セレベス民政部時代の思い出(1)

Ingatan masa pemerintahan sipil di Makassar
(Kaigun Minseibu, Angkatan Laut Jepang)

粟竹 章二 Awatake Shoji

私は昭和19年2月1日、日本郵船浅間丸にて佐世保を出発、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤを経由し、4月13日にマカッサルに着きました。マカッサルでは終戦までセレベス民政部に勤務しました。偶々今年(2008年)の3月、日本・インドネシア国交樹立50周年記念行事としてマカッサルにおいて戦時体験を語るシンポジウムがNHKとハサヌディン大学により共同開催され、私の戦時体験をお話しする機会がありました。この機会に、これまで60年以上前の体験を忘れないよう書き残した思い出話の中からセレベス民政部時代の思い出話をご紹介したいと思います。

マカッサル到着

スラバヤからジャワ海を渡りコタバルからマカッサル海峡を無事に乗越えて9日間の旅は遂に終わり、佐世保出航以来72日間の旅も最終目的地マカッサルを目の前にする事になりました。

 4月13日にやっと目的地マカッサルの岸壁に船は到着致しました。船上から見た街は緑が多く、白い壁と赤い屋根が点点と見えるそれは美しい街でした。私は感激で涙が流れ胸が一杯になり感無量の状態で立って居りましたら、突然岸壁より「粟竹、粟竹は居るか?」と出迎えの職員の中から大声が聞こえました。思わず目を凝らしますとなんと母校帝商の先輩の大村さんが手を振って居りました。私は驚いて駆け寄りますと「遅かったじゃないか、マランで巧い事やりやがって」と到着早々突然にどやされまして、無事の着任を祝って呉れました。私も大村先輩がマカッサルに居るとは知らなかったのでとても嬉しく心強く感じました。

 この大村先輩と中村さんとは以後切っても切れない深い友情で結ばれ兄弟のようなお付き合いが生涯続きました。もう一人マカッサルには小学生時代からの親友の志田幸盛氏が民船運航会に居りましてとても世話になりました。その夜は中華街のホテルに泊まりまして翌日から海軍の規則、組織、民政の概要その他の講習と訓練が2週間続き農業要員と一つ所の合宿所に移りました。

合宿講習

 この合宿訓練は我々農業要員と新任の理事生達がマランでさんざん遊び、戦争を忘れ心身共に腐りきって着任したと民政部ではもっぱら評判で、徹底的に叩きなおしてやると待ち構えて居る正に死の特訓でそれは厳しい物でした。
 教官は着任草々の短期2年現役(現短)の斎藤中尉と湯浅中尉のお二人で海軍経理学校で優秀な成績を収め、セレベス民政部部員として着任された方々で、斎藤太兵衛氏は中央大学法学部卒業で栃木の大庄屋に生を受け、後に三菱重工kkに入社、あの重工爆破事件の際は広報室長としてテレビの報道などで大活躍を致し、最後は関連会社の社長として亡くなりました。湯浅正巳氏は慶応大学商学部から経理学校に進み、神田の出版社の御曹子で高級住宅地の青山高樹町で育った、毛並みの良い紳士で後に住友本社に入社いたしましたが、脱サラで色々な仕事を致しましたが最後は、京都で「とんちんかん」と言う豚料理専門のお店を経営致し、大いに繁盛致しましてマスコミの話題に成りテレビ、週刊誌などに良く名前を載せておりました、お二人とも癌の為に亡くなり、私も兄の様に慕いお世話になりましたので悲しい想い出です。

 お二人共に着任初仕事でやる気満々の充実した真っ盛りですから徹底的にしごかれました。
5:30起床 直ちに海軍体操 市内マラソン
7:00朝食 8:00 軍刀術射撃などの軍事教練 10:00 学習講義
12:00 昼食 14:00 学習講義  17:00 終了
18:00 夕食 19:00 復習  21:30 就寝

 学習講義は各専門科目の課長及び司政官及び技師などの講義があり午前中の疲れで眠くて眠くて我慢出来ずとても辛い思い出が有ります。農業要員の諸氏は殆ど田舎から応募してきたので、洋式のトイレなどの遣い方から教育しなければならないと,湯浅中尉がこぼして居りましたが、この二週間の訓練は後の勤務に非常に役立ち未だに思い出として残って居ります。

