17世紀セレベス島における日本人

岩生成一著「続 南洋日本町の研究」を読む
脇田 清之

 1637年頃、 マカッサルには5名の日本人がいた。日本史学者で、昭和初期から 約60年間にわたって日本人の東南アジア各地における活動を研究された岩生成一先生 (1900.6.2 - 1988.3.21) が、ジャカルタ文書館の膨大なオランダ資料等を精査して纏めた大著「続 南洋日本町の研究」(岩波書店 1987年11月18日発行)には、南洋島嶼地域の日本人移民の生活と活動が、膨大な出典資料とともに詳述されている。同じ書名で1940年版(南亜文化研究所)、1966年版(岩波書店)があり、3冊、60年に及ぶ研究の成果には、ずしりとした重みが感じられます。この大著からから、当時のセレベスにおける日本人について探ってみたいと思います。

1)南洋日本人移住地考定図

「続 南洋日本町の研究」に掲載されている「南洋日本人移住地考定図」(左図)によると、17世紀の時代、マカッサルは「日本船非直通航路上」にある「日本船貿易港」で、かつ「日本人所在地」であった。  我が国では徳川政権の時代、1604年から1635年までの32年朱印船制度があったが、長崎を出港する朱印船はマカッサルまでは行っていない。しかし1635年の朱印船制度の廃止、日本人の海外渡航・帰国禁止令のあとも、東南アジア大陸、ジャワ島各地、マカッサル、マルク諸島の間で貿易に従事する日本船があった。(図面では破線で示されている) 1637年6月には日本人フワンがマカッサルからバタビア(ジャカルタ)、シャム(タイ)、コーチ(ベトナム)へ航海している。また1643年に東京在住の日本人の有力者で、広く南洋各地に持船を派遣して貿易を営んでいた和田理左衛門の商戦がマカッサルに渡航して、貿易を遂げて帰港している。(年次別東インド諸島各地日本人商船渡航表 101頁)

2)日本人船長宗右衛門の航海

 1634年7月にカンボジャ在住日本人の有力者宗右衛門の商船がマカッサルからオランダ艦隊に拉致されてバタビアに着いたことが記録に残されている。(99頁) また1638年東インド提督アントニオ・ファン・ディーメンが、第2回モルッカ諸島巡視の途中、4月24日にアンボイナ島ヒツーの停泊地からセレベス島のマカッサル駐在上席商務員ヘンドリック・ケルクリング Hendrick Kerkeringh に送った書信の中に、宗右衛門の日本ジャンク船もまたアンボイナに来着したが、8日後には再びマカッサルに向かって出港するであろう。その願出によって、同船には必要な諸雑貨を提供した、と書かれている。(262頁) 宗右衛門はマカッサルには1634年以来、1636年、1637年、1638年の都合4回にわたって殆ど連年渡航している。マカッサルにはアルフォンゾ・カルベリョ、フワンのほか若干の日本人が在住していて、主として通商貿易に従事していた。(272頁) 二人のカタカナの名前からみて追放切支丹として渡航した人達であったのかも知れない。

3)マカッサルの日本人

1637年6月の時点でマカッサルの日本人は5名で、同時期にバタビア284名、アンボイナ63名、テルナテの20-40名などと較べると少ない。(306頁) オランダ人の南洋経略の初頭に当たって、日本人はオランダ東インド会社(VOC)の招請に応じてテルナテ、ディドレ、マキヤン、アンボイナ、バンダ等のマルク諸島各地において、あるいは東インド会社の使用人として、あるいは兵卒として、はたまた労働者として、商事、軍務、雑役など諸般の任務に服して活動し、他に自由市民として残留して商業方面に活動する者もあったが、なおその近隣セレベスやボルネオの諸島、あるいは東南のソロール島や西方のスマトラ島などオランダ人の開拓各地に進出する者もあった。(270頁) VOCによるリクルートとは別に、朱印船による交通貿易の時代、朱印船に便乗して南洋各地へ渡った日本人は数万人に達したと推定されている。(資料2 14頁)しかし鎖国政策が断行されると、次第に凋落の方向をたどっていく。

