日本軍政時代のバリ

スラウェシ研究会

平成28年(2016年)6月6日(月)、日本バリ会幹事長の稲川義郎様(左の写真 撮影:粟竹章二様)から、日本軍政時代のバリ島について話をお聴きした。場所は東京・目黒駅近く、旧セデルハナを新装開店したインドネシア料理店チャベ。日本軍政時代のバリについて纏まった資料はあまりないこと、また、同じ海軍省管轄の統治地域であったバリとセレベスでは大きな相違点があったことなどスラウェシ研究会の会員にとっては、たいへん興味深いお話しでした。

バリとセレベスの軍政の相違点とその後の状況について、下記に纏めてみた。

1)戦後マカッサルでは34名のBC級戦犯の犠牲者を出したが、バリ島では一人の犠牲者も出さなかった。

2)バリ島では昭和19年にバリ防衛義勇軍(PETA , Pembela Tanah Air) 3個大隊が組織され、日本の敗戦後オランダの再占領に立ち向かった。バリ島の玄関、Ngurah Rai (グラ・ライ)国際空港はインドネシア独立軍バリ地区総司令官、 故 Ngurah Rai 中佐の名をとったものである。日本軍兵士たちは、自分たちが慈しみ育ててきた義勇軍、兵補が最前線で闘っている、これを見殺しにはできない、やむにやまれぬ思いが 彼らを駆り立てたという。

一方、セレベスではスカルノの要請にも関わらずPETA の創設を認めなかった。そのため戦後、オランダ兵が再上陸しても、ほとんど戦うことはできなかった。1946年12月には、オランダの傀儡国家 Negara Indonesia Timor (東インドネシア国 首都マカッサル)の成立に至っている。また1945年9月5日、初代スラウェシ州知事に就任したラトランギ博士は1946年4月5日、オランダ軍に対する反逆罪で投獄され、その後流刑となっている。

3)インドネシア独立戦争に参加し、犠牲となった日本兵はバリ島の英雄墓地に祀られ、毎年11月20日、独立戦争犠牲者の慰霊祭を開催し、日本人を含む犠牲者を追悼している。

一方スラウェシでは独立戦争に参加した日本兵は、組織化されていない現地の若者の運動に加わり、現地の人達から “ La karoro “(日本兵であることを隠すため、また衣料不足のため椰子の葉をまとっていたので)と呼ばれていたが、全貌はいまだ把握されていない。マカッサルの英雄墓地に祀られた日本人は一人も確認できていない。ちなみに同墓地にはジャワ戦線で戦った日本人部隊長、杉山長幹(インドネシア名スカルディ杉山)の墓がある。3名の興亜専門学校の出身者はオランダ軍基地を手榴弾と機関銃で襲撃したが失敗し、BC級戦犯として処刑されるという悲惨な例もある。このほか、後年戦友が慰霊碑を建立した例、地方の村の墓地に埋葬された方を旧戦友が探し出した例、ほか埋葬地点不明の方々もいるが全貌は掴めていない。

日本軍のバリ島侵攻の経緯

スラウェシ島北端のマナドに日本海軍の落下傘部隊が降下したのは1942年(昭和17年)1月11日であった。そのあと日本海軍は、1月24日、東南スラウェシのケンダリにあった蘭印空軍基地を確保、2月9日、マカッサルに上陸し同市を占領した。

バリ島攻略は、17年2月19日未明、サヌール海岸からの上陸作戦で始まった。日本陸軍、海軍連携による上陸作戦だった。主力は陸軍四十八師団・台湾歩兵第一連隊。台湾の名前がついているが、兵士は日本の九州出身者だった。2月20日にはバリ島沖で大規模な海戦もあり、バリ島全島を占領したのは2月23日であった。

(一方、マカッサルでは占領後、オランダ軍人や官僚たちをマカッサルの監獄に収容した。終戦後マカッサルの監獄から出所した元蘭印軍将校や高級官僚はただちに元の職場に戻り、インドネシア独立運動の大きな妨げとなった。また日本軍による蘭印軍捕虜の扱いでBC級戦犯の罪を負う関係者が出た。)

バリ島の父と呼ばれた三浦襄は海軍軍令部からバリ島攻略への道案内、通訳を頼まれている。海軍の特別警備隊の乱暴ぶりについて陸軍大将に上申するなど、住民と軍部との間に立って尽力した。三浦氏は つねに現地人の目線で、無給で日本軍の占領政策にもさまざまな助言を行っている。バリ島では戦犯が一人も出なかったことは三浦氏の功績と思われる。(ちなみに三浦は大正、昭和の初期にはマカッサル、トラジャで活躍している。昭和20年9月7日自決)

その後 陸軍部隊は 3月2日 ジャワに上陸した。

小スンダ民生部のこと

バリ島の民政は日本陸・海軍が上陸したあと、短期間に目まぐるしく変わっている。海軍軍政の根本とされた『占領地軍政処理要綱』の「軍政地域ノ区分」 表の区分では、バリ島のシンガラジャ(Singaraja)には、アンボンに置かれたセラム民政郤の出張所が予定されて,実際に17年3月10日にそのようになったようだ。