勤務着任、部署任命

 厳しかった2週間の合宿講習も終わり農業要員達はそれぞれの勤務地に派遣されて行きました。私達理事生は各課に配属されると思って居りましたら、全員主計課に配属になりました。    私は安田課長の鉱産課に行くと思って居りましたが、後で安田課長から「近く内地転属が決まったので、傍に置いて面倒が見られないので、軍籍の課長の主計課長に身柄を預けた」と聞かされ、この事が私の為に後々とても良い結果に成ったのでした。
 当時主計課長は二宮中佐で温和な然も優しさの内に毅然とした海軍士官でした。私達が任命されて間もなく課長は民政府に栄転なされ後任に小笠原少佐が着任されました。
 小笠原孝義少佐は年子のお兄様と共に海軍経理学校を恩賜の時計組で主計課士官では小笠原兄弟として優秀さで名を挙げた秀才でした。33才でセレベス民政部主計課長の重責を担う若く
新進気鋭の青年士官で、やはり優しくて思いやりの有る素晴らしい上司でした。
 主計課は民政部という行政機関の大蔵省のようなもので、臨時軍事費、民政会計などの  
お金を扱う一番重要な部署でした。奇遇なことに課長は深川の生まれで、小学校も私の出た学校と近くで同じ深川育ちの江戸っ子どうしとして親しみ易くとても目に掛けて戴き、戦後も住まいも田園調布と奥沢と近くだったので90歳でお亡くなりに成るまでお世話に成りました。
 新任の7人は各係りに配属されました。中村の泰ちゃんは接収住宅の掛かりに、真野さんは珠算の名手の腕を買われ経理関係にそれぞれ配置されましたが、私は庶務係と言われ内心何か雑用係りのような気が致しましてがっかり致しましたが、これには後で聞きましたところ課長と湯浅中尉とのお考えがあってのことでした。
 鬼教官の斎藤中尉は甲板士官として湯浅中尉は主計課部員として武官の課長を助ける重要な部署に着き私の直属の上官となりました。
 庶務には主任の森岡書記が係長で先輩藤野理事生とアンボン人のジョセフインナ、マリア、ツツハトネワ(通称ヨッピー)とハンナと言うミナハサ美人とオッパス(雑用係りの給仕)が居りました。
 新任理事生各人の部署人事は2週間の研修中に湯浅さんが各自の適性審査を行い、課長と相談して決めたとの事でした。
  
 後年この人事で一番適切だったのは私の部署だったと小笠原さんが言って居られました。藤野百合子先輩は大阪府庁出身の才媛で、民政部でも数多くいる女子理事生の中でもやはり主計課に居る西共枝理事生と共に、仕事の出来るトップクラスの秀才でした。湯浅中尉の命を受けて学校出て何も出来ない私を徹底的に教育するように言われ、まず数字の書き方から教えられ、先輩として事務一般全てを叩きこまれました。3歳年上のお姉さんですが厳しく仕込まれ後にとても役に立ちました。ヨッピーは私の隣の机で長い髪の毛を三つ編みした、ネシアとしてはもう年頃を過ぎた年増に属する人で私より2ヶ月年上ですが、色が黒くて余り美人ではなかったけど、とても頭が良くオランダの高等教育を受けた敬虔なクリスチャンの秀才でした。語学も7ヶ国語位出来まして、タイプの腕も素晴らしく日本語も不自由なく話しました。この天才的頭の良い二人に挟まれ凡才の私は負けてならぬと一生懸命頑張りヨッピーには私と話す時はインドネシア語で話すようにと頼み、先ずインドネシア語を自由に話せるようにと頑張りました。話がスムースに出来るように成るとヨッピーとも仲良くなり冗談も出来るように成るとヨッピーのことを妹のように可愛がって居た藤野さんは面白くなく、良く怒られましてヨッピーが陰で泣いているのを見かけました。
 兎に角二人にとっては藤野先輩はとても怖い存在で、その藤野さんとは生涯不思議な縁で結ばれ姻戚関係になるとは当時夢でも判らない事でした。
 庶務の仕事にもだんだん馴れまして、司令部や民政府その他官庁に重要機密書類の配達など出来るように成り、様子も解かる様に成りました。

敷島通り12番地から高砂通り13番地

 業務内容も定まりますと仲間7人各自の宿舎の割り当てが決まりました。皆何処に決まるのかワクワクして待って居りますと、なんと私は合宿講習の鬼教官湯浅中尉と斎藤中尉と3人で、海岸より一つ手前の民政部経済部の裏門通りの敷島通り12番地に住む事に成りました。 私は道路に面した日当たりのよい一部屋を戴き、志田君が早速私物の机と洋服タンスを持って来て引越しを祝って呉れました。 二人とも役所ではとても怖い上官ですが 帰宅すると弟の様にとても可愛がって下さり、 これがご縁で一生親しくお付き合いをして戴く様に成りました。
 宿舎の生活は快適で内地では考えられないような毎日でした。藤野先輩が時折お惣菜など作って持って来て呉れ(湯浅中尉がお目当てなのですが)コックもジョンゴスもマアマアで時折湯浅さんが得意のお料理を作り、とても美味しくて楽しみでした。
 其の内主計課長の官舎に居られた二宮中佐が民政府の官舎に移られたので、後任の小笠原少佐が高砂通り13番地の官舎に入られることに成りました。 武官は武官同士の方が良いと湯浅さんと斎藤さんがご一緒に入ることに成り私も共に行くことに成りました。

 この官舎には母屋に課長、湯浅さん,斎藤さん,そして私とパピリオン(別棟)には大村先輩と親友の中村氏が住まう事になりまして、6人の所帯で課長の運転手のビドルを除きコック、ジョンゴス3名バブ3名庭師と8名の雇い人が居りまして、監督は大村先輩でしたが,この先輩はずぼらで余り熱心でなく、コックに適当にやられ余り美味しい食事は食べられませんでしたが、時折湯浅さんが厨房に入り、腕を振るって美味しい物を作って食べさせて呉れました。これが後に京都「とんちんかん」の礎だったのでしょうか。
 皆さん宿舎に帰ると課長は父親湯浅、斎藤両中尉は兄貴分として、和気藹々課長も役所に居るる時は怖い上司だが帰って浴衣に着替えると別人の様に優しくなり、或る時役所 でヘマをやり課長に叱られて帰宅後拗ねて部屋に閉じこもり、ブンムクレにムクレて居りましたら、課長がドアをノック致しまして「章チャンご飯だよ」と呼びに来てくれました。

