一インドネシア人がまもる旧日本軍人慰霊碑

渡邉 奉勝

下端に新情報追加しました。 →(2013年11月1日追記) 


この地ぞ永久に出会いの場でこそあれ
干戈交うる場にてはあらず
平和と友好のいで会う場にてこそあれ
Kiranya tempat ini menjadi pertemuan abadi
bagi perdamaian dan saling pengertian.
tidak untuk senjata dan persenjataan

インドネシア友好友の会

会員一同
1987年10月建立  


 上記のプレート表示のある、高さ約1mの戦没者慰霊碑が、マカッサル市より車で東方約30分、陸軍第7司令部の裏あたりにあるのをご存知ですか。同碑は、あるインドネシア人の自宅前庭に建立されています。碑建立の当初、その土地を提供した当のインドネシア人は、日本と何のゆかりもなかったそうです。建立後今日までの16年間もの長い間、その家の未亡人が同碑を清掃・維持されています。

 この慰霊碑の話を知ったのは、昨年、在インドネシア飯村大使が、当地を公式訪問した際、同碑に墓参したのに続き、今年6月末に、本官が、当地の事情に詳しい当館佐久間職員とともに墓参した際に、その未亡人から話をうかがったことがきっかけとなりました。

 同碑のある場所は、先の大戦直後、連合軍によって34名の旧日本軍人が、1947年及び48年に戦犯として銃殺刑に処せられた地でありました。その刑場跡地は、現在、小学校になっており、周囲一帯は、警察官舎となっています。

 もう80歳を過ぎたとみられるそのマカハベ未亡人の話によれば、その慰霊碑建立されるまでは、遺族が毎年、刑場跡地で、慰霊祭を行っていた模様でありましたが、祭典中、学童が集まり、祭典の支障になっていたので、遺族よりマカハベ氏に同人の自宅前庭を慰霊祭のために使わせてほしいとの依頼があり、マカハベ氏がその依頼を快く右受け入れ、慰霊祭が行われました。そして、それが機縁となって87年10月に同氏の前庭にこの慰霊碑が建立されるようになったとのことです。

 未亡人の応接間には記名簿と写真アルバムがおかれており、線香・ろうそくまで用意してあり、誰がいつ行ってもお参りできるようにしてあります。

 先の大戦中、日本が当地に旧海軍関係者による民政部がおかれていたた話は聞いていましたが、34名ものB、C級戦犯が処刑された話は今回初めて知りました。 また、当地は、大戦中もオランダとの戦闘は比較的少なく、地元の人達との関係も他の地域に比べてみれば平穏な方であったと聞いていたので、34人もの多くの方が当地で処刑された事実は驚きでした。

 BC級戦犯についてよく調査された「北スラウェシ日本人会会報第5号:特集『太平洋戦争とBC級戦犯、1999年5月刊』によると、「BC級戦犯の中には、自ら名乗り出て死刑になった人がたくさんいた。自ら責任をとり罪を背負って死んでいった。」との記事が見られます。刑死者リストは後記のとおりですが、佐久間職員が探した資料での処刑罪状によると、俘虜虐待、現地民検挙不法取扱容疑が多いですが、中には、捕虜収容所での食料補給が不十分であったとか、衛生管理が悪かったとか言う容疑もあり、さらには、終戦後、インドネシア独立軍に加わりオランダ軍官舎爆破未遂事件に関与したとして処刑された方もおられました。

 一インドネシア人が、長年にわたって無償で自宅前庭の一隅を日本の将兵の霊を弔うために提供し、その慰霊碑の清掃・管理を行ってくれている好意には報いる必要があると思います。また、これまで毎年、墓参していた遺族も高齢になり、遺族による碑の維持管理が今後益々困難になっていくと見られますので、高齢の未亡人の生存中に、資金的手当ても含め碑の管理が永続するように手配しておく必要があるのではないかと思いました。
 もっとも、このような話は、慰霊碑を建立されたご遺族に無断で話を進めるわけにはいかないのは当然でありますので、現在、ご遺族、碑建立者のお考えを打診しているところです。

