スラウェシの海底から(2)

 目次

  1. 第11号掃海艇遺骨収集の経緯とその後
  2. 笠原美代さんの64年間の戦い
  3. 厚労省遺骨収集団に参加して
  4. マカッサル湾に沈む一等駆逐艦「夏潮」の怪談話

1.第11号掃海艇遺骨収集の経緯とその後

 大牟田在住の笠原美代さんが戦死した兄、池田二郎さんの日記をもとに「セレベスの海底から - 池田二郎の青春をたどる」を自費出版したのは2004年の10月であった。その約1年後の2005年暮れに、マカッサル湾の海底から第11号掃海艇の残骸と遺骨が発見された。遺骨が大量に発見された際の顛末についてはすでに「スラウェシの海底から(1)」に述べた。それから3年半後の2009年6月に厚生労働省は遺骨収集団を派遣し収集が行われた。これについては、“3)厚労省遺骨収集団に参加して”のところで若干詳しく報告したい。

 発見から遺骨収集の実施にこぎ着けるまで3年半のあいだ、マカッサル戦友会、日本バリ会、日本インドネシア協会、厚生労働省、外務省、ジャカルタの日本大使館、マカッサルの駐在官事務所、インドネシア海軍、海洋省、教育文化省など政府各機関、マスコミ各社など、ほんとうに多くの方々のご尽力を頂いた。その中で、現地マカッサルに定住し、現地の漁民から直接情報を得て、マカッサル総領事館(当時)との折衝、沈んでいる艦の正確な位置の測定、海底の写真撮影、日本の艦艇であることの証拠となる事柄などきめ細かい厚生労働省への報告、厚生労働省へ直接出掛けて遺族の陳情に協力するなど、現地在住の日本人として献身的な活動を行い、その後マカッサルにて急逝(2007年7月27日永眠)された、元南スラウェシ日本人会理事の小島和晴氏の功績を忘れることは出来ない。かつて漁船乗組み員として活躍し、海事知識経験も今回のケースでは大きな助けになった。遺骨収集が終わった2009年7月下旬、南スラウェシ州ボネ県にある小島氏の墓を訪れ遺骨収集の報告を行った。

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 遺骨の大量発見から収集団派遣までの3年半は長かったのか短かったのか。発見されたとき直ちに遺骨保全の手を打っていればもっと大量の遺骨収集が出来た筈である。しかし、遺骨はすでにインドネシアの水中文化財・遺跡として扱われていて、日本人が自由に遺骨を持ち帰ることが出来るような簡単な話ではなかった。一時、遺骨収集はもう絶望的とも思われた時期もあったが、多くの日本とインドネシア政府機関、マスコミなどほんとうに多くの方々のご尽力が無ければ遺骨収集は実現しなかったことを思えば3年半は必要な時間であったのかもしれない。そしてこれら多くの関係機関を動かしたのは戦死した兄を思う笠原美代さんの戦後64年間の執念であったのではないかと思う。

 奉還した遺灰は2010年の5月には千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納められることになっている。2009年10月10日には二郎さんの故郷松山市で親族による追善供養が行われた。また厚生労働省による遺骨収集実施のことが新聞に報道されると、笠原さんの所には各地から電話や手紙による問い合わせがあった。そのなかで、当時第11号掃海艇の最後を目撃した福岡市在住の男性(90才)とも連絡が取れた。その方は同じ第11号掃海艇に乗船していたが、出港直前に任務の都合で後続の第34号掃海艇に変更になった。第11号掃海艇が二つに折れ、船首を立てて海中に沈む様子を約100メートルの距離で目撃した。乗組員たちは「お母さん」や、家族の名前などを叫んでいたという。

参考資料:
「遺骨10柱収集帰国」(朝日新聞 2009年7月16日)
「64年兄の供養やっと」(朝日新聞 2009年10月17日)

2.笠原美代さんの64年間の戦い

 笠原美代さんの戦後64年間の取り組みについて彼女の「セレベスの海底から 池田二郎の青春をたどる」を読み、彼女の努力を振り返ってみたい。戦後64年を経過し、今なお父、祖父など親族の戦地での足跡を知りたいと願って活動されている方々にとって多少なりとも参考になればと思う。「   」で括ったところは本書からの引用である。

 「池田二郎さんは昭和十七年七月、宮崎県の新田原航空隊へ入隊した。その後昭南島(現シンガポール)、フィリピンのマニラ、インドネシアのスマトラ、ボルネオ、ニューギニア島と次つぎと移動していることが留守家族あてに送られ、いまも大切に保管されている軍事郵便が証明している。そして昭和二十年八月十五日。戦死の公報が故里の姉の所へ届く。」

 「戦後二十数年経って、池田二郎さんの墓碑をつくるとき、出生地の愛媛県庁や厚生省に問い合せて、ようやく二郎さんの戦死確認書を受け取り、二郎さんの戦死した状況が次第にわかってきた。」

 「池田二郎さんは昭和二十年三月二十八日。陸軍中尉河村義政 指揮の下、第十一号掃海艇に乗船、ジャワ島マランに 転進するため、十八時四十分セレベス島・マカッサル港を出港した。出航後約二十分、マカッサル港西方近海上を航行中、米軍機B24の攻撃を受け、船体が中央より折れ、猛烈な浸水によって船首及び船尾を上にして船は沈没した。出港後、わずか五十分である。」