 2軒隣が湯浅、斎藤両中尉と同期の司令部主計課の藤井中尉と嘱託だった藤山一郎こと増永さんの宿舎で、其の3軒先が政務部長の官舎で前がセレベス新聞の宿舎、右前が三井物産の宿舎で我が家は四つ角の一角でした。 裏に4軒先の大和通りの角が第一女史宿舎で藤野さんが近くなったと良く遊びに来ました。其の内湯浅,斎藤,藤井の皆さんは大尉に昇進されまして,藤井さんは良く湯浅さんの所に遊びに来てました。また藤山さんは自分の所のピアノが悪いので、良く我が家のピアノを借りに来ましたので、課長の居ない昼間に来て下さいとお願い致し、昼間だけ使ってもらう事にお願い致しました。
 パピリオンの二人は野次喜多コンビでとても面白く、夜遊びに行きまして帰ってくる時課長達に判らない様に門のところで自転車を担いでソーッと入ってきますが、マンデー場で二人で大声で本日の成果を話しているのが、母屋に筒抜けに聞こえまして皆で大笑い致しました。この事は後々までの語り草で戦友会の時に良く話題に上り笑いの種になりました。

 小説、映画などで知られましたカンピリーの敵性婦女子収容所の所管は主計課だったので良く所長の山地兵曹が連絡に来た時に豚肉をお土産に持って来てくれました。 日頃粗食の我々としてはとても嬉しく湯浅さんの腕の見せ所で、色々なお料理を作って下さいました。
 山地兵曹が連絡に来て呉れる日を心待ちに致して居りましたが、イスラム教徒ばかりの厨房では豚肉が来たと大パニックで、大急ぎで役所から帰り豚肉を受け取り処置に大変でした。コックは帰ってしまうし料理の後は厨房の大掃除でジョンゴス達にブツブツ云われ、タバコなどで機嫌を取りまして美味しい物を食べた後は大変でした。その時のコックは文句ばかり言って、然も買出しの金を誤魔化すなど余り程度が良くなかったので、湯浅さんが替えることを提案して、マカッサル族からトラジャー族に替えました。そうなると使用 人員を同族に替えないと喧嘩ばかりして巧く行かないのでジョンゴス、バブも替えました。
 今度のコックは女でとても気が強くてなかなか言う事は聞きませんでしたが料理は上手だし豚肉も平気で然も几帳面で誤魔化す事などせず勤勉に働きました。女でもとても威張っていて他の者を効率良く使い、家の中は整備されて行きました。

 面白い事は彼らは完全分業主義で、バブもTukang tjutji(洗濯職人)とTukang seterika(アイロン職人)と別れて居り、洗濯バブが6人分の山ほどの洗濯を汗いっぱいかいてやっていても片方は知らん顔で昼寝をしているし、乾しあがって今度は片方が懸命にアイロン掛けをしていても知らん顔して昼寝をしているので、私がお互いに手伝えば早く終わるでは無いかといっても知らん顔で、私は専門家だととてもプライドが高く妥協しませんでした。万事がそんな調子で山路兵曹が豚肉をもって来てくれた時など、お客を呼んで宴会をいたし、前もって「今日はお客だから2時間残業をしてくれ」と言った時はMengaruti(解かりました)と言ったので安心しておりましたら、時間になると誰もいないのでカンカンに成り跡片付けに大騒ぎしたことが何回か有りまして、翌日集めて叱りますとTida tau(知りません)とアクまでもシラを切り、頭に来た事も有りました。
 部屋の中にタバコなど出して置くと必ず無くなって居り物は全部鍵の掛かる引出しの中に入れとかないと盗られましたが、彼らにすれば悪意は無く出てるものは不要な物と判断して処分したつもりなのかも知れませんが「盗っただろう?」と詰問してもTida tauとアクまでもシラを切り盗った現場を押さえなければ盗られた方が悪いのだと諦めなければなりませんでした。  60年経った今では教育の程度も向上してそんな事はありませんが、当時は日常茶飯事でしたが懐かしい思い出です。 現在は高砂通りの家もすっかり取り壊し、とても立派な建物に変わってしまい、昔の面影は有りませんでしたが、まだまだ懐かしい思い出の沢山ある場所です。

酒保係り任命

19年5月頃の或る日、課長に湯浅中尉と呼ばれ何事かなと恐る恐る行くと、課長から今まで約700人の民政部職員の日常生活用品は時々経理部や物資配給組合より、配給される酒保物品を主計課で配って居ったが、それでは不完全なので、この度専従の酒保係りを設け、それに専念させて業務を充実させると言われました。それで責任専任部員を湯浅中尉に、専任酒保係りを粟竹にアシスタントとして、ヨッピーを任命すると言われました。 これは湯浅中尉の提案で着任当初から私にやらせようと考えて居られたらしく、やっと私にも責任の或る仕事が回って来ました。

