ゴロンタロ
Gorontalo

脇田 清之

1.古くからの交通の要衝 Gorontalo

5.インドネシア一番の貧困州 ?

2.交通・地域データ

6.戦前の日本人の進出状況 (2008-1-30追記)

3.リンボト湖 (Danau Limboto)

7.ホテル事情

4.オタナハ要塞 Benteng (Fort) Otanaha



1.古くからの交通の要衝 Gorontalo

 GorontaloはGorontalo州の州都で、ミナハサ半島のほぼ中央のトミニ湾側に位置する。この町はトミニ湾を隔てて対岸の中央スラウェシ州を含むこの地域(海域)の交通の要衝となっている。
 右の写真を見る限り、なぜここが交通の要衝なのか分かりにくい。しかし、かって海面が高く、リンボト湖、Gorontalo の市街地は、トミニ湾に水没していて、ミナハサ半島はゴロンタロのあたりで狭い地峡を形成していた。そのためこの地域は戦略的にたいへん重要な地域であったと思われる。1795年に作成された地図を見ると、スラウェシ島の西岸には多くの地名が記されているが、ミナハサ半島では現在の主要都市マナドやビツンの地名は無く、記載されている地名はGuarantola と Tolatola だけである。Guarantola が現在の Gorontalo であり、Tolatola は現在の Tolitoli であると思われる。この地峡を挟んで、ミナハサ半島の動物の生態系も異なるという。

 Gorontalo港からは、トギアン(Togian) 諸島や中央スラウェシ州のポソ(Poso) やパギマナ (Pagimana) に渡る小型の客船、一般貨物船、各種フェリーが運航されている。 Pagimana は古くから中央スラウェシ東部地域の商業の中心として知られている。Gorontalo - Pagimana 間はフェリーで約8時間から10時間掛かるが、湾を迂回する陸路の場合の36時間に較べて大幅な時間短縮となっている。Gorontalo港からは主として石鹸やインスタント麺などの生活物資が運ばれ、Pagimana からは農産物(ココナツ、丁子、カカオ、カシュナッツなど)や海産物が入ってくる。 (写真一番上:Google 提供の航空写真を加工した地図、地元の人からウナウナ(Unauna)島は1984年の大噴火で沈んでしまったと聞いたが、この航空写真ではぼんやりと写っています。浅瀬として残っているのでしょうか? 写真で白く写っているのは雲、2番目の写真:貨物船の入る埠頭、フェリーの埠頭は数キロ先にある。)

2.交通・地域データ

 Gorontaloへはこれまでマナドから小型飛行機が週に何便か飛んでいるだけで、また車で行くとマナドから8時間程度掛っていた。しかしGorontalo州が2000年12月に北スラウェシ州から分離独立してからはマカッサルから毎日2便 (Lion AirとSriwijaya、飛行時間約1時間20分) が出来て大変便利になった。Gorontaloの空港から市内までは約32 km、市内から港までは約5kmの距離。町 はLimboto 湖の東側に位置する。州の主な産業は商業のほか金などの鉱産物、椰子、丁子、カカオなどの農産物、林業などである。
 Gorontalo州の人口は約90万人、このうち州都Gorontaloの人口は約20万人。宗教はミナハサがキリスト教が大勢を占めているのに対し、ここGorontaloはイスラム教が住民の約95%と主流となっている。市民の足はかってはベンディ (bendi) と呼ばれる馬車が主流であったが最近は馬の代りにオートバイを使ったベントール (bentor) が使われている。
 Gorontaloの人達の自慢は、他の地域より3年早い1942年に、オランダから独立を勝ち取ったことです。第二次世界大戦中には日本の占領軍も追放しているという。そのため戦争中に連合軍の爆撃を受けなかった。いまでもオランダ植民地時代の建造物が残っているが、メンテナンスは十分に行われていないという。

3.リンボト湖 (Danau Limboto)

 数千年前、海面が現在より約4mほど高かった時代、Limboto湖、Gorontalo のあたりは海面下にあって、この地域は半島の北側の Kwandan との間に狭い地峡を形成していたという。地図で見ると確かに半島の中でこの部分は細くくびれている。地勢的にこの地域は戦略的な拠点だったと思われる。Limboto湖はかって水深15m程度あったが、6本の河川からの土砂の流入により現在では最大で2mと沼地のような状態になっている。この状態は南スラウェシ州の Tempe 湖の状態に似て湖の末期状態であるという。かっての湖畔のレストランも今は数キロ水辺から離れてしまっている。また湖畔には温泉入浴施設もある。(写真左上ーGoogle 提供の航空写真ーの左上の湖)