17年5月25日に海軍民生部の管轄となり、セレベス海軍民生部「シンガラジャ出張所」となった。シンガラジャ出張所長には海軍大佐堀内豊秋が任命された。堀内大佐は、マナド時代と同様、若い兵士に対して、現地の住民を日本人と同等に大切に扱うようにとの教育が行われ、以後、バリ島の治安は一挙に改善されたという。根拠地隊としての態勢も整いはじめ,各地の所轄長会議が開かれている。そのさい,捕虜および抑留オランダ人の扱いも,治安の問題ともからんで最初期の軍政の重要な 仕事であったようである。  

その後、マルク地方の戦況が悪化し、18年2月から6月にかけて、セラム民政郤はバリ島へ撤退した。バリ島・シンガラジャの民生部は「小スンダ民生部」と改称。管轄区域はバリ島、ロンボック島、フローレス島、スンバワ島、チモール島などとなった。稲川義郎氏は19年1月に「小スンダ民生部」の主計課に着任、丁度バリ防衛義勇軍の立ち上げの時期だった。

PETA の誕生から独立戦争に至るまで

19年2月中 陸軍第16軍参謀部別班により バリ防衛義勇軍(PETA , Pembela Tanah Air)  3個大隊編成発令
19年4月6日 バリ防衛義勇軍幹部教育隊発足
19年6月15日 バリ防衛義勇軍幹部教育終了
19年6月下 バリ防衛義勇軍三個大団編成完結
19年7月 バリ防衛義勇軍三個大団に大団旗授与

19年9月7日 小磯声明 インドネシアに将来独立を許容
19年9月   独立準備調査会設置を発表
20年3月   独立準備調査会設置
20年4月末 Suekarno, Hatta, 前田等 Makassar へ
      スカルノはバリ島も2,3回 訪問している。
6月3日 Hatta が Bali へ
6月23日 タラカンの日本軍抵抗が終わる

7月初め 海軍民政府がマカッサルからスラバヤへ移転
8月6日 広島に原爆
8月7日 インドネシアに独立許可
8月9日 長崎に原爆
8月9-12日 スカルノ、ハッタがサイゴン訪問
8月11日シンガラジャに「建国同志会」事務所開設。
8月15日 終戦
8月17日 インドネシア独立宣言
8月22日 BKR (Badan Keamanan Rakyat) 最初のインドネシアの軍隊が元PETA 、兵補を再編して発足
10月ごろ 吉住留五郎が武器引き渡し要請のためバリに来訪。
     当時、バリ島の軍隊は正規軍(PETA)と住民部隊、通信部隊で構成されていた。
21年3月2日 戦後初めて連合国側の兵士、オランダ兵がバリに到着した。主体は捕虜として泰緬鉄道の建設に従事していたという。それまでは日本人の自主的な収容所生活が行われていた。
3月10日 スラバヤの収容所へ、その後レンバン島へ移動
21年6月 稲川氏帰国
21年11月20日 タバナン郡マルガラナ村で大激戦、空爆と地上からの集中砲火を浴びて Ngurah Rai 以下独立軍兵士85人、元日本兵7人が玉砕した。

バリ島における慰霊塔・英雄墓地 など

慰霊塔

DESA PENARUGAN プナルガン村の村役場、小学校の敷地内(写真上 慰霊塔の前に設置された銘版)
DESA BLUNBUNGAN の森の中
いずれもデンパサールの北方方向にある。二つの慰霊塔の建設資金はすべて村人たちの拠金によって、二人の元海軍兵、松井上等兵曹(バリ名 クスリ、北九州出身)、荒木一等兵曹(長崎県出身)に感謝して建立されたという。建立後年月が経過し老朽化が進んだが、数年前に新しく改装されたという。

英雄墓地

マルガラナ村にある英雄墓地には、1372柱の墓碑が青い芝生の上に整然と並んでいる。現地人とともに11人の元日本兵が埋葬されている。福祉友の会の資料「独立戦争戦没者 バリ」(P387)によると 14名が埋葬されたと記載されている。第3海軍警備隊 6名(前述慰霊塔の松井上等兵曹、荒木一等兵曹を含む)、陸軍軍曹(山砲兵)1名、そのほか現地名のみで埋葬された方が6名であった。

毎年11月20日、マルガラナでは独立戦争犠牲者慰霊祭が行われている。旧都シンガラジャに通じる街道に面したマルガラナ村の会場は、遺族や関係者約3000人で埋め尽くされ、日本からもデンパサール総領事ほか関係者も駆けつける。ここに眠る元日本兵は、当時みな20代の青年であった。インドネシアの兵に至っては10代の少年が多い。会津の白虎隊を連想するが、彼らはインドネシア独立の大義に若い血を燃え立たせたのだ。バリに行ったら是非英雄記念墓地に詣で、その熱い情熱を偲んで頂ければ幸甚である。(文責:スラウェシ研究会 脇田)

稲川義郎氏略歴

1926年8月生まれ
1943年 東京植民貿易語学校(初代校長は新渡戸稲造)卒業、その後 元海軍省 南方政務部 小スンダ民生部・主計課に配属される
1946年6月 帰国
終戦後 拓殖大学経済学部卒業後、野村貿易でインドネシア関係の業務に従事、その間日本インドネシア協会文化交流委員などを歴任
現在 日本バリ会 幹事長

参考資料