開戦時のマカッサル残留邦人

脇田 清之

 戦争が迫る中、蘭印政府は軍事上の警戒から日本人に対して厳しく弾圧、入国は制限され、最終的には資金凍結令で日本人の閉め出しを行った。昭和16年11月13日、最後の引揚船日昌丸でマカッサルの邦人180名の内、50余名の邦人が帰国している。蘭印に進出し漸く事業が軌道に乗りかけたところでの引き揚げである。資産の管理などの事情があって引揚げ船に乗らなかった人達も多かった。こうした中、 1941年12月8日、太平洋戦争が勃発した。そのとき蘭印各地に在留していた日本人の状況について記した資料が独立行政法人 国立公文書館 アジア歴史資料センター (Japan Center for Asian Historical Records - JACAR-) に残されている。

 1941年12月8日早朝に蘭印官憲によって拘束されてから、マカッサルの刑務所、センカンの収容所、東部ジャワのナアヴィ収容所を経由し、豪州の収容所に到達するのは翌年の1月末である。1ヶ月半を超える非人道的、極悪な移送環境に耐えきれず、途中で死亡する人も出た。マカッサルで拘束されジャワの収容所までの経緯については主に南太平洋貿易株式会社の戸沢盛陽氏の報告書 ( Ref B02032707800)、またジャワ以降オーストラリアの収容所までの経緯については、主に当時の外務省在蘭印留学生、村田健一氏、吉川英男氏の「蘭印及び豪州抑留報告書」(Ref B02032708200)などをもとに、当時の邦人の苦難の経緯を辿ってみたい。上の図はGoogle Map の上に移送ルートを推定で書き込んでみたもの。

昭和16年12月8日

 12月8日朝7時頃から警察当局は手分けをして邦人の拘束のためにやってきた。監禁場所は刑務所。時の経つに従って邦人の顔ぶれが次第に増えてくる。「遂に来るべきものがやってきました。」これが我々の挨拶だった。連行されてくる人は全部が全部所持品はない。ただ南貿の北田君がボストンバッグ一つ下げてきた。亀井久一君宅へはオランダ人を隊長に現地人巡査を4,5人従えてやってきたが、同君は起きたばかりで生憎便所に入って用足し中とは知らずに盛んに家探し、使用人に厳しく主人の在所を尋問、すぐ便所の前に至り、「早く出ろ」と隊長はピストル、巡査は抜剣して待ち構えていた。寝間着の着替えも許されず、刑務所行きとなった。

 車で刑務所へ行く際、沿道は蘭人、現地人黒山の人だかりであった。一通り拘束が済んだらしく、その後は5人ずつ引き出され、先ず姓名を質し名簿を照合された上、身につけていた時計、がま口、現金、指輪、鍵、煙草、燐寸、に至るまで取り上げられ袋に入れ我々の面前で封蝋し、それが終わると次々と投獄された。入れられた留置場は現地人の留置場であった。入ると直ぐプンと嫌な湿気臭い臭気が鼻をつく。
 午後2時になって出漁中に洋上で捕らえられた12名が入所してきた。人数が増え、最終的に20人、20人、15人の3つの留置場に分けられた。午後4時になって、浜田老婦、孫娘照子は突然呼び出され、その後出所、この老婦は領事館邸に関係して働いていたものなので高野副領事より軍部への折衝によって返されたものらしい。

昭和16年12月9日

 蚊と南京虫の大群に寝具もない状態で、眠れぬまま一夜を明かした。翌日8時頃、朝食のパンとコーヒが支給された。9時には4,5人の人が呼び出され、金庫ダイヤルの開け方についての提示を強要された。これが終わると、今度は25人ずつ呼び出され、刑務所長の前に整列、その片側には蘭人警官とホール少尉居並び、昨日取り上げられた封筒入りの物を渡され、各自がカードに署名。外には鉄条網で囲われた8台の貨物自動車が待機していた。1台に25人当てであった。10時頃全員乗り切り、その後警察の手から軍のへ移管され、車で移動、センカンの女学校を収容所キャンプにした場所へ移された。