4.オタナハ要塞 Benteng (Fort) Otanaha

 町の中心から約8km、Limboto 湖近くの丘陵に1525年に築造され、その後1980年代に改築されたという古城があった。Periplus のガイドブックにはポルトガル人によって造られたと書いてあるが、現地の人の話では外敵の侵略を防ぐためにゴロンタローの王国によって築造されたものだとの説明だった。同じ時期の1522年マルク地方のテルナテ島でも要塞が建設されたが、”住民たちは工事に不慣れで、工事はほとんどすべて140人のポルトガル人の手によって行われた(生田滋著 大航海時代とモルッカ諸島 中公新書)”と書かれている。また王国が、ポルトガルの援助を得て築造したと書いてある観光案内書もある。真偽のほどは解からない。現地の人の話では、城壁の石積みには砂と粘結材として、この地域に生息するマレオ( Maleo)鳥 の卵が使われたという。 岩波書店発行「海のアジア 4 ウォーレシアという世界」の中の沖浦和光先生の「ザビエルの訪れた香料列島」の中に次の記述があります。
 " 1512年にポルトガル船が初めてジャワ島経由でバンダ諸島に来航し、次いでスペイン艦隊がアメリカ大陸周りでやってきた。ポルトガルとスペインは、香料貿易で巨利を得ようとして、現地の小王国を巻き込んで抗争を繰り広げた。、、、、、マルク諸島の島々には16世紀に築かれたポルトガル、スペインの要塞が数多く残っているが、今日では殆ど崩壊している。"
 北スラウェシはマルク諸島貿易の中心テルナテ島に近いので、オタハナ要塞もその一つではないかと思われる。Bolaang Mongondow、マナドの北方の諸島、Banggai 諸島、 Luwuk などは、ポルトガルの影響下にあったテルナテの支配下にあった。(The Ecology of Sulawesi, P84, Periplus)
 この城からのLimboto 湖の眺めは素晴らしい。 (写真上左側) どうしてこんなに海から離れた山の上に城があるのか、資料を探していたら、15世紀にはGorontaloの相当部分がまだ海であったとの記事 (Kompas 2003-12-6) があった。そうであれば、Gorontalo の港は入口が狭く暴風を避けるには最適な港湾であり、この町は戦略的にも大変重要な地点であったことが理解できる。

5.インドネシア一番の貧困州 ?

 2006年9月27日のKompas Cyber Media によると、Gorontalo 州はインドネシア全州で一番栄養不良の乳幼児が多い(15.41%) という。この記事によると栄養不良の乳幼児が多い州はゴロンタロ州に次いで、マルク、パプア、東ヌサ・テンガラなどが挙げられている。2004年の別の統計ではGorontalo州人口の 29.01% が貧困層であり、この数字はスラウェシ島の中で一番大きく、南スラウェシの約2倍となっている。参考までにスラウェシ島で一番貧困層が少ない州は隣の北スラウェシ州である。(2006−11−3追記)   参照:スラウェシ経済指標

6.戦前の日本人の進出状況

   旧農商務省臨時産業調査局が大正11年(1922年)に編集した「蘭領セレベス島モロッカス群島及ニューギニア要覧」によると、1905年時点のゴロンタローの人口は6,352人、内訳は日本人を含む欧州人145人、中国人606人、その他の東洋人27、土人5,247人、アラビア人327人となっている。日本人は森由五郎(雑貨商及び輸出商)を含めて5名であったと記載されているが、いつ時点の数字かは不明である。不思議なことに、この統計では日本人は西欧人として仕訳られている。
 昭和13−14年(1938-39年)頃の日系企業の進出状況をみると、Gorontalo には田中商店(一般雑貨輸入)、巴商会(一般雑貨輸入)、内田商会(雑貨商・ヤシ・コプラ)、森古々椰子園(ココ椰子・バナナ)の名前が出てくる。近くの Mongondou には河合農園、倉元農園、栗本農園、岡田・森農園、管復農園の名前がある。いずれもコーヒーの栽培が中心であった。戦前、Gorontalo、 Mongondou を合わせると、10の日系の商店や農園があった。大正末期から昭和初期にかけて、日本人の進出が増えたことが読み取れる。

7.ホテル事情

 Gorontaloはまだ外国人観光客は多くない。町にはホテルが少ないので必ず予約してから出かけることをお勧めします。(2005年8月時点の情報)

2006-10-28 掲載
2006-11-3 追記
2008-1-24 追記・再編集
2008-1-30 追記