マカッサル懐旧談

(昭和18年〜21年)

旧南洋海運梶@
平賀 宏

a.新人着任

 昭和18年2月中旬、小生等一行南洋海運鰍フ南方派遣社員十名(内女性2名)は、海軍徴用船、日本郵船鰹椛ョの鎌倉丸で、セレベス島マカッサル港軍需桟橋に接岸した。 同港は同島中心市の港で、季節風を避け得る地形に恵まれた民需桟橋と帆船(プラウ)溜場も備えた良港である。直ちにN・S両先輩の出迎えを受け、支店にて、N支店長以下に挨拶した。
 支店はミニ議事堂の型の白亜のビルで、オランダの船舶会社KPM社(王立海運会社)の社屋を接収したもの。内部は銀行型のカウンターと中二階(書庫)付で右隅一部に子会社日の丸船運鰍r社長等が同居した。左手奥が裏口で、車、自転車置場がある。 驚いたのは、玄関入り口右手の、2メートル位の縦長木製看板に、墨痕鮮やかに「東印度本部」とのみあって、南洋海運潟}カッサル支店の表示はなかった。 この店の真前に、大通りを隔てて税関があり、その先に民需桟橋があった。 夕刻、海運集会所にて歓迎会に招かれたが、支店長曰く "本日着任の諸君は少々志気が弛んでいる" と語気鋭く迫る気配に、女性二人は泣き出してしまった。

 

写真(1)
マカッサル海岸通
左手トンガリ屋根の建物が旧KPM社 (オランダ王立海運会社)戦時中、南洋海運、日の丸船運の事務所、東印度本部と呼称(事実上マカッサル支店)、左手倉庫群、中に税関、左手が桟橋 (1975年頃撮影)



写真(2)
事務所裏出口、
左右は他社のもの、この左手内に車、自転車置場あり、空襲警報と同時にここからマロスウエイ向け疾走した。(1975年頃撮影)

b.社宅など

 先着のT、Y両氏設営の社宅に入った。そこは、二階建ての高いセメント塀に囲われた典型的支邦人家屋で、小生が割り当てられた部屋は、一階で、日当たりの少ない一室で、洋服箪笥と蚊帳付ベッド、丸テーブルに2個の椅子付であった。 早速、船舶課監督のI船長 M機関長の心遣いで、シーツ用の白帆布二枚づつの特配を受け、有難かった。(一晩空けるとこのシーツに体型の黴が生えた) 社宅の食事は、インドネシア人のコックの作る三食共、椰子油の匂いのする目玉焼き、野菜炒め等で馴れるまでは閉口した。 社宅から社までの足は、支店長のみ軍貸与の車(オースチン)で、我々は内地から送付の自転車であったが、小柄の小生のみ何故か英国製の自転車(ラーレイ)で、ボッシュのランプ付、軽快で助かった。

           

写真(3)
大和ホテル
(現Grand Hotel、以前の巨木なし) (1975年頃撮影) ここは現在の「Hotel Yasmin 」ではないかと思われますがはっきりしません。(高橋)  

c.前記門札の理由

 当地は、もとオランダ領(蘭領)東印度で、日本の占領中故、未だインドネシア領ではなく、然も、前年17年に千早丸で先着していた、船長以下ベテラン連は、占領直後で苦労しながら、ここマカッサルを中心に海軍は(占領地は海軍地区‐セレベス、南ボルネオ等、陸軍地区‐ジャワ、スマトラ等と分割統治下)各地に左記の如く駐在していた。

セレベス 地区
メナド出張所 岩本所長
後、芳内書記赴任後バリックパパン転出
 
ボルネオ 地区
バリックパパン出張所 伊藤所長外数名
後、青柳、芳内両書記転入。
 
バンジェルマシン出張所 宮路所長 小山書記
 
サマリンダ、タラカン駐在員事務所 五十嵐、内山、各駐在員
 
ポンティアナック駐在員事務所 加藤駐在員
 
アンボン 地区
アンボン出張所 羽丹所長

   上記の各支店を統轄する本部がマカッサル支店である。

 