センカン収容所へ移動

 以前にドイツ人がセンカンに送られたので、我々も亦同所かと想像できた。トラックは飛行場の側を通るとき、殊更全力で走った。アメリカの偵察機らしい飛行機が見えた。橋という橋は義勇兵の手によって護られており、橋の中央にはダイナマイトの仕掛けがあった。勝手知ったチャンバ経由センカンのルートを走ったが、里程を記した石の道標は全部取り外されていた。

マサンバ、パロポ、マリリなど南セレベス各地邦人と合流

 センカン 着いたのは午後3時頃、女学校を収容所にしたもので、予想通り、以前ドイツ人が入れられていた場所だ。そこには、すでにマサンバ、マピリなど他地区の日本人が収容されていた。午後4時になってマリリ、パロポからも邦人が移送されてきた。 因みに、他地域から送られてきた人達の中、マリリ、パロポからは、松本寅(?)岩井清田夫、青山、南川、山田の5氏、桂シン、石橋ウラ、等、マサンバから豊海ほか3名、マピリ(ポレワリ)から(判読不可)氏 などの名前が出てくる。 入所に当たってはまたまた身体検査、お金は勿論剃刀まで取り上げられた。これが終わると各自に大皿2枚、コップ1個、匙1つを渡された。教室に木製の上下二人ずつの2段ベッドが設けられていた。元々学校の設備なので雨天体操場もあり、後に、そこは我々の室内遊技場になった。 午後6時半夕食、食事は軍部からセンカンの現地人に請け負わせて、鉄条網の外から手を出して皿にポロポロのご飯を、一つには僅かの野菜を入れた塩辛いスープ、コップには色が付いただけのお茶を入れて貰う。

センカン収容所の生活

 朝は皇居遙拝、マカッサルの和田商店の和田治太郎氏指導の下、体操でその日の日課が始まる。色々と問題があったが、日本人会会長の村田為太郎氏、碓井氏が窓口(交渉委員)になって蘭印司令部側と処遇に関しての交渉もあって、炊事仮小屋を設けるなどして食事の改善、娯楽設備なども次第に改善されていった。朝はコーヒー、パン、ゆで卵、又は豚肉の塩漬け一塊、昼はご飯、肉、スープ、午後4時半には鶏肉を油で炒めたものと茶、夜はご飯と野菜スープ、鶏肉、茶で昨日までに比し断然改善されたわけ、ポール司令官の処置に感謝。ただ野菜が少なかったのは遺憾であった。毎日午前10時からはスマトラ人らしい現地の医者が来て対応してくれた。実に穏和で親切な人だった。
 こうした不自由のなかに、先ず健康第一を誓い合い日中はキャッチボール、走り高飛び、野球、相撲など、夜に入ってからは時折演芸会に和気藹々たるものがあった。 12月17日、マカッサル州知事のMr.???が収容所の実情調査にやってきた。この機会に着替えがないので、自宅から衣類を持ち出したい、食事は水牛の塊ばかりでなく野菜、魚も希望する、洗濯のための水が不足していることなどを訴えた。 同日午後、ブートンから真珠会社の茂原氏ほか7名、尾田、天田、浜崎、(  )城内合計13名来着。 12月28日の夕刻になって、明朝いずれかへ出発につき用意せよとの命令を受ける。

センカンから移動、マカッサルで乗船

 29日に何時もより早めに朝食を済ますと昼と夜の2回分のパンを貰う。午後8時例のトラックに載せられ出発、この頃から雨が降り始めていた。パレパレ経由マカッサルに向かう。市街に入って以前の2邦人の商店、2会社の前を通ったがいずれも看板は取り外されていた。まっすぐユリアナ桟橋に入り、1汽船の前に停車したのは(翌日の)午後4時であった。汽船は約千噸くらいらしい。またアンボン人巡査による身体検査が行われた。検査が終わると直ちに暗い船倉内に送り込まれた。すでに船内にはニューギニア興発社員・家族もいた。テルナテ、アンボン、バンダ、方面を含めて150名位だった。ここには領事館の    も乗船していた。  によれば高野副領事は  の為、何れかへ連行され領事館の書類は押収された由、  船倉は機関室の直ぐ側で乗ったときから焼けていた。暑さと湿気、270人の息れで息することも困難であった。