 酒保と言えば商店でいくら私が魚屋の倅でも実家は仲買で住まいと店は離れて居り、第一魚の名前も判らないような育ちで、商いなどてんで判らないし経験もないしどうしょうと思って思案を致しましたが、やはり蛙の子は蛙とか商人の血が騒ぎ始めたのでしょうか、だんだんとやる気になりまして、いつのまにか仕事も順調に動くようになりました。 先ず湯浅中尉が私を引き連れ経理部、軍需部、物資配給組合など挨拶に行き、台湾銀行 に専門の口座を設け、商工課その他物に関係のある部署や商社など、隈なく回り挨拶を致しました。
 酒保の倉庫を整備致しカウンターや棚など作り、その間にヨッピーに各課の正確な人員の把握と地方分県の人数などの書類を整備させ、又政務部8課経済部7課の庶務係りに酒保物品受領担当者を定める様に頼み、ヨッピーはとても迅速にテキパキと処理居たし素晴らしい才能を発揮しましたが、少なからず藤野さんの援助のお陰と思って居ります。
 就任に際して課長より任務に付いては、皆が欲しい品物を常に扱うのだから、不正のない様に清廉潔白で皆から後ろ指を指されるような行為を慎み、全て公平な仕事を期待していると訓示を受けました。この事は固く守り、皆より融通の利かない奴だと悪口を言われ続けました。
 湯浅中尉と相談致しまして、現行は配給原価に近い価格で配給してましたが、酒保独自の資金調達の為に、今度から品物により20%から30%のマージンを乗せる様に致しました。商業学校卒業の為に簿記は得意で金銭関係と物品仕入れ販売の及び商品管理、在庫帳簿は完璧な出来でした。

 今までは配給されるのを待っていたのが、今度は毎日歩いて先方に行くと幾らでも欲しい品物があり、お菓子や化粧品関係その他諸々な雑貨が集まりまして、今までは時たまの配給でしたが、今では隔日当たりの店開きになり大忙しに成りました。  酒、タバコ、石鹸,ちり紙、などの日用品は原価販売でしたが、その他の物も種類が増え、余剰利益金もどんどんと増え続き、資金も潤沢に成り、街に有る商店からも品物を仕入れる様に成りました。

 司令部の主計部員だった湯浅さんの同期だった藤井中尉は特に湯浅、斎藤両中尉と仲が良く時折遊びに来て居りましたので、湯浅さんが司令部が接収したオランダの敵産物資を酒保に回すようにと頼み沢山の敵製物品を獲得致しました。ブランデー、コールゲートのパウダーや歯磨きLUXの石鹸など少し高いがとても喜ばれました。傑作は大きな頑丈な木箱に入った物で黄色い石鹸のような塊のようなもので何か判らずこれはきっと洗濯石鹸だと思い少し削って水で擦っても泡が立たず何かなと考えて居りましたら、ヨッピーが来まして「粟竹さんこれはチーズよ」と言われ如何に戦時中我々の食生活が貧しかったかをヨッピーに教えてしまいましたが、私も負けずに「だろうと思ったけど、余りにも味が不味いのでチーズじゃないと思ったよ」と言って負け惜しみを致しました。

 現地における日用品物資の生産も向上致し、潤沢に出まわるようになったので、現地採用  のインドネシア職員にも酒保物品の配給を始めました。この件は全てヨッピーに任せ、品物は集めるが配給は一任致しましたら、皆とても喜び進んでヨッピーの手伝いを買って出る者もあり大成功でした。
やはり原住民は生活物資には困って居たから他の役所の職員から羨望の眼差しで見られたとの事でした。

酒保の仕事の想いで 「播秦建公司」

 何時もお世話に成っている物配のお名前は失念致しましたが,物資配給課長の商社の方が「粟竹さんどうしても欲しい品物が有る時は華僑の店に行けば大概ありますよ」と海岸通りの「播秦建公司」(字がはっきりと覚えて居ないが)に紹介状を書いて、電話を入れて何時行けば良いかと手配して下さいました。行きましたら商店ではなく小さな普通の家で、門の所に播秦建公司と額が掛かって居るだけでした。来意を告げると中に招じられ入ったらその家の大きい事、何処にこんな場所が有ったのかと驚くばかりで、その内年配の番頭さんらしい支配人の方が出てきて、愛想良く迎え入れ応対して呉れまして紹介状を出しましたら「電話でお話は聞いて居ります、欲しい物が有れば何でも値段さえ折り合えば捜して上げます。」と言われ、今日は挨拶に来ただけだとおいとま致しました。彼から見たら私などこの小僧がと思われたでしょうが、役所に帰りもう既に大尉に昇進致しました湯浅大尉にこの事を報告致しましたら、良く話を聞いて下さり「余り深入りしないで上手に付き合う様に」と言われ一任されました。

 後日又行きますと私が気に入ったのか、とても親切に色々とアドバイスを下さり、仲間の華僑の店やインド人やアラブ人の店を紹介して、一緒に同行して下さり、それぞれの店主に「この人に安く便宜を計らうように」と口添えをして呉れました。これは日頃課長が良く言われて居る「現地の人にも礼儀を正し、決して占領者のような相手を見下す態度を慎むように」との教えを守り、相手に年長の礼を示したのが気に入られたらしく、その後親しく世間話などもできるようになりました。  然し値段の交渉には納得する値段からは一歩も譲らず絶対に妥協致しませんでした。折り合わなければ交渉決裂で断じて引きませんでした。
 アラブ、インド系は特に駆引きが強く、最後には相手が根負けして妥協してきました。 これはやはり駆引きの強い魚河岸、で永年商売をしてきた父親の血を受け継いだのではないかと今になって納得して居ります。課長が私を酒保係りに任命したのはその事を考慮したのでしょうか。この駆引きの強さが評判になりアワタケと発音がしにくいのか何処に行ってもトアン酒保とかトアン.カチャマタ(眼鏡さん)と呼ばれるように成りました。

