朝日新聞の「南スラウェシ慰安婦」報道への疑問

スラウェシ研究会

2013年11月28日(木)朝日新聞記事「慰安婦問題インドネシアの女性証言」を見て一瞬目を疑った。まったくあり得ない話である。これは朝刊の国際面の全面を使った特集記事である。朝日新聞もついに三流の週刊誌並みになったと哀れを感じる。さらに朝日はこのガセネタを英文で海外に配信している。朝日は国賊新聞になったのだろうか。記事は次のような序文で始まる。

「慰安婦問題は日韓間だけの問題ではない。日本政府が約20年前、東南アジアへの波及を防ぐ外交を水面下で進めていたことを朝日新聞は報じた。1942年に日本が占領したインドネシアには、現在も「旧日本軍から性暴力を受けた」「慰安婦だった」と証言する女性がいる。被害状況さえ解明されないまま置き去りにされた彼女たちに行った今夏の取材を報告する。」 とまるで特ダネ並みの書き方である。

本文は3部に分かれていて、最初の「日本軍のテントに連行された」の項では、南スラウェシ州シンジャイ県 (Kab. Sinjai) の元慰安婦のインタビュー、次に「大きな建物たくさん小部屋」ではピンラン県 (Kab. Pinrang) の元慰安婦のインタビュー記事である。いずれも太平洋戦争中、日本兵らしき連中に強引に連れ出され、慰安所へ送り込まれたという内容である。どういう経緯があったのか、ご本人達にはたいへんお気の毒と言うしかないが、当時の日本海軍軍政下において、まったくあり得ない話である。

「従軍慰安婦」問題について ー戦時中マカッサルの実態を検証するー

太平洋戦争勃発時点から70年以上が経過し、当時の状況を知る人も少なくなってきた。「従軍慰安婦」なる言葉が一人歩きして、戦地で慰安婦が軍隊組織に組み込まれ行動するような、奇想天外なイメージさえ与えてきた。そこで、具体的に一占領地のなかで軍政はどうだったのか、具体的に、占領地、南スラウェシ州の首都マカッサルの実態を検証し、いくつかの資料を取りまとめた。占領地運営について参考にして頂ければ幸いです。

→「従軍慰安婦」問題について ー戦時中マカッサルの実態を検証するー

繰り返しになりますが、太平洋戦争の時代、「従軍慰安婦」なる者は存在しなかったし、当時そのような言葉が使われた事実もありません。「従軍慰安婦」という言葉を創ったのは千田 夏光(せんだ かこう、1924 - 2000)というノンフィクション作家です。1973年、極左思想の自著『“声なき女”8万人の告発 従軍慰安婦』で日本軍の関与を強調するために「従軍慰安婦」という語を創りだした。事実ではないことを事実として虚偽記載したことが明らかになっています。

 こうした例からも、「小説」を論拠にして問題を提起することが、いかに危険であるかが解ります。小説に頼らなくても、すでに戦時中の日本海軍軍政について学術的な調査も行われています。ハサヌディン大学の教授が、南スラウェシで、大規模な聞き取り調査を行っています。現地語からンドネシア語に訳した、部屋一杯の膨大な資料があります。日本海軍の軍政は概ね良好で、日本海軍がいかに現地住民(婦女子を含めて)の安全を守り、その結果性犯罪も少なかったことが記されています。

まず、日本軍の敵はオランダ(蘭印)であって、インドネシアではありません。インドネシアの住民は日本軍の進撃を助けてくれました。北スラウェシの落下傘部隊長であった堀内豊秋海軍中佐が、原住民を非常に大切にし、日本人と平等に取り扱い、善政をひいた話は有名です。またマカッサルの敵国子女収容所長であった山地兵曹が敵国子女を守った話も有名です。オランダ人を筆頭にイギリス人、アメリカ人、アルメニア人など11カ国におよび、最大時には2,600人の婦女子を収容していました。戦後の連合軍BC級戦犯裁判では、捕虜収容所、民間人収容所関係の方が一番多く逮捕され、処刑された者もいました。しかし南スラウェシ カンピリの敵国子女収容所では、山地兵曹の収容者への扱いがよく、一人も戦犯者も出しておらず、逆に戦後、オランダ政府は山地氏に感謝状を贈っています。この話は戦後「白い肌と黄色い隊長」のタイトルで映画化されました。こうしたことから、日本海軍による組織ぐるみの犯罪は考えにくいです。