1653年11月26日付の証書でマカッサル在住の日本人次良兵衛のシナ人チョン・チョンコに対する女奴隷受渡の記録も残されている。(448頁)当時マカッサルの主要貿易品目の一つが奴隷であったことを示す例として興味深い。  

その後のマカッサルの日本人についての手掛かりは見あたらない。しかし当時の南洋各地の日本町は元和・寛永期を頂点にして、その後僅々5,60年にして全く衰退していく。原因として岩生氏は鎖国後における人員物資の補充途絶、婦人移民数の僅少、移民の永住的傾向僅少、政府の奨励後援の欠如などを指摘している。(資料2 336頁) 貿易に関係した単身赴任の駐在員ばかりだったのでしょうか。

4)17世紀の南セレベス

 左の地図は1610年ベルチウス作のアジア地図の一部で、中央の逆三角形の島がセレベス島である。島の西岸には地名がぎっしりと書き込まれていが、東岸は空白である。当時、東海岸は全く未知の地域であったことを物語っている。この地図を見ていると、西からマルク諸島を目指す航海者にとって、南北2000キロに及ぶセレベス島は、立ちはだかる巨大な城壁のように思えたのではないか。この”城壁”の南端がマカッサルである。帆船時代の航海者たちは、ジェネベラン河の河口港で、交易や、水や食料の補給、また必要に応じて、風待ちをしていたと思われる。  

マカッサルは16世紀を通して香辛料貿易の中継地点として発展を続けてきた。1600年から1630年の頃、マカッサルは東南アジア有数の貿易港となっている。1641年にポルトガル領マラッカがオランダにより占領されると、マカッサルの役割は一層高まっていく。ジェネベラン河口のソンバ・オプ要塞を中心に多数の城を築き、ソンバ・オプ要塞の北側にはポルトガル人とグジャラート(インド西部)人の区画、また南側には市場、港湾区域、マカッサル人、テルナテ人の居住区域があった。英国、ポルトガル、デンマーク、グジャラート の公館も設置されていた。香辛料貿易の独占を狙うVOCはこれを看過出来ず、マカッサルに攻撃を仕掛けるが成功しなかった。1666年VOCはマカッサル王国の宿敵ボネ王国の援護を受け攻勢を強める。1667年11月、ブンガヤ条約によってVOCはマカッサルにおける香辛料貿易の独占権を得る、またウジュンパンダンの城(現在のFort Rotterdam) を手に入れる。しかし1669年、VOCとマカッサル王国との戦争は再び勃発し、旧都マカッサルは灰燼に帰す。これでVOCがマカッサル王国を征服したかにも見えるが、誇り高きマカッサルの貴族達は屈服してはいなかった。また一方、VOCも商業貿易にのみ熱中し、支配のための領土獲得を望んで居なかったという。この会社の特許状には条約締結、要塞構築や戦争についての規定はあるが、会社の領土についての規定は無かったという。(永積昭著 オランダ東インド会社 近藤出版社発行) やはり株式会社による植民地経営の限界だったのでしょうか。17世紀の時代、オランダが支配出来たのは、マカッサル周辺部、ゴロンタロー、マナドの3カ所だけだった。大部分の地域は諸王国が支配していた。オランダが島のほぼ全域を支配するのは240年後の1906年である。

(参考) オランダ東インド会社

 オランダ東インド会社(Vereenighde Oost Indische Compagnie、略称VOC)は、特許を受けた植民地経営のための会社として1602年に設立された。世界最初の株式会社であると言われている。同社は1799年12月31日に解散し、会社の債権と債務は国家が引き継いだ。1619年にはアジアの海の拠点としてバタヴィアを建設している。バタヴィアの名前はオランダ本国ライン河口の大デルタ地帯の種族の名前バタヴィーに由来するという。

参考資料