マカッサル支店構成概略

駐在常務 梅垣長二(石原産業鰹o)
 
支店長 中川雄二(日本郵船鰹o)
 
後任支店長 遠藤 勝(日本郵船鰹o)
 
次長 海老原靖民(大阪商船梶j
 
監督 伊藤船長、森田、村山各機関長
 
船舶課 浜田、寺尾、岡本各書記
大倉、安田各書記(後着組)
 
営業課 清水、平賀各書記(青垣、坂口両書記バリックバパン行き)

庶務課 森主任(後中島主任)、大間、花房、山田、大村、新野各書記

束原、小池各タイピスト(* 右女性タイピストはジャワ運航へ転出)
 
尚、同事務所内同居の日の丸船運

           社長    塩原
 
マカッサル支店駐在常務 田中(日本郵船鰹o)小沢、米沢書記等数名、 支店長は塩原氏の娘婿。

d.海運共同事務所の新設

戦局の変化に対応し、軍、民需物資の円滑なる輸送を計るため、題記所を設け、両物資の輸送スペースの割り当てを統制した。  このため、南洋海運兜ス賀、日の丸航運鰹ャ沢の両名が担当した。現地人一名を雇い、船積み指図書の伝達に当たらせた。  然し、軍運輸部の要請(部長黒澤*、部員小島*弁淵両氏*)は強く、例えば、バリックパパンからの油類輸送は、民需よりも優先した。  亦、一般民需物資の輸送は、帆船(プラウ)が当たり、これ等は民船運航会(理事長新田目氏*、小田切ボネ所長)が担当した。
 * 注・以上四氏は南洋海運嘱託。

 

写真(4)
民政府のあった建物(1975年頃撮影)。

e.マカッサルの軍政機関及び商社等

 海軍は、当地に第二十三根拠地司令部を置き、その下部軍政機関として民政府、更にその下部機関として各地に民政部を設けた。  同府には逓信省から司政官二名が来任し、尚、マカッサル城跡にマカッサル研究所の医療機関と同病院と並立した。  亦、軍要請により、各部の専門商社がそれぞれに社員を派遣していた。  主要なるもの下記の通り。

海 運 関 係 南洋海運、日の丸航運、大和航運、日東汽船
 
 
銀 行 関 係 台湾銀行
 
開発拓殖関係 南洋興発、台湾拓殖、南洋拓殖、野村東印度殖産、 清水組、井関造船
 
貿 易 関 係 南太平洋貿易、三井物産、三菱商事
 
新聞・映画関係 プワルタセレベス(毎日新聞)
 
そ の 他 田中無線、きかく(料亭)なかゐ(居酒屋)、藤山一郎とその楽団、 森赫子、光子、清月堂

f.初出張パレパレへ

 軍貸与船「南進丸」が回航されてきた。然し、同船は、約一千トンD/W積みと称されたが、正確には不明のため、実際貨物で測定する必要があった。  その時、たまたま、マカッサル地区の米不足から、北方150キロメートルの米集散地パレパレから緊急輸送が要望された。  そこで、パレパレへ陸路出張が命ぜられ、破格にも小生が指名された。 本来なら営業古参者S氏が行くものと思われたが、N支店長は、敢えて小生を指名したので、S氏には悪いと考えたが、支店長に従った。支店長顔効きのS組から好意の車を特配戴き、マロスウエイから北上し、途中一服し、車輪に水を掛け、約三時間でパレパレの街に着き、パッサングラハン(簡易宿泊所)に泊まり、翌朝着の本船を待った。  同船着と共に目前の倉庫から、ティッカル袋入りの米がバンブータリー(竹棒タリー)の人海戦術の米積み開始。前後二甲板と岸壁に渡された板を渡り、一人一表(約50キログラム入り)の搬入が昼休み抜きで続けられ、夕刻漸く本船満載喫水線に達した。その時の出荷量を見ると 約800トン積みとなって、水、汕等のコンスタント 200トンから勘案すれば、本船の1千トン積み可能となった。  尚、出帆直前に余裕のある 甲板上に竹籠(ティッカル)入りの豚を100頭積んだ。これはマカッサルの中国人料理店向けである。DECKP(Deck Passenger)である。  処が、二、三頭の豚が籠を破って逃げ、海中に飛び込んだが、何故か沖へ向かって泳ぎ出したのは哀れであった。 当方は本船の出帆を見送り、亦、陸路マカッサルへの帰途についた。

