早すぎたインドネシア独立宣言と Nani Wartabone

Proklamasi Kemerdekaan Nasional di Gorontalo pada tahun 1942 dan Nani Wartabone

脇田 清之 (K.Wakita)

日本のポツダム宣言受諾により、太平洋戦争が終った2日後、 1945年8月17日、ジャカルタのスカルノ邸でスカルノ、ハッタの署名の下にインドネシア共和国の独立宣言が発布され、この日がインドネシアの独立記念日となっている。ところが太平洋戦争が始まって間もない 1942年1月23日、インドネシアの独立を宣言した地域がある。

1942年1月22日、北スラウェシのゴロンタローでは、日本軍がすでにマナドに上陸したことを知り、オランダ人達は港湾のコプラ倉庫や船に火をつけ、Tomini 湾対岸のポソへ逃亡を企てていた。そのことを知り、 ゴロンタローの民衆は翌日、1月23日朝9時、ゴロンタロー在住のオランダ人官僚を逮捕、投獄、そのあとオランダの国旗を曳き降ろし、国歌 Indonesia Raya を演奏するなか、紅白のインドネシア国旗を掲げ、ゴロンタローにおけるインドネシアの独立を宣言した。

この独立を主導したのが、Nani Wartabone (1907-1986) である。Nani Wartabone は 2003年にインドネシア国家の英雄として認定されている。ゴロンタローの研究者によると、Nani Wartabone にはブギスの血が流れているとのことでたいへん興味深い(後述)。 1600年代、香辛料貿易の独占のためにやってきたオランダ東インド会社(VOC) とマカッサル王国との間で、数十年にわたり、長く激しい戦争があった。マカッサル戦争(1666-1667,1668-1669)のあと、多くのブギスの貴族たちは南スラウェシから脱出した。Nani Wartabone は 南スラウェエシを脱出しゴロンタローへ移住した貴族の末裔である。あらためてゴロンタローの地図を見ると、故郷の名前を冠した ボネ河(Sungai Bone)も流れている。マカッサル戦争(1666-1667,1668-1669)はオランダ側の策略で敗れたが、インドネシアの 独立運動(抗オランダ運動) は1600年代から連綿として続いていたこと あらためて実感する。因みに一時期インドネシア大統領を務めた B. J. Habibie氏は Parepare の出身であるが、父親は南スラウェシから Gorontaloへ移住した貴族の末裔である。

スラウェシ島内で同じように独立宣言をした地域は、ルウク(Luwuk), トリトリ(Tolitoli), ボネ( Bone)があるという。スラウェシではオランダの植民地政策に対していかに抵抗が強かったかを示している。

ゴロンタローでインドネシア独立を宣言してから約1か月後の2月26日、マナドを出港した日本海軍の艦船一隻がゴロンタロー港にやってきた。Nani Wartabone は日本の海軍部隊を歓迎し、ゴロンタロー政府の存続を求めた。しかし Nani Wartabone の要望を聞き入れるどころか、インドネシア国旗の掲揚を禁止、日本軍政統治下に入ることを要求された。圧倒的な軍事力の差のためゴロンタローの民衆は日本軍と戦うことは出来なかった。 Nani Wartabone はゴロンタローを去り生まれ故郷の Suwawa に身を隠した。しかしその後 1943年12月30日 Nani Wartabone は日本軍によって逮捕され、マナドの監獄へ送られる。マナドの浜辺に頭だけ出して砂に埋められる拷問もあったという。 Nani Wartabone が釈放されたのは 日本が敗戦色濃い1945年6月6日だった。日本敗戦の翌日、1945年8月16日にゴロンタローの政権は日本海軍から Nani Wartabone に移された。ゴロンタローの人達が ジャカルタでインドネシア国家の独立宣言が行われたことを知ったのは8月28日であった。

Nani Wartabone の苦難はこれで終わらなかった。彼は日本敗戦後に戻ってきたオランダ軍によって逮捕され、懲役15年の刑に処せられた。スラウェシ島は 1946年の12月、オランダの傀儡国家、東インドネシア国(Negara Indonesia Timur)の支配地域になっていた。スカルノの度重なる要請にもかかわらず日本海軍はインドネシア義勇軍(PETA)の養成を怠っていたため、帰ってきたオランダ軍に対して為す術がなかった。

Misbach Lapananda 氏の資料

Catatan tempo doeloe etnis Bugis-Makassar di Gorontalo
  ゴロンタロにおけるブギス・マカッサル系の人達について

Oleh: Misbach Lapananda

berawal dari kekalahan perang Kerajaan Gowa dari Pasukan VOC Belanda, dibuatlah Perjanjian Bongaya. Banyak masyarakat pribumi dan kaum bangsawan berimigrasi secara besar-besaran ke daerah/wilayah yang pernah mereka berniaga atau berkunjung, termasuk Negeri Gorontalo dan sekitar negeri2 di teluk tomini.

Para imigran dari Bone membentuk perkampungan serta mengembangkannya dalam kerajaan kecil sesuai nama daerah asalnya, mereka mendiami sungai bone dan pantai bone (bonepantai). Catatan Hindia Belanda tahun 1853 bahwa Raja Iskandar Muhamad Wartabone memerintah di wilayah Bone-Suwawa dan Bintauna

Sementara itu terbentuknya Kampung Bugis yang ada di Kota Gorontalo berawal dari permintaan raja Gorontalo Monoarfa kepada pelaut bugis untuk membantu memberantas bajak laut dari Mindanau dan Tobelo. Seorang bernama Aru Lasimpala dengan memimpin 300 kapal layar merapat di teluk Gorontalo, alhasil para pembajak laut dapat dibasmi dengan tuntas sehingga perairan gorontalo menjadi aman. Atas jasa mereka, raja gorontalo memberikan tanah di wilayah bantaran muara sungai bone. Perkampungan Bugis berkembang sampai di Kampung “TAMALATE” sekarang. Di tahun 1859 Aru Lasimpala menjadi kepala kampung dengan gelar Matoa (yang dituakan).

Beberapa tokoh gorontalo dari keturunan Bugis Makasar diantaranya mantan Presiden RI Prof BJ Habibie , kakek buyutnya bernama Lamakasa (La Mantra); Prof J.A Katili seorang Pakar Geologi yang neneknya bernama Karsum Lasimpala; Bapak Nani Wartabone keturunan dari raja Bone Suwawa

参考資料