 何処の店もそれらしい商品は余り店頭になく、殆どが見本の取引で一つの取引きが成立するまでは結構時間が掛かりましたが、同じ品物なら何店かの値段を調べ、簡単な市場調査を致しまして値段の目安を決めてから湯浅大尉に報告を致し、買い入れの許可を受けまして行動に移りましたが,湯浅さんも段段と仕事の量が増えまして忙しくなり、私を信頼してまかせてくれるように成りました。
 昭和20年に入り司令部からの接収物資も段段品薄になり、入荷もなくなり在庫のみになりましたが,あれには本当に儲けさせて貰いました。 司令部も全軍に支給するには数が少なく、半端物で処分に困って居りました品物なので,値段も当方の言値次第で安く入り、LUXの石鹸などは現地製と同値ぐらいなので、配給値段は何倍にもなり、物凄い利益が上がり酒保の運用基金も莫大な金額になりました。資金が有るのだから少しぐらい高い闇物資もどんどん買って原価の30%くらいの値段で配給して喜ばれました。
 当時皆さんタバコを吸う方はライターを使って居りましたが、このライターの石が店頭に無くなりまして不自由をして居りまして酒保で探してくれとの要望が多く,湯浅さんが私に探すように命じました。私も街に出まして探しましたが、何処の店でも有りました物が全然無くて不思議な現象だと思いましたが、致し方なく播秦建公司の支配人に相談致しましたら「いま街には全然有りませんが、持っている所を知っているから探して上げる」と言って呉れました。
 後日連絡が有りましたので行きましたら一個70セントだと云われ、飛び上がらんばかりに驚きました。なんぼ何でも今まで高くても5セント位の物が70セントとは目茶目茶だと言いましたら「もう絶対に入らないのだから致し方ない、どうしても欲しいのならばそれで買わなければ手に入らない」と言われました。私は「何個有るのだ、」と云ったら「3000個だ」との事で、帰り湯浅さんに報告したら「70セントは目茶目茶な値段だが、藤井大尉がライターの石を探しているから、買ったら司令部に分けてやろう」と言われ、「任せるから出きるだけ安く買って来い、この事は課長には報告しないで全部俺が責任を持つからやってみろ」と発破を掛けられて、私も余りにも莫大な金額の大きい取引なので、少し怖気がつきましたが資金は有るし、湯浅さんが責任を持つと言うからと気を大きく播秦建公司の支配人の所に行きまして「全部で幾つあるのだ、値段によっては全部購入してもよいから」と云うと「全部かき集めても5000個だ、粟竹さんとは親しい付き合いだが、全部この店の物なら相談に乗るが何人かの集め物なので、全部幾らで買って呉れるか?」「5000個全部で1500ルピアといったら笑い出し「幾ら何でもそれは無理です」「ではこの話は無かった事に私も民政部の皆さんにライターの石1個70セントとは云えない」と足を抜いて帰りました,湯浅さんもそれは無理だろうと言ってましたが暫くして連絡があり、お会い致したいと言ってきました。私はそれ来たと思って居りましたが、欲しい顔はしないで石の話題には触れませんでした。 先方も世間話などして居りましたが、私が知らん顔しているので遂に「所で先日の石皆で相談して粟竹さんだから特別1個50セントまで致します」と云うので「私も考えて見ましたがやはり50セントは買えない、35セントまで譲歩致しましょう」と言って帰ってきました。湯浅さんは「50セントは仕方ないかな」と言ってましたが,私が反対したので「まあ余り無理をしない様に頑張れよ」と後は一任してくれました。
 その後1週間ぐらい何とも言ってこないので、これはやはり駄目で虻、蜂取らずに成ってしまったかと心配して居りましたら、会いたいからと言って来ましたので、未だ脈は有るかなと出かけて見ましたら、支配人が「粟竹さんには負けました、40セントで如何でしょう」と云ったので、私も最初の見積もりなので安心致しまして「私としては不本意なのですが、今までトアンには随分お世話に成っているので40セントで手を打ちましょう」と3週間位掛かってやっと大きな商談が成立致しました。  月給が手取り30ルピアそこそこの時2000ルピアの取引は大変で、今の金額なら莫大な取引でした。
 支配人は後で「粟竹さんは若いけどもう立派な一人前の商人ですね」と言われ誉めているのかな?嫌な奴と思ったのかな?と変な気持ちになりました。その間司令部ではもうマカッサルの石は全部民政部が買い占めたとも知らず必死になってライターの石を探して居りました。  何故司令部が懸命に成って探していたかと言うと,館砲化兵専修の小林少尉が昭和19年秋にセレベス23特根に転勤してきてから、現地にて応急兵器の製造を始め手留弾や鏑弾筒等の製作の為黒色火薬発火装置にライターの原理を利用するので、石を探して居りまして、担当の国分大尉が街中を探して居りました。湯浅大尉より藤井大尉が石が入ったと聞いて飛んできまして「有るだけ貰うから」と言うので酒保で必要なだけ取って後、全部司令部に回しました。
 藤井大尉が「粟竹幾らだ」と言うので「言値は70セントでした」と云ったら全然高いとも云わず「そうか後で払うから」と云われたので「藤井大尉待ってください、今酒保にはお金は沢山有りますが物が有りません。お金でなく物で下さい」と約4000個分2800ルピア分の商品引き換え証書を書いて貰いました。
 石だけで1200ルピアの儲けになり皆さんには1個5セントで配給いたし、どうせ司令部からはどんな物が来るか判らないので、儲けの分は保険だと想い、博打を打った気持ちでした。湯浅大尉も「良くやったな」と誉めて課長に報告してくれました。課長は「やっぱり魚問屋の倅だね、やる事そつがないね」と云って居られました。然し2000ルピアの大金の大取引なので湯浅さんもとても心配だったとの事でした。
 後日スラバヤから着いた司令部からの品物は、全部接収品や街で仕入れた雑貨ばかりで中にはタオル地のポロシャツなんかもあり傑作は女子のパンテイで当時珍しいヒラヒラのレースの着いた踊り子さんが穿くような、私なんか見るだけで顔が赤くなるような物も有り、パンテーの配給は藤野さんに任せました。
 後で聞きましたらとても大きく手を加えなければ穿けないとの事でどの様にするの?と聞いたら「そんなこと聞く人が居ますかバカ」と叱られました。珍しい物も沢山有りましたが何分仕入れ原価が高く随分安く皆さんに配りましたが、結局ライター石の儲けを全部吐き出し尚赤字が大きく出ました。道理で藤井大尉が言値の70セントで引き取ったと思いましたが、皆さんに変わった物を供給できて良かったと思います。特に大量のブランデーは酒の少なくなった時代ですからとても喜ばれ、料亭などからも分けて欲しいと問い合わせが来ましたが、湯浅さんは断って居られました。
 段段と品物も街から消えて物探しに苦労するように成り、主計課主幹のシロップ工場に行って分けてもらったり,経理部のお菓子工場に行き、瓦煎餅のようなタピオカ粉の焼いた美味しいお菓子など分けてもらい配りました。
 20年5月頃には決まった日用品の配給しかなくなり、街に出て物が見当たらなく成ったので時たまの配給の仕事もヨピーに任せ、私は遊軍として湯浅大尉の仕事を手伝う事が多くなりました。この頃より戦局の逼迫によりいよいよマカッサルも敵の侵攻の目標に成り、マリノに要塞を築き戦略物資の集積を始めました。
 湯浅さんが主に其の任務に付き、私もお手伝いを致しカチャンミニャ(落花生油)など街に無くなった物など随分播公司に頼んで莫大な価格で集めて貰い随分と儲けさせました。彼はもう日本の敗戦を見越して居ったのか、足元を見透かして高値を言って来ましたが、背に腹は変えられず目を瞑って言値で買いました。
 其の物資も戦後マリンプンに搬送して我々抑留中の食べ物になったのですから、厳しい情勢下で食に恵まれたのも播公司のお陰もあると思って居りますが、金の為には貪欲な華僑の逞しさに脱帽いたしました。終戦後聞いたのですが私の事可愛がって面倒を見てくれた方は播家の三男か四男の息子さんだったと知りました。
 1976年にマカッサルに再訪致しました時、播家の消息を尋ねましたらイ政府の華僑排斥事件の時に長男は殺され家族は消息不明との事で、今では播秦建公司の名も知らない人が多いと聞きましたが、あの逞しい一家のことですから、きっと今ごろは何処かで大会社に発展して居る事でしょう。