g.大空襲の予告

 昭和18年の2,3,4月とマカッサルはいまだ雨季乍ら、雨は余り降らず、暑いと言っても海岸沿いの故、割合涼しく、戦時とは思えない程、平和そのもので、時折街中を数名の日本兵に引率され、裸の豪州兵の捕虜の、腰に下げたアルミの皿の音が響き、海岸通りの端の海岸喫茶店から沖の島を眺め、憩いの時を過ごした。

 処が同年四月中旬のある晴れた日の正午前、突如六回吹鳴の空襲警報のサイレンが鳴った。みな驚き、直ぐ避難だと会社裏口の自転車置場に出て、ふと上空を見た。  すると大爆音と共に垂直大型の鱶のひれの様な尾翼の四発の一機が、銀色の機体を光らせて、悠々旋回し、暫くして、飛び去った。  警報も解除され、その間我が方の反撃も無く、無事のように見えた。  後、これは敵の偵察であり、若し、爆撃されたら恐らく一巻の終わりであったろう。  事実、誰も爆撃の恐ろしさを未だ知らなかった。それ故、平気でB29の不気味な尾翼の鱶ひれを見ていた。
 それから約1週間程の午前中であった。亦、空襲警報がいきなり六回鳴り、敵機は上空に爆音を響かせていたが、前回同様かと思い誰も退避の為に、外に出なかった。爆撃音も聞こえず、只今回は我が方の高射砲の射撃音と同砲の破片かカラカラと落下の音が響いていた。と 間もなく玄関前の表通りから、ごろごろと荷車を引く音となにやら声高に叫ぶ数人の声が聞こえ、直ぐ道に出てみて驚いた。  多数の人たちが叫びながら荷車を引いている。その車の上には血塗れの人の体が横たわり後から後から車の列が続く。何が起こったか、当初は分からなかったが、時と共に米機が狙ったらしい軍需桟橋と倉庫及びその裏の石炭堆積場等には余り当たらず、不運にも軍需 民需両岸壁の中間のプラウ(帆船)の溜り場一帯に命中した。この一帯は帆船の乗組員、その家族と彼らと生活を共にする飲食店等が並び、特に午前中は人々が蝟集し、大混雑する街であった。  ここに数発の爆弾が落ち、無数の人たちが殺され、その死体は例の海岸通りの南端の海岸喫茶店前の駐車場広場に並べられた。それは到底正視出来ない光景で、その喫茶店は当然閉鎖されてしまった。 爆弾は、石炭、椰子殻の山に当たり、さらにその裏手の華僑連の住宅街を焼き払った。石炭と椰子殻の山からは、煙がいぶり出し、以後長い間、異臭が市内外に漂った。