 先の戦争については、各自それぞれに考えと思いがあるとは思いますが、国のために働かれ、この地で心ならずも命を絶たれた方々の慰霊するという意味でも、また、日インドネシア友好促進という意味でも、現地日本人社会が何らかの形で関与してゆくことは他の地域の日本人会活動の例を見ても意義あることと思われますので、この慰霊碑維持・管理問題が、遺族、碑建立者、日本人会、総領事館等関係者すべてにとって望ましい形で解決されることを願っています。

  

終戦後の連合軍マカッサル法廷における刑死者リスト

1.修多羅 浩   海軍警部 求刑死刑 1946年11月自決
2.安島 末蔵   海軍憲軍曹      1947年4月3日刑死
3.山中 朝夫   海軍中尉        1947年5月18日刑死
4.納富 季雄   海軍兵曹長      同上
5.吉田 朝直   海軍兵曹長      同上
6.園 正善     海軍上曹        同上
7.櫻井 好文   海軍医大佐      1947年6月19日刑死
8.畑田 実     海軍嘱託       1947年7月19日刑死
9.金井 清     海軍嘱託       同上
10.池田 末吉   海軍嘱託       同上
11.名香山 興純 海軍警部       1947年8月16日刑死
12.井野 勝太郎 海軍警部       同上
13.田中 藤重   海軍警部       同上
14.本村 茂樹   海軍少尉       1947年10月30日刑死
15.坂井 長兵衛 海軍兵曹長      同上
16.南 亨      同上          同上
17.真鍋 茂雄   同上          同上
18.中島 進    同上          同上
19.芝 喜寛    同上          同上
20.清水 勇    海軍上曹       同上
21.奥 正成    同上          同上
22.土井 昇    通訳          同上
23 沢田 栄人   海軍少佐       1948年2月4日刑死
24.大杉 守一   海軍中将       1948年8月刑死
25.小玉 寿吉   海軍中尉       1948年9月5日刑死
26.大柴 林    海軍憲兵大尉    1948年10月4日刑死
27.古瀬 虎獅狼 海軍憲兵准尉    同上
28.伊藤 義光   海軍曹長       同上
29.中村 益視   海軍軍曹       同上
30.鈴木 庄八   海軍准尉       同上
31.井平尾 薫   海軍軍曹       1948年10月4日刑死
32.小川 昭三   海軍主計少佐    1948年11月4日刑死
33.森 国造    海軍中将       1949年4月22日刑死
34.横山 茂次郎 海軍少佐       1949年7月刑死
                           (掲載日:2003年10月29日)

追記(2004年3月20日)

  2004年3月11日、マカッサルのテロー村にある戦争犠牲者慰霊、平和祈念碑に遺族、戦友 13名が参拝されました。皆様方の御蔭で日本政府として永続的な形で、日本人会を通じ、同碑の維持管理ができるようになりました。碑建立者(遺族)や戦友(花機関)の方々が一同に会 し、総領事館、日本人会、マハカベ家ともども満足のゆく形で和やかな雰囲気で話が まとまりまりました。あの戦争の縁によって当地で非業の最期となられた方々にとっても、このように生きている我々の「人の和」が出来たことををなによりも喜んでおられるのではないかと思います。本当によかったです。(渡邉 奉勝)

追記(2006年1月22日)
 慰霊碑のあるマカハベ家の所在地
Ibu. M.R. Makahawbe
Jl. Urip Sumoharjo RW1, RT, I, NO.6
Asrama Polisi Tello Baru
Panaikang Panakukkang, Makassar

追記(2006年2月20日)
 昭和39年12月28日(月曜日)の朝日新聞9版に「インドネシアの遺骨収集始る」の記事(写真入)があった。
  ”戦犯”処刑者の墓地ーそれは雑草とバナナとタピオカの畑の下に埋もれていた。マカッサル市郊外、テロ第1、第2墓地は現地人の記憶からも遠くなりつつあるようだ。遺骨収集団は、この両墓地とマンダイ墓地の36人の遺体を故国に引取るため、やっとマカッサルにやってきた。処刑後十余年間、だれにも見守られず、ただ、暑熱の土の下で眠り続けてきたのだ。(序文より)
 第1墓地は約千平方メートル、第2墓地は大体五百平方メートルの広さであったと記載されている。

追記(2012年1月10日)

