれる。左⼿に向かえば橋をわたって海軍の司令部前に出る。右⼿に向かえば川沿いにシンキ ル⽅⾯にむかう。この右⼿の道をシンキル⽅⾯向け3キロほど進むとワオノサ地区で、道路の左側沿いに⼩学校がある。この⼩学校の敷地に、宮地貫道の住居と⽇本⼈学校があった。⼤岩 富さんによると、この敷地は当時の⼆葉商会職員・クリット⽒の所有地であったらしい。約1 ヘクタールの⼟地に宮地家と⽇本⼈学校があった。(現在の⼩学校はもちろん⽴て替えられたもの)
メナド・トモホンの近郊には蔬菜⽣産を⽬的とする個⼈経営の農園もあった。メナド市など⼈ ⼝の多い都市部を相⼿に、それなりの業績をあげていたようである(上⽥農園、⼩林農園など)。 このようにミナハサ地⽅⼀帯には漁業・農業を基幹として、写真屋さん、⻭医者、⾏商⼈、⼤⼯、商店など⼩規模個⼈事業者も⼊り込んでいた。

(時代背景)

この報告書が出たのは昭和14年(1939)である。いうまでもなく「昭和」という時代の 前半は世界の歴史が激しくうごいた。「動乱の時代」ともいう。動乱の⼤波のピークを昭15 年(1940)から戦争終結の昭和20年(1945)までとすると、昭和14年というのは⼤波がすでに⽴ち上がり、波⾼が⾼まりつつある時期にあたる。⽀那事変勃発からすでに2年経過、⻄洋の政治状況もキナ臭くなっていた。周囲(アメリカ、イギリス、オランダなどアジア⼀帯の 植⺠地宗主国)の、⽇本を⾒る⽬も厳しくなってきた時期である。
この調査を担当したのは(パラオに本庁のある)南洋庁⻑官官房であった。当時の⽇本⼈・⽇ 本政府が蘭印セレベス島をどのような⽬線で⾒ていたか、その視点で読むと⾮常に興味深い報告書である。今だから⾔えることではあるが、このような時期に⽇本国は官⺠あげて南進熱に 罹っていた。「このような時期に」と書いたが、「このような時期だから」と⾔い換えてもよい か。南進熱の熱源は「時代」であったといえるかもしれない。

(⼤岩勇と南洋興発)

報告書の「在留邦⼈名簿(昭和13年11⽉調べ)」によると、漁業関係者は三つのグループ (⼤岩漁業、⽇蘭漁業、ピジャック組合)になってる。この報告書では触れていないが、⽇蘭 漁業、ピジャック組合は当時すでに経営不振となっており、⼤岩勇率いる⼤岩漁業だけが業績を伸ばしていた。ピジャック組合と⽇蘭漁業はこのあと船・乗組員とも⼤岩漁業に吸収された。 ほぼ同時期に、パラオに本拠を置く「南洋興発」が⼤岩漁業を吸収合併、社名も「東印度⽔産」 と変わった。そして、昭和17年の⽇本海軍のセレベス島進出に伴って東印度⽔産は海軍の⾷ 糧調達を担う御⽤会社となり、⽇本軍を⽀えることになった。
 南洋興発は、昭和戦前期に旧南洋群島で製糖事業を軸にして発展した会社である。⺠間企業ながら⽇本の南進国策の先頭に⽴っていた。国策の実⾏機関といってもよい。当初、事業の範囲 は内南洋(委任統治下の南洋群島)に限られていたが、ある時期から外南洋(ニューギニア、 セレベス、ボルネオなど)にも⽬を向けるようになった。その視線の先にセレベス島ミナハサ 半島(の⼤岩漁業)があった、ということであろう。
 報告書にその名がよく出る南洋貿易(南貿)は⼤正時代からミナハサ地⽅に進出、メナドに ⽀店をおいて農園経営とコプラの輸出を軸に活動していた。メナドの⽇系業界では古参の商事会社である。その南貿の本社(東京)が開戦まもなくして、南進企業の本家本元である南洋興発と合併し、南貿メナド⽀店は南洋興発のメナド⽀店となった(メナドでの社名は変わらず、 「南洋貿易メナド⽀店」)。ほぼ同時に、ビトゥンの⼤岩漁業も南洋興発の⼦会社「東印度⽔産」 となった。南洋興発系の会社としてメナドには「南太平洋貿易」もあった(進出時期不詳)。 この南洋興発系3社が、組織上どのような関係になっていたのか。東印度⽔産の⽴ち位置はどのようになっていたのか、資料不⾜でまだわかりません。
 太平洋戦争開戦時、⼤岩勇はたまたま⽇本出張中であった。開戦の気配を察していたのか何隻かのかつお漁船はかつお節⼯場の⽇本⼈⼯員を伴ってパラオに退避した。それでも、⼯場の保守要員として何⼈かはビトゥンに残っていた。開戦と同時にビトゥン残留組はオランダ当局に 逮捕され、ジャワ島南岸のチラチャップ経由でオーストラリアに護送・抑留されることになる。 開戦1か⽉後の⽇本海軍によるメナド攻略を受け、総帥の⼤岩勇はパラオ経由でビトゥンに復帰、カツオ船団も戻った。東印度⽔産は会社まるごと海軍への⾷糧補給担当として徴⽤され、 代表者の⼤岩勇の⾝分は⼤佐待遇の海軍嘱託となった。また、カツオ漁船乗組員の中から、イ ンドネシア語の能⼒を買われて海軍警備隊付きの通訳に採⽤される者もいた。このように、元⼤岩漁業・東印度⽔産は会社丸ごと戦争遂⾏の⻭⾞として組み込まれ、敗戦で尊い犠牲者もだして消滅した。