h.続空襲

 この惨事に懲りて、諸所に防空壕が掘られ、司令部前には、T型鉄鋼を櫓型に数段重ねた、鉄壁の壕が作られたが、一般人は入れなかった。一般人用のは、公園、道路側の空き地等の各所に作られたが、これには竹の柱、階段等があるのみで、鉄材等は使われていなかった。こんなチャチな物では爆弾に耐えられないと思われたから、以後は空襲警報発令と同時に、会社裏手の自転車置場から全速で、司令部前を通りマロスウエイを北上疾走し、一時も早く市内中心よりの離脱を計り、市外の外人墓地のある丘の上に避難した。(支店長は車で避難した)
 当初は警報即敵機上空にありであったが、暫次見張りが早くなり、警戒と空襲の間が十分位空くようになった。ここから市街上空を見ると海上上空に横一列に並ぶ黒点が十個位、見る見る内に迫り、市上空辺りで爆弾を落とす。 忽ちパッパッと白煙が地上に舞い上がり、少し間を置いてドドーンと響く。日本側の高射砲の弾幕が白くポツンポツンと上がるが敵機群は動じない。逆に爆弾の破裂と同時に、その風波が水の波紋の如く始め小さく次第に大きくぐんぐん上空に舞い上がる様は凄い。同時に敵機群は、金属音を一段と高くし、左へ旋回し去って行く。日本機の姿なし、敵機群はB29とコンソリデーデットB24の編隊である。(因にB24は、昭和17年4月、東京等初空襲の際、神宮球場からの帰途遭遇したのと同機種)  敵の昼間空襲はこの反復で、不思議に旧オランダ人の住宅街は殆ど被害なし、わが軍の反攻はなく、僅かに陸攻一機のB29への体当たり(白川大尉の二階級特進)のみ。後、夜間、敵一機が火を吹いて海上に落ちた。この夜間のは、月夜に多い定期便で神経戦か探照灯の十字照射に会うと急上昇し逃げるが、その際、時限爆弾を残した。  妙なのは、民家、特に中国系人から、数ヶ所火箭が上がり、自警団で探索したが中国人老夫婦のベッドの下から箱入り陶器発見に終わった。唯、夜間戦闘機月光か零戦が1機上空におれば 敵来襲なしであったが、雨夜の闇中の来襲は、爆音が食用蛙の鳴き声に酷似していた。

i.防空壕の惨

 例の日中避難の帰途、使用人等は中々戻らず、会社へ向かい司令部前から、海岸喫茶店跡の広場の手前に来ると、左手公園の一劃に数人が集まり、その真ん前に道路中央に直径数メートルの穴が空いていた。  何事ならんと聞くと、そこは一般人用の防空壕のあった所で、小生も或る時は入ろうとしたものであった。二、三人の人がシャベルを持参し、壕の入口辺りを掘り始めた。土砂は軟らかく掘り進むと数段の竹製階段の下から、人体らしきものに触れた。更に少しづつ掘ると、それは土砂まみれの人形の如く、それも椅子に腰掛けた侭の、膝を曲げた姿であり、とても正視出来なかったが、一体づつ数体掘り出した。  死んでいるとは思えないその顔には、一瞬に圧死したのか、苦悶の表情はないように思えた。  その日の食事はまったく箸がつけられなかった。後、その防空壕の前の道の大穴の底には水がたまっていた。

j.続空襲、駆逐艦の惨劇

 会社前の民需桟橋に二、三隻の駆潜艇が着岸していた或る日、空襲警報が鳴った。同艇等は直ちに岸壁を離れ、沖へ向かった。すると、間もなく沖の方から、爆音と共にポンポンと癇高い独特の音が連続して響いた。それは敵の尾翼二枚のP38戦闘機の機関砲であった。 岸壁に停止するよりも、沖で動き自由の方が反撃上は有利であろう。そして小半時もしない内に、敵機は去ったのか、静かに何事もなかったかのように、駆潜艇群は戻ってきて着岸した。 所が次の瞬間、私は釘付けになった。数名の艦員が紐付の馬穴で海水を汲み、甲板に流し始めた。真赤な水が流れ落ちる、血だ!。と その時、二人に両肩を支えられ一人の水兵が甲板から岸壁に降りてきた。 見ると彼の片足は付け根からブラブラと揺れていた。すぐ手配の車で走り去った。 艇の外観は何処が損傷したか分からなかったが、人的損害は想像以上であったろう。

k.敵兵の処刑、戦犯絞首刑

 前記の如く、或る夜、来襲敵機の一機が、紅蓮の焔をふきながら、民家の屋根すれすれに飛び海中に落ちた。
数日後、海浜に種々の同機のものらしい物が漂着した。パラシュート、穴のあいた大型緑色シャツ、無数の計器類、何れもシカゴ製とあった。器用な人は代用ガラスを削り、時計にはめた。 この米機の数名の乗員は捕虜となったが、日本海軍は、彼等を処刑した為、戦後司令官等は絞首刑となる。戦時でもスパイ以外は、処刑してはならぬ事は、国際法上の常識である。