スラバヤで下船、ナアヴィ収容所へ

 午後8時出航。航海はこの世の地獄であった。こうした航海の中で指折り数えると元旦を迎えていた。航海時間はマカッサルースラバヤなら40時間の筈だが、すでに60時間を超えていた。行き先の分からない不安の中、エンジンが止まった。  午前10時頃、50人一組で上陸開始、本船の前に2列に並ばされた。ここはスラバヤのストロフェーデンフェール船渠寄りの岸壁だった。船倉から次々と揚げられてくるが皆青ざめた顔、太陽の照りつけにまぶしいらしい。ここから汽車に乗せられる。窓という窓は全て締めてある。港からスラバヤ・コタ駅まで線の入れ替えのために立ち寄る。レモン水の売り子が右往左往しているのが目に付く。こうした中午後6時頃にタロット駅に着く。この汽車の後部には中部スマトラ及びリオ群島方面からの175名も乗っていた。順次乗合自動車で約10キロのナアヴィ (Ngawi ) までの折り返し運転で、全部そこの収容所に入れられたのが午後9時頃であった。そこにはすでに約400名の日本人が収容されており、寝具の持ち運びやら何役につけ親切にしてくれた。直ちに食事皿一枚に ご飯が山盛り、それに肉の入ったコテコテのシチューのようなものが掛けられており、腹は減っているし、一同懸命に掻き込んでいた。食後は水浴、シャワーも相当あったし、水は豊富で思う存分頭のてっぺんから足の先まで洗い流し初めて人心地がつき清々した気持ちに満たされた、暫く雑談の後午後12時一同寝床についた。

ナアヴィ収容所からチラチャップ港へ

 東部ジャワ ナアヴィ収容所以降チラチャップ港までについては、同じファイルの中に、タワオエステート(三菱)伊藤進氏の報告があり、その中に収容所で合流したマカッサル、バンダ、スマトラ組の到着の様子が記載されている。それによると、昭和17年1月2日邦人約500名位到着するとの噂あり、昼食より食事時間が繰り上げられた。夕食は午後3時頃に終わり同胞の到着を待つ。午後5時頃よりバスにて到着。本日の到着はセレベス、ニューギニア方面約300人、スマトラ方面約170人、計470名、ボルネオ方面よりの約400人と併せ合計870人の見込み、と書かれている。

 1月14日午後4時、家族、婦女子組から出発開始。午後8時頃、鉄道の引き込み線らしき所(マデオン駅?)に到着、例の4等車に乗り換え、後続組の到着を待って夜中の1月15日午前1時頃発車した。間もなく夜が明けると汽車は西方向へ走っているのが分かった。午後1時頃チラチャップに着いた。下車して直ちに倉庫内に収容された。そこにはメナド方面から婦女子を含む130名がコンクリートの上に座っていた。メナドから来た人の話ではメナド出発のとき、日本の空軍のメナド爆撃を見てきたと語っていた。倉庫内で人員点呼、手荷物検査、身体検査が行われ、午後5時頃、倉庫から汽船に移された。この船は豪州行きのクレメール (Cremer) 号であった。この船にはすでにタンジュン・プリオク港から約1000人が乗船していた。