 勤務中には色々な面白い失敗も有りました。戦局が悪くなりまして時折ニューギニアやハルマヘラ方面よりの転戦部隊がマカッサルに多くなりました。各部隊とも丸裸同然で来るので到着後直ちに日用品に不自由致しますので、或る時司令部の藤井大尉より、湯浅大尉に転戦の陸軍部隊が品物に不自由しているが、司令部では手が回らないから手伝って呉れと依頼があり、程なくして陸軍の若い主計少尉が湯浅大尉の所に日用品の手配の依頼に見えました。
 湯浅大尉も忙しいので私に対応を命じ、欲しい物のリストを作りましてお届けすると約束致し、私は直ちに経理部や物配に行きまして、配給の手配書を貰い各工場や倉庫など駆けずりまして軽トラック一杯の品物を揃えましてマカッサル郊外の仮兵舎にと届に行きました。
 兵舎に着きまして「民政部の粟竹と申しますが○○少尉にお願いします」と衛兵所に言いましたら、中から衛兵下士の確か軍曹か曹長だと思うのですが「貴様軍属のくせに○○少尉とは何事か、○○少尉殿と申し上げろ」と物凄い剣幕で怒鳴られ、追い返されてほうほうの態で逃げ帰って来ました。
 私と致しましては折角一生懸命集めて上げ届に行ったら怒鳴られて帰されたので、腹の虫が納まらず湯浅大尉にこの様な訳でと報告したら、笑い出し海軍は官位、官名、役名の全てが敬称と成り呼び捨てで良いが陸軍はそれに閣下、殿などの敬称を付けるために理事生の私が高等官の少尉を呼び捨てにしたので怒ったのだと、結局海軍と陸軍の敬称の違いが誤解を生んだのだと判り納得致しました。
 電話を受けて若い少尉はすっ飛んで来て湯浅さんと私に平謝りに部下の無礼を詫びましたが、私も気分良く少尉と一緒に行きましたら、今度は捧げ銃で迎えに来て髭面の下士官が謝りに来たのは良い気分でした。その少尉とはその後何回か物資を手配いたし仲良くなりまして、二度ばかり飲みに行きましたが無事武運を真っ当されたか判りません。