(柳井稔と南洋拓殖)

この報告書で、ヤシ園経営を主体とする農林業はコプラ市況の暴落によって経営が厳しくなっ ていると報告されている。兵庫県出⾝・柳井稔(みのる)の⼆葉商会は業務の柱をコプラの輸 出におく商社であった。この報告書では触れていないが、昭和14年当時に⼆葉商会は国策会 社「南洋拓殖」の傘下に⼊るべく交渉が進み、パラオにある南洋拓殖本社から担当者が出張してきて、吸収合併の具体的な作業が始まっていた。
南洋拓殖会社(以下、「南拓」)は昭和11年(1936)に設⽴された、社名どおりの南洋開拓を⽬的にした国策会社である。所轄官庁は拓務省、筆頭株主は南洋庁、設⽴準備委員に海軍 ⼤将が2名も名を連ねている。初めから海軍⾊の強い国策会社であった。本社はパラオ群島・ コロール島に置き、丸の内に東京事務所があった。
この南拓がセレベス島進出の⾜掛かりとしてメナドの⼆葉商会に⽬をつけた。昭和14年時 点ですでに⼆葉商会吸収の作業に⼊っていたことは前述のとおりである。合併作業は順調にすすみ、計画通り⼆葉商会は南拓に吸収された。戦後に編纂された元南拓社員の⼿記集によると、 元社員たちは柳井のことを「⽀店⻑」と呼んでいる。併合された⼆葉商会は南拓のメナド⽀店という位置づけになったようである。従前からの⼆葉商会社員に加え、本社から農林・鉱業な どの専⾨的な技術を持ち、あるいは訓練を受けた社員が送り込まれ、メナド⽀店の陣容は強化 された。 昭和16年12⽉の開戦時、メナド勤務中の社員はオランダ当局に捕縛され、⽇本 ⼈社員はオーストラリアでの抑留⽣活を体験することになる。

 開戦時に柳井⽀店⻑はたまたま内地出張中で難をのがれた。そして海軍のメナド攻略後(昭和 17年1⽉)ただちにパラオ、ダバオ経由でメナドに戻った。メナドに戻る旅程は、パラオ〜 ダバオが海軍の⾶⾏艇、ダバオ〜メナドは駆潜艇と、すべて海軍のお膳⽴てであった。 メナ ドに戻った柳井はただちに軍属として徴⽤され、メナド警備司令部付きとして「活躍」するこ とになる。敗戦で⼆葉商会は消滅、柳井は戦犯としてオランダ軍により銃殺された。

⼤岩漁業と⼆葉商会、昭和14年ごろミナハサ地⽅に根を下ろしていた⼆つの⽇系企業は同じ 運命をたどった。 (敬称略)

参考

関連資料