チラチャップからアデレードへ

 クレメール号によるチラチャップからアデレードまでの航海については南太平洋貿易会社の高橋肇氏の手記、また外務省留学生による「蘭印、豪州 抑留報告書」などから状況を垣間見る事が出来る。
 本船、苦力輸送船 K.P.M クレメール(Cremer)号 約7000噸は1月15日午後11時頃出港した。船倉にはタンジュンプリオク港からの約1000名を含め合計2000人の邦人が押し込められ、ハッチに蓋をされたという。(注:人数は資料によって食い違いがあるが、各氏とも全体を把握できる立場ではなかったのだからやむをえない) 船倉内に着のみ着のままにて就寝。船尾便所前の濡れたところまで寝転び不潔、臭気甚だしい生き地獄であった。伝染病患者が出ても隔離されず、多数の病人が出ても薬は与えられなかった。幼児のミルクの支給も拒絶された。出航当時は密閉された船倉内の熱気と船酔いに悩まされたが、南下のため1月17日頃には今度は寒気に変わる。1月18日には寒気が加わるが1枚の毛布に数人が引っ張り合って寝る極寒地獄となった。下痢患者が続出する。1月19日船酔い患者漸増、この日は寒気激しく死亡者も出ている。船の南下に伴って気温はさらに低下する。1月20日、かなりの邦人が「マラリア」、風邪、胃腸疾患など体調不良を訴えたが投薬が行き届かなかった。1月22日には台湾籍民も死亡。赤痢と認められ、適切な処置を要求したが拒絶された。1月23日、南下に伴って更に気温が低下、船倉口より吹き込む風で喉を冒されるもの、風邪患者急増。1月27日アデレード入港、正午近く桟橋に係留。人員点呼並びに検疫のため、英将校乗船、29日下船の通知あり。28日疾病者は上陸病院で診察、そのまま入院する患者も多数いた。1月30日午後4時上陸開始。午後6時半臨港線発車、車窓より久し振りに人間の住む地を眺め感無量。家族組は本船乗船のままメルボルンに向かうとの情報あり。これまで移送中に蘭兵から受けた足蹴りなどの処遇に較べて、警備の豪兵は親切で邦人を人間扱いしてくれたことに感動。1月31日バルメラ (Barmera) 下車、3列縦隊にて「ラブティ」収容所に向かう。病人は自動車、手荷物は馬車にて運搬される。

豪州における邦人収容所

 在敵国居留民関係事務室関係を読むと豪州における邦人収容所はニュー・サウス・ウエールズ州のヘイ収容所、ビクトリア州ターツラ収容所、サウス・オーストラリア州ラブディ収容所、州名不明のウールヌック収容所などの名前が出て来る。
ヘイ収容所(Hay, ニュー・サウス・ウエールズ州 州都シドニー)は邦人男子のみ豪州在留民605名、ニューカレドニアからの430名
ターツラ収容所(Tatura ビクトリア州 州都メルボルン)は家族同伴者を収容、ABCDの4区画に分かれていた。Aは台湾人、Bは豪州在留者129人、ニューギニアからの8名、ニューカレドニアかたの100名、蘭印から11名、Cは蘭印から153名、豪州在留者4名、Dは蘭印から116名、豪州在留者43名その他11名。
ラブディ(ラブダイ)収容所(Loveday サウス・オーストラリア州 州都アデレード)は第14B、第14Cとに分かれていていずれも独身者を収容。第14Bには爪哇よりの邦人156名、スマトラからの邦人11名、テルナテより1名、ニューカレドニア邦人364名、豪州居住者55名となっている。第14Cには西豪州邦人76名、ニューカレドニア118名、ニューギニア4名蘭印邦人231名、ボルネオ5名 
ウールヌック収容所は後日ラブディ収容所から移された西豪州よりの邦人131名を収容し、労働収容所と称され、労働により小遣い銭を得ることが出来る収容所とのこと。

(補足)
 当時オーストラリアには抑留施設が28カ所あり、国籍別に収容されていた。また日本陸軍、海軍の捕虜は民間人とは区分けされていた。ニュー・サウス・ウエールズ州ではカウラ (Cowra) 捕虜収容所が知られているが、民間人主体のヘイ収容所はカウラよりさらに内陸部に位置する。  

参考資料

  1. アジア歴史資料センター Ref B02032708200 13.オランダ領インド及オーストラリア抑留報告/1 蘭印及豪州抑留報告書
  2. アジア歴史資料センター Ref B02032707800 9.「マカッサル」「メナド」「北スマトラ」地方邦人状況報告
  3. アジア歴史資料センター Ref B02032477000 2.在敵国居留民関係事務室関係(官制、設置経緯、高裁案)
  4. 豪州 知られざる強制収容(朝日新聞記事 2014-3-4)
  5. 産経ニュース (2014/3/9) 「強制収容の日本人を慰霊 豪、埋もれた歴史に光」
  6. 和田ひとみ 「カウラ戦没者慰霊祭に参加して」

 掲載:2008年11月3日
追記:2008年11月17日
追記:2008年11月19日
参考資料追記:2014年3月12日