颯爽と街を走る

話は前後致しますが、酒保係りを任命致し外回りが多くなりまして、自転車では能率が上がらないので、湯浅さんが交通課の全車両を管理している田柳技師に頼んで、オートバイの支給を依頼してくれました。最初のは小回りが利くほうが良いと50cc位のドイツ製のデー.カー.ウエイーのバイクでした。これは自転車の様に何処へでも簡単にパタパタとガソリンも食わずとても便利に使いました。
 その内パレパレから英国製のB.S.Wが来たからとこれは長く乗りました。調子は良いのですが、最初のキックが中々掛からず掛かれば力も有るし大分遠くまで行きました。その後英国製のノートンが来たから粟竹に乗せてやるから酒を沢山集めて来いと、ノートンに乗る事に成りました。この車は当時珍しいフッドギアでとても重量感があり素敵な車で気に入ってましたが、民政府に課長のお使いで行った時空襲に遭いまして、爆弾が近くに落ちまして壊れてしまいました。
 最後は特別の計らいで現地召集されるまで念願のハレーに乗せてもらいました。これは憧れの車でお痩せの私が乗ると様にならなかったのですが、倒れそうに成るとまわりのネシアの人を呼んで助けて貰い、起こして貰う事もしばしばでした。でも若いアンちゃんが防暑服に戦闘帽と、半長靴でマカッサルの町を颯爽と風を切ってハレーで走ると云う事は、今時の青年でも憧れるカッコ良さで、何とも云えない良い気分でした。
 お酒は林兼商店が現地で合成酒を作って居り、また大日本油脂が石鹸の工場がそれぞれマロスに有りましたので、時折連絡に行きますと結構距離がありますのでとても暑く帰りにマロス橋の麓の木陰に竹筒に入ったバロウ(砂糖椰子の汁を醗酵させた椰子酒)を売って居るので、バイクを止め確か1本約1.5リットル位入っているのが15セント位と記憶しているのですが、この竹筒の回りに水滴があり、気化熱の為にヒンヤリと冷えた甘いサイダーのような飲み物が熱く火照った体に何とも云えない美味しさで、ゴクンゴクンと飲む其の美味さは今でも思い出します。
 然し売って居るのは醗酵途中の言わばどぶろくの製造過程の甘酒の状態で、完全に醗酵すると結構アルコール分も高くなり、これを熱い体に入れ揺られて帰ると丁度30分くらい経つと酔いが回って来て、役所に到着した頃はほろ酔い機嫌で顔も赤くなり、フラフラと机に着くとヨピーが目ざとくそれを見つけ「粟竹さんバロウ飲んで来たでしょう、課長や湯浅さんに見つからない内に隠れなさい」と耳元で囁くので慌てて当直室のマンデー場で冷たい水を被り酒保に逃げ込んで酔いの覚めるまで待って、何食わぬ顔をして戻って来たのが懐かしく思い出されます。
 又雨季になると時折スコールが来ますが、向こうの雨は塊で降るので道路を挟んで手前は降っているがあちらは濡れていないと云う現象も良くあり、バイクで走っていると雨が後ろから追っかけて来て懸命に成って逃げて役所に走りこみ、危うくセーフの場合も時たまありまして「今日は何匹蛙を轢いた」と雨で道路に出てくる沢山の蛙を殺してしまった事も有りました。
 7人の新任理事生の中で私と中村氏だけは外回りで、後は内勤なので二人は本当に愉快な気分で街を駆けずり回りました。マンゴーの並木道やブーゲンビリアの咲く緑の街並みなど駆け巡り、今思い出しても楽しい青春時代でした。

野戦隊 Anggota Pengjaga Api(消防隊)