実際に強制連行があったとすれば、これは想像に過ぎませんが、民間の慰安所経営者が、本来ならば慰安婦は島外の専門業者からリクルートすべきところを、厳しい海軍軍政管理の隙をついて、違法にスラウェシ島内で行っていたのかもしれない。

南スラウェシ・カンピリ敵性国婦女子収容所

戦時中マカッサルの市長は山崎軍太氏でした。地方の分県監理官(市長、郡長などに相当)も日本人でした。山崎氏は戦後、BC級戦犯の容疑をかけられましたが、マカッサル市民からの請願で釈放されています。現住民も日本人も対等であるという状況の中で、地方に駐屯する日本兵が現地女性と結婚したケースもあったようですが、軍がトラックで、自らが管理する地区の女性を拉致して云々ということはあり得ない話です。東京で都知事が東京に住む女性を拉致して、慰安所に送るでしょうか?

スラウェシ島における日本海軍の軍政

 下の表は島内各地セレベス民政部 政務部4課 地方課が管轄するセレベス島内の分県一覧である。島内すべての地域に日本人の分県監理官が配置されていた。分県監理官は分県地域を監理し、また地域の王族と民政部との間では緊密に連絡・指示が行われていた。その地域で事件があれば直ちに民政部に報告する体制にあった。

インドネシア独立支援の試み

マカッサルにはインドネシアの独立を支援する特務機関「花機関」があり、興亜専門学校(現亜細亜大学)等で、インドネシア語を学ぶ学生が大量動員され、日本の青年とインドネシアの若者とが寝食を共に生活をしていた。こうした人達の中には、戦後インドネシアの独立戦争に加わる人たちもいた。また日本海軍は、藤山一郎氏とその楽団を日本から呼び、マカッサルを拠点にして、島内各地を廻り、現地の人達に、植民地時代には禁止されていたインドネシアの国歌「インドネシア・ラヤ」の歌唱指導などを行った。当時、第二南遣隊管轄区の島々(東部インドネシア)は、民度も低く、独立意識が薄かった。自分たちがインドネシアの一員である意識すらなかったという。だからこの意識を育てなければならなかった。藤山さんの歌の力で独立意識を育てて欲しいとの要請だった。 毎日新聞系のセレベス新聞社はマレー語(インドネシア語)の新聞 "Pewarta Celebes" (発行部数 マカッサル 3万部、メナド 2万8千部) を発行し、インドネシアの人達の独立への意識を高める啓蒙活動を行っていた。編集長はインドネシアの独立運動の中心にいた近藤三郎氏だった。

「興亜専門学校生の太平洋戦争 -マカッサル花機関と吉住留五郎」
「藤山一郎さんのマカッサル」
インドネシア独立戦争に参加した元日本兵
近藤三郎 セレベス新聞社 「プワルタ セレベス」編集長のこと

当時の対日感情

日本海軍のマカッサル上陸作戦では 現地住民が 日の丸の旗を振って出迎え 道案内を務めたことなどの記録は多数あるが本稿では割愛させて頂く。下記に一例を記します。

中央スラウェシ州バンガイ県に旧日本軍パイロットの記念碑がある。太平洋戦争の末期、日本の海軍航空兵、菊池敏和さん(当時19歳)の操縦する九七式艦上攻撃機が、飛行中、ガソリン漏れのエンジントラブルを起こし、中央スラウェシ州の東端に位置するバンガイ県の湿地帯に不時着した。親日的な村民達の協力が得て、エンジンを応急修理して無事帰還したという。戦争を礼賛するわけではないが、当時の日本軍と現地の方々との関わり様を知る上で貴重な記録である。

戦後60年ぶりの恩返し 元海軍航空兵“不時着”助けられた感謝の心込め

おわりに

「日本人らしき人達」に強制連行されたとされる南スラウェシの女性たちには、まったくお気の毒なことではある。しかし当時の海軍が、いかにしてアジアの朋友、現地住民(婦女子を含めて)を保護するか、気を配っていていた中、軍の関与などまったくあり得ない話である。そしてこのような報道は、当時命がけで働いた関係者に対する侮辱でもある。「従軍慰安婦」を捏造した朝日新聞が、今度はインドネシアにおける慰安婦問題に火をつけようとしているのだろうか? このようなガセネタが大新聞の国際面に掲載され、さらに英語で世界に発信され、おかしな誤解のもとになることを危惧する次第です。(文責:脇田)