北スラウェシの日系人メモ・・タマシロ家


長崎 節夫


 昨年 (2012年) 2月、スラバヤで沖縄出身日系人同士の結婚式・披露宴がありました。新郎はインドラ・マデ君、新婦はプラジルからやってきたアナ・ナカモトさんです。  

 インドラ君の曾祖父、玉城喜八 (タマシロキハチ) は大正の末期に沖縄からビトゥンにやつてきたカツオ釣り漁業者、アナさんの祖父母は昭和20年代に沖縄から農業移民でブラジルに渡りました。太平洋を南下した漁師の曾孫と、太平洋を東に南米大陸にわたった農民夫妻の孫が、ブラジルとインドネシア、広い太平洋を股にかけた何とも壮大な縁組みです。

 婚礼の儀式はスラバヤにあるインドラ君の両親の家で、絢爛豪華なバリ式でとりおこなわれました。儀式の舞台は庭に設けられ、バリの伝統衣装をまとったお年寄りたちがお祈りやら音楽やら新郎新婦の介添えやら、それぞれの役割をつとめる中、きらびやかな衣装をまとった主演の新郎新婦が手順に沿つて動き、儀式は進行していきます。舞台装置から式次第まで、私もはじめて見るバリ式結婚式の様子をしつかり見物しました。

 この結婚式には当然のことながら両家の親族が参列していますが、新婦の方は遠いプラジルのサンパウロからですから御両親と兄弟だけの参加ですが、インドネシア人である新郎の親族が大勢つめかけていました。

 インドラ君の父親はバリ島の出身、母親は北スラウエシ州トモホンの出身で玉城喜八の孫にあたります。このタマシロー族が本拠地トモホンをはじめインドネシア各地から馳せ参じていました。結婚式のあでやかさも圧巻でしたが、何よりもタマシロー族の数のパワーに圧倒される思いでした。

 玉城喜八は、沖縄島北部にある本部(もとぶ)町・備瀬集落の出身です。年代は明確ではありませんが、たぶん大正時代の末期に沖縄からかつお釣り漁船2隻をひきつれ、当時「蘭領東印度」と称されていたセレベス島の ビトゥン にやつてきたようです。(1925年説あり ) 喜八一行のビトゥン到着のあと、昭和4年には愛知県出身の大岩勇がパラオ、テルナテ経由で到着し、メナトに造船修理事業をはじめています。また、喜八のグループ以外にもかつお釣り目的で鹿児島や沖縄の漁業者がビトゥンに集まりはじめています。

 とおい音、香料を求めてヨーロッパの航海者たちがマルク海の島々にやつてきましたが、大正末期から昭和の初期にはマルク海のカツオを求めて日本の漁業者たちがビトゥンに集まってきた、ということになります。

 喜八は、ひとりのミナハサ美人を見初めて婚礼をあげました。ミナハサ人は色自で日本人に近い容貌で知られていますが、喜八が結婚した相手ヒデさんは、日本人の父親とミナハサ人の母親の子供で、ほとんど日本人の容姿であつたそうです。父親は東京都出身の岡本氏で、メナドの金子商店につとめ、商品の反物を持ってゴロンタロなどへ行商に行っていたようです。

  ヒデさんには妹がひとりあつて、彼女も喜八の漁師仲間の西銘仁盛と結婚、その子孫は今も トモホンに健在です。

 結婚後の喜八はトモホンのキニロウ区に居を構え、男子1名女子2名の3児をもうけました。男の子は数え三つで夭逝、娘二人が無事に成長しましたが喜八は成人した娘たちを見ていません。昭和13年(1938)、喜八は働き盛りの44歳で急に病を得てトモホンの自宅で永眠しました。長女タマエコさんが数えの二つ、妹のテルコさんはまだお母さんのお腹の中にいたそうです。 喜人はいま、自宅そばの墓地で彼の息子とならんで眠っています。墓碑には上手とはいえない漢字で銘が刻まれていますが、漁師仲間が製作したとのことで、真心が深く刻まれ墓碑であります。

 喜八はタマエコ、テルコの姉妹を遺しました。この二人が成人し結婚し、タマエコさんが子供 10名(女子9、男子1)、テルコさんが7名 (男子4、女子3) をもうけます。その子供たち(喜人の孫。三世)がさらに次の世代を作つて、現在はその世代(四世)が五世の生産にかかり始めた、というところです。

 母国日本は少子高齢化で悩んでいるようです。私の提案ですが、タマシロ家の若手を半数くらい日本に移住させてはどうだろうか。

 タマエコさんの偉業の第1は、10名の子供を産み育てて一人の落伍もなく成人させたことです。北スラウェシー帯の保健・医療環境をみた場合に、このことはほとんど奇跡といえるでしょう。

 第2に、その子供たちがそれぞれ立派なお婿さん(9名)お嫁さん(1名)を手にいれ、その10組の夫婦が今にいたるまで1件の離婚騒ぎもなく、奥様を増やす人もいません。インドネシア社会においてこのこともまたほとんど奇跡といえます。これもタマエコさんの威力によるものと言つていいでしよう。

  冒頭のインドラ君の結婚式に見るように、一族間に何かあればタマエコばあちゃんを中心にして皆が集まり、実ににぎやかなことになります。西洋にはゴッドファーザーという言葉があるそうですが、タマシロ家の場合、タマエコゴッドマザーを中心に世の中が動いているようです。

  現在のタマシロ家の隆盛が、90年ほど前に沖縄から渡ってきた一人の漁師からはじまつたことを思うと感動をおぼえるほどです。泉下の喜八さんも、「でかした!でかした!」と一族の繁栄を、喜んでいることでしょう。

追記 昭和13年8月現在メナト在留邦人名簿

 手元に昭和13年8月現在メナト在留邦人名簿というのがあります。出典は不明ですが、元々の名簿の出どころは、当時の在メナド領事館とみてまちがいないでしょう。この時期、日本では政府国民をあげて南進熱が盛り上がり、様々なかたちの南洋調査や視察が行われ、種々のレポート出されています。

  この名簿に見るとおり当時は漁業だけでなくいろいろな業種の人々が海外(南洋)をめざしていたことがうかがわれます。漁業、商社、農園経営(コーヒー、椰子)、大工、造船、床屋、歯医者、写真屋、商店など。中でも、かつお釣り業の関係者が圧倒的です。かつお釣り漁業は、漁業ピジャク、日簡漁業、大岩漁業部の三社名が見えますが、この三社は後に大岩漁業にまとめられ、国策会社である「南洋貿易Jの傘下に入り、名称も「東印度水産Jとあらためられました。 この名簿には、ビトゥンに新築された「北スラウェン日本人墓地」に移葬されている方の名前が何人かみえます。玉城喜八の墓はKinilow EXIの共同墓地内にあって、遺族(タマンロ家)が手厚く祀つているので日本人墓地ヘの移葬はしていません。(平成25年7月1日長崎 )

関連資料

北スラウェシの日系人メモ・・大岩勇の遺産

掲載 2013-8-4