たしか20年3月頃からだと思うのですが、戦局も切迫してきて敵はハルマヘラまで攻めて来ました。今度はセレベスだと覚悟を決め緊迫した空気が漂ってきた頃、マカッサル防衛の為に軍属、一般邦人の方々が多く現地召集されまして軍籍に入り、スングミナハサの兵舎に入隊致しました。
 残った者は野戦隊という防衛隊を組織いたし、隊長は課長の小笠原少佐で斎藤、湯浅両大尉が幹部指揮官として組織が編成されました。
 隊員は訓練を受け空襲の時などは各定められた警戒配置に着きました。5月頃より空襲も激しくなり私は皆と爆撃後の整理などに駆り出されスングミナサの経理部の縫製工場の爆撃の時は、瞬発爆弾が沢山の若い女工さんの働いて居る所に落ちたので、その状況は凄惨を極め頭、手足、胴体とばらばらになった数多くの死体が散乱しているのをトラックに人数の確認の為それぞれ1組に集め積み込みまして、ロッテルダム前のプールに運びまして、トラックが何回も往復致しまして、私たちも疲れはて最初は軍手をしていたのですが、それも血と油のためにヌルヌルになり異様な死臭の為に気持ち悪くなり、日も暮れて暗くなり死体は未だ残って居るのにトラックは来なくなり、三人で番をしてましたがその恐ろしい事、未だに思い出してはうなされることがあります。
 遂に真っ暗闇になりまして我慢しきれず駆け出してマカッサルまでかなりの距離が有ったと思うのですが夢中で帰ってきました。
 帰ったら皆マンデーを終わり談笑して居りましたので「酷いじゃないか、置いてけ掘にして」と怒りますと「運転手がもう終わりだと云った」と云うので喧嘩にならず、幾ら体を洗っても匂いが抜けず、食欲もなく疲れはてて寝ましたがうなされまして、当分怖い夢を見ました。
 其のうち同じ主計課の佐伯嘱託と二人はAnggota Pendjaga Api (消防隊)に配属になりました。これはインドネシア語の堪能な佐伯さんとバイクを持ち機動力に富んだ私を野戦隊と消防署との連絡に当たらせる為で、当時消防署は街外れの浄水場にあり、消防車は確か3台あったと思います。署長は市役所の水道課の技師でお名前は失念居たしましたが杉本か杉山さんか杉の付く方だと記憶して居ります。
 隊員は本職の消防士でとても勇敢な人達で、すぐに仲良くなり酒保から簿外のタバコなど沢山持って行って喜ばれました。
 課長は「粟竹は火事と喧嘩が大好きな深川ッ子だから適任だ」と湯浅さんと話して居られたそうです。お言葉の通り出動命令が出ると嬉々としてサイレンを鳴らし走る消防車の後をバイクで追いかけ其の経過を本部に連絡致し次ぎの指令を伝えました。
 20年5月の大空襲の時海岸の軍需部の倉庫とチャイナタウンが大打撃を受けました。その時のことは忘れられません。倉庫には近く前線に送る戦略物資が満載されて居りました。恐らく敵の諜報機関の通報により解かって居ったのでしょう、完全にやられ米や多くの食料燃料弾薬など貴重な物資が目の前で焼かれました。消防隊員達は少しでも助けようと思い懸命になって水をかけました。私も消防車の傍でホースを伸ばしたり一生懸命やりましたが、其のうち倉庫のドラム缶のオイルに火が入り廻りから熱せられたドラム缶がブルブルと震えだし膨張して爆発すると中の油が裂け目より天高く吹き上げ100M位まで火の幕が燃え上がり、まるで花火の様でそれが次々と爆発致し、消火の水を取る為に岸壁の先に消防車を設置致しましたので廻りを火で囲まれ、倉庫も崩れ始めましたので致し方なく持ち場を捨てて撤退する事に成り、隊員と海に飛び込み対岸まで泳いで逃げました。幸いに引き潮だったので早く岸壁から離れることが出来まして、隊長は流れてきた流木に綱を結び全員を集めて綱を離さないように指示致し、私を木に結び付けまして約1時間位過ぎたでしょうか対岸に泳ぎつきました。
 間もなく消防車の有りました岸壁の倉庫も焼け落ちまして危うく命拾いをいたしました。
その時私は第3分隊で3番目の消防車でしたが名前は忘れましたが通称TAICYOUと呼ばれた隊長がブギス族の人でしたが、とても勇敢で信頼の置ける人で彼のお陰で私達が助かったと思って居ります。他の2台の消防車は外の所に配置してあったのでそこまでたどり着きますと、皆もう我々が駄目だと思ったらしく全員7名の無事を喜んで呉れました。然し貴重な消防車やヘルメット、防火コートなどを失い、当初の判断ミスは悔やまれました。明け方グシャグシャの惨めな格好で宿舎に帰りますと、課長以下皆さんで「もう駄目かと思った」と無事を喜んで下さいました。
 翌日焼跡の中華街に行って見ると、播秦建公司の屋敷跡など跡形なく焼け野原となって居りまして、皆さん安否は判りませんでしたが後日聞いた所によると、彼らは1週間ほど前に避難したそうで、もう早くから情報が判っていたのかもしれません。、今思うと物配の課長と公司の長老に昼食をご馳走になったとき、部屋の中に重慶政府の将介石からの献金の感謝状が飾って有り驚いて聞きますと「私は華僑だから中国にも日本にも協力している」と威張ってました。
 播一家の先祖は元来セレベス海マカッサル海峡からモッルカ諸島小スンダ列島を股に掛けた海賊の大親分だそうで当時は南セレベス各地に産物の集荷販売の巨大なネットワークを持つ経済界の陰の大物でした。ですから我々のことは全部お見通しで、ライターの石を海軍が探しているなんて情報は早くから判っていて、マカッサル中の石を1セントか2セント位で買占め目茶目茶な値段で大儲けをしたので、流石華僑のやる事は恐ろしいと思い良い勉強になりました。
 後で聞いた話ですが戦前は沢山流通していたオランダの金貨や銀貨が、日本軍が駐留してから街の中から消えてしまいました。ヨピーに聞いたら以前は銀貨を使用していたのに軍票が出たら全然消えたと云ってましたが、戦後ゾロゾロと出てきましたのは、華僑がドラム缶の中なぞに入れて地中に埋めて置いたのだと聞かされました。余談になりましたが彼らの底力の偉大さに敬服致しました。

セレベス民政部時代の思い出(2)