 これまで、雨季になると、水浸しになっていた慰霊碑の地盤嵩上げ工事が完成したと、セレベス会の粟竹様より右の写真を頂きました。

補足
 この慰霊碑は、1947年10月30日に刑死された、海軍少尉本村茂樹さんの長女、長崎在住の山下(旧姓本村)裕子さんが代表を務める遺族会が、資金を集めて1987年10月に建立されました。建立から25年を経過した、今回、2012年1月の慰霊碑嵩上げは、遺児会有志の寄金によって実施されたものです。

 表題は「旧日本軍人慰霊碑」となっていますが、刑死者のなかには、戦前、現地で活躍された商社マンや、興亜専門学校(現亜細亜大学)でインドネシア語を専攻した卒業生が、語学力を買われて、軍の通訳として関わったり、民政部に属し、警察業務に関わった方々などが多数含まれます。「マカッサル裁判」は、戦勝国オランダが、敗戦国日本を一方的に裁く、まったく不条理なものであった事も、各種史料から明らかになっています。戦後66年を経過し、インドネシア各地の慰霊碑が、取り壊されたり、行方不明になるなか、マカッサルの慰霊碑が、立派に維持管理されていること、遺族会、日本人会その他関係者の皆様方のご尽力に頭が下がります。(文責:脇田)

追記(2012年6月3日)

 マカッサル法廷で弁護活動を行った経験を持つ、元統合幕僚会議議長の栗栖弘臣氏が、別冊「歴史読本」特別増刊号(平成5年8月)「マカッサル法廷 「戦犯裁判」との戦い 「員数揃え」死刑判決の疑念 「日本の名誉を守り従容と逝った義士を想う」の中で、下記のように記している。

 「裁判は、開始二〜三日前に、簡単な起訴状と取り調べ調書のコピーが送られて来る。取り調べと言っても、中には一度殴られたと証言した書類以外に、殴ったのを見たとの書類が二〜三枚あるだけで死刑にされた憲兵もいる。戦犯裁判は、勝者の報復以外の何物でもないと、かかる「裁判」の実情から私は確信するが、そのほか次のような事実もあった。  

 バリクパパンに居た時、警戒兵から次の者は翌朝何時に衛兵所前に集合と言い渡され、指定の時間前に全員約七十名が集まった。ところが点呼も取らず、先頭から四十名だったかの所で切ってトラックに載せ、やがて船でバンジェルに送られたが、残りの者は解散させられて間もなく帰還船で帰国した。  将校は別扱いだが、誰をというのでなく員数だったこと、昭和二十三年頃までは順序不同で裁判にかけられた者は、まず全員に近い者が死刑、その後は軽くなったが、憲兵、海軍特刑警察隊員は、それだけで睨まれて死刑か重刑、また地域の最高指揮官は間違いなく極刑になった。

  この地域では何人くらい死刑を出せ、といった一種の基準があったのではないかと邪推されるほどである。極論すれば、報復したい重要職責の者以外は、生贄は誰でもよかったのではないかと思う。」(文責:脇田)

追記(2013年11月1日)

  先日(10月30日)は、昭和22(1947)年10月30日にマカッサルテロー村で法務死し たマカッサル特警隊9名(本文刑死者リストの 14-22 )の66回目の命日でしたの で、高野山に建立されている「昭和殉難者法務死慰霊碑」にお参りに行ってきまし た。

 慰霊碑は、すべての方の名前が出身都道府県別に刻まれています。今年は矢野弘明 氏(故人)から受領した資料をもとに、9名の方々の名前を確認して合掌しましたが、以下の点に相違点が見られました。

    1.本村茂樹さんは、階級が資料及び慰霊碑とも「海軍中尉」になっているが、「スラウェシ島情報マガジン」(本稿)では、「海軍少尉」になっている。 これについては、「じゃかるた新聞」の記事 http://www.jakartashimbun.com/free/detail/12759.html にも「海軍中尉」と出ているので、本稿の誤記かと思われる。

    2.他に3名の方が、資料に記された出身県と慰霊碑に刻まれた出身県が異なってい た。

 慰霊碑は高野山、中の橋駐車場から徒歩5分位で、坂もなく、比較的楽に行け、右隣には「前橋陸軍予備士官学校慰霊碑」が建立されています。  (文責 土井)