l.マカッサル沖敵機着水

 昭和20年の或る日の真昼間、米軍の水上機が一機マカッサル港の入り口にある小島の前に堂々着水し、その小島に兵数名が正に敵前上陸し、島民を尋問し、悠々と飛び去った。  日本の海軍根拠地の目の前の白昼の悪夢で全くなめられっぱなしのお手上げ事件で、日本の敗勢は確実になりつつあった。

m.巡洋艦足柄被爆の件

 第二十三海軍根拠地旗艦の一万d級巡洋艦足柄が入港し、軍需桟橋に着岸中空襲警報が鳴った。  日本の軍艦等が入港中は必ず空襲がある。軍の動きは常に探知されていると言われた。  この時も偶々司令部に出頭中の同艦機関長は緊急帰艦しつつあり、艦側に着いた時に、爆弾が倉庫と車の間に炸裂し、車ごと艦側に叩きつけられ戦死した。この時も日本の反撃は皆無に等しかった。

n.焼夷弾爆撃の奇

 丁度日中プリンセンランストラート(元オランダ人家屋)の社宅に居た時に、空襲警報が鳴り、表に出てみると、上空に敵機が一機旋回していた。この社宅辺りの道路には、当地特有の巨大な榕樹が並木に植えられてあり、これ幸いとこの樹の周囲約大人四人分位の太さを利して、敵機の反対側へと上空を見ながら避難していた。  と、何やら爆弾らしきものが落下し始めたが、幸いな事にもそれは焼夷弾の塊であった。これは空中の或る高さで分散し、約30センチの長さ、一片2センチの四角長方形の亜鉛の無数の棒が落下し始め、巨木の上の葉に当たりカサカサと鳴った。  我々はこのおとのせぬ方へ廻り込み逃げた。その内、道路に直接落ちたのは、アスファルト上に点々と縦に突き刺さり、小穴をあけその中でジュージュート音を立て、アスファルトを溶かしていた。  この焼夷弾が家には一発も当たらなかったのは、まったく幸運であった。家は勿論、人間もこれが命中すれば一巻の終わりである。  余談ながら、昭和20年7月7日夜、敗戦約1ヶ月前に、この焼夷弾が千葉市を焼き払い、当地のセレベス新聞にも小さい記事が載っていた。小生の家も焼失した。

o.戦時下娯楽の種々

 当初は戦時下一般民間人は、娯楽等云々する余裕等ないものと覚悟(支店長の訓辞もあり)していたが、軍は種々配慮し、唯一の日本人用の映画館で毎週末、日本映画を上映し、夕方から日本人女性タイピスト等も皆揃いのツーピースの白服で、中央広場前の映画館に集まった。  題目は、「無法松の一生」が好評を博した。 亦、森赫子、光子親子の演劇も評判で、我々と鎌倉丸で同行した「藤山一郎とその楽団」も、現地の音楽指導(軍属扱い)の合間に、インドネシアの歌曲の「ブンガワンソロ」等の演奏会を同館で時に開き、皆を慰問してくれた。  ブンガワンソロは、藤山一郎を始めとして、二、三の女性歌手が、歌っていた。
 映画館は、広場の丁度反対側にインドネシア人専用のがあり、映画や民謡等のインドネシア人女性による実演もあって、日本人も入場OKであった。ここで民謡の「トラン・ブーラン」、「ノナマニス」や「サプタンガン」(この曲はゲサン氏の作曲)等を聞いた。
 スポーツについては、意外にも内地から配送済の野球道具一式(軟式)に恵まれた。  且つ、N支店長が野球好きで、半ズボン、白の長靴下の出で立ちで、自ら投手を買って出た。我々が加わり、二組出来、紅白戦を行なった。球場はマルチャ広場で草が相当生い茂り、正に草野球場であったが、S氏がサードを守っていた時、素手で球の捕球を試み、指と指の間を裂く事故もあった。一方、他社間でも他流試合は盛んで、アマとしては相当高度の実力ある選手もいた。  テニスは硬球、コートはコンクリート造りで転ぶと負傷し易く、足のショックも大であった。水交社で一杯やるのが 唯一 最大の楽しみであった。 尚、小生テニスは軟式の経験しかなかったが、ボール拾いのボーイが二人ついてくれて楽であった。(彼等はチップ制)。夜はよく、運輸部公邸で小島、弁淵両氏(共に南洋海運株h遣)に台湾畜産鰍フ友人M氏を加え、トランプに興じた。麻雀は、中国人系の人達はやっていた筈だが、不思議に我々の中では流行しなかった。

p.バー、居酒屋

 プリンセンランストラートの西端の民政部の近くに、元オランダ人住宅を改修した、平屋敷棟の連絡道で繋いだ、バーがあり、バンド付でオランダ製のジンフィーズが人気があった。ウエイトレスは何分の一かのハーフカスで、少々黒いが美人が多かった。第一バーと第二バーと二軒、少し離れていたが、何故か第二バーの方が人気があった。  この他、「きかく」という料亭があったが、芸妓等は東京有楽町辺りの出で、司令部や民政府高官の専用であった。司政官でも末席の芸妓しか相手にして貰えず、支店長が或る時、半分冗談に若し望めば、末席の○奴なら、話をつけられると言ったが、断った。後に、我々一般人用に居酒屋風の飲屋「なかゐ」が映画館の近くの普通の家屋を改装し出来、若手連はよく利用した。(この店主は一応中井と言う女将で、戦後東京新橋駅前のビル地下に同名の店を開いていた。)
 亦、海岸沿いのマカッサル病院近くのビルの一室に、個人経営のバーがあり、ここの日本人そっくりのミナハサ美人が色白で、皆の注目を引いた。  この店によく来るI船長は曰く「息子の嫁に欲しい位だ」と。ここのカシューナッツは特別美味だった。日曜日には、皆で誘い合い、東方三〇キロメートル位のスンダミナハサと言う村落の、酋長のロングハウス見物に、自転車でハイクした。民政府のタイピスト連もこのハイクをした。

q.避暑地マリノ

 この村を更に先に進むと、坂道になり、車で約一時間登ると、約十軒位の別荘風の家が道の両側にある。その内の一軒に入ってみると、裏手にプールがあるが、手を入れると非常に冷たく、とても泳げない位であった。  オランダ人は毎週末、ここに来て、英気を養い、月曜日の朝仕事に戻ったらしい。  日本は今戦時故、仕方がないが、やはり長期腰を据えて仕事をするには、これ位の余裕が必要と痛感した。 尚、後にこのマリノからの帰路の、マカッサル方面を見下ろす風景は、ジャカルタ郊外のプンチャック峠から、同市方面を見る風景と余りにも良く似ているのに驚いた。

r.混血(ハーフカス)について

 日本では、余りお目にかからぬ混血は、男女共極めて多いのに少々驚いた。  ここの第一第二バーの従業員は、マネージャー格の男性を始め、男女共殆ど混血人で、しかも二分の一以上で女性は美人が男性は背の高いものが多い。然しジャワ地区の数には及ばない。  当時聞いた話では、この世で偉い順に言うと、一からオランダ人が神様の次、三が混血、日本人、インドネシア人、そして中国人の順であると。  然し、この混血人は、戦中戦後と迫害に耐え兼ねてか、次第に姿を消し、豪州、オランダと米国等へ移住した由。  唯、日本人とインドネシア人の混血は、「ジャピンド」と俗称されたが数はすくない。  序に、色の黒さで言うと、アンボン人の一部の色の黒さは他と違い、背の高さも差があり、ガルーダー航空のパイロット、乗務員(男性)等はスマトラ系か顔付きも異人種に見える。

掲載日:2004年7月19日
一部修正:2004年7月31日