 「所属部隊は船尾船倉の位置にあり、出入口が極めて狭小で、しかも乗船直後であったため、兵隊は装具類を身につけたままで、行動の自由を欠き、また爆弾破裂時のガスが濃厚なため、窒息状態となり、船倉から脱出できず、船と運命を共にせしものと認む。と「戦死確認書」に書いてある。」

 笠原美代さんは海軍マカッサル関係者の戦友会に出掛け、この戦死確認書のコピーを配り、消息を訪ね歩いた。後日これが縁で遺族の一人である笠原美代さんとマカッサル戦友会、マカッサルで海底から大量の遺骨を発見・連絡者との繋がりが出来ていく。

 1997年、「二郎兄さんが戦死したセレベスの海を一度でいいから見届けて死にたい」との思いから笠原美代さんはマカッサル沖にあるカヤンガン島を兄の慰霊のため訪問している。そして2004年10月1日、「セレベスの海底から 池田二郎の青春をたどる」の自主出版へと続く。

 この自主出版が契機となって、まったく偶然の巡り合わせとしか思えない幸運にも恵まれて、美代さんの熱意は厚生労働省をも動かし、2009年6月のマカッサル沖に沈む第11号掃海艇の遺骨収集へと繫がっていった。どのようにして笠原美代さんは兄の遺骨収集にこぎ着くことが出来たのか、繰り返しになるが、これは彼女の執念、それと偶然の巡り合わせとしか言いようがない。

 この美代さんの著書「セレベスの海底から」はマカッサルの総領事館にも届けられ、これを読んだ当時のW総領事が、約1年後に海底から遺骨が発見された際、マカッサル関係者と遺族との橋渡し役となった。すでにインターネットを使った「スラウェシ島情報マガジン」を経由しての遺骨発見者、旧海軍関係者、造船関係者、大戦中マカッサル在勤者(戦友会)とのネットワークがあったため、海底の船は第11号掃海艇であることを証明することに時間は掛からなかった。

 大東亜戦争における日本人兵士犠牲者は約230万人、民間人80万人。厚生労働省や遺族らがシベリアや東南アジアなどで集めた遺骨はこれまで約124万人分であると言う。また現時点で海外で収集可能な場所に残存する遺骨はまだ59万柱残っているという。また沈没艦船等の海没遺骨はそこが墓場であり、基本的には遺骨の収集は実施しないことになっているという。米国でも真珠湾攻撃で沈んだ艦船や遺骨は今もそのままになっている。宗教によって解釈も異なり難しい問題である。

3.厚労省遺骨収集団に参加して

 2009年6月25日から29日にかけて南スラウェシ州マカッサルの沖合にて第11号掃海艇の遺骨調査・収集が行われた。遺骨収集団は厚生労働省社会・援護局援護企画課外事室長の梅原一豊氏を団長とし、第11号掃海艇で戦死した池田二郎さんの妹の笠原美代さん、通訳を含めて総員6名であった。外事室は現在でも毎月2、3チームが海外の遺骨収集に出動するとのこと。

 現地作業に先立ちジャカルタへ入り、今回の遺骨収集の実施部署となる文化・観光省を訪問した。インドネシア政府としては、(インドネシア国内法により非常に難しい案件であったが)今回人道的な判断によって日本政府の要求を受け入れたとの説明があった。会議の席上、今年82歳の笠原美代さんが、掃海艇が撃沈されてから64年経過した今の遺族としての心情を述べる機会が与えられた。戦没者を敬う気持ちは日本人もインドネシア人も同じようだ。美代さんのスピーチはインドネシア政府関係者の心を動かした。インドネシア海軍の役目は、当初は掃海艇が艦船であり爆発物を搭載しているので、安全確認のための海軍特殊部隊の出動であったが、遺骨捜索にも全面的に協力が得られることになった。インドネシア側の主担当部署は文化・観光省の水中文化財保護チームであり、これに海軍特殊部隊、日本側が手配した民間ダイバーが加わり、総勢24名のダイバーの作業統制、日程などについて打ち合わせが行われた。文化・観光省としてはこの第11号掃海艇の収集作業をインドネシアの周辺に沈没している多数の旧日本海軍の艦艇の調査の第一歩としたい意向のようだ。

 23日早朝の便でマカッサル入りした。マカッサルの空港は昨年オープンした、ぴかぴかの新空港である。午後2時マカッサルの駐在官事務所にて竹森領事と打ち合わせを行う、インドネシア海軍のマカッサル入りも遅れている模様。
 翌日24日は掃海艇沈没のポイントにおいてモーターボート内で日本政府主催の慰霊祭。同時にこれからの潜水作業の安全を祈る。
 25日、朝GPSでダイビングのポイントを確認、しばらくして海軍の特殊部隊と文化・観光省の水中文化財保護の潜水チームが民間の木造フェリーをチャーターしてポイントに到着、ダイビング作業は海軍、文化・観光省、日本側手配のダイバー間の連携が肝心、インドネシア外務省の担当官も立ち会い、通訳を交え緊密な連絡調整が行われた。水深は約30メートル、ダイバーの潜水は医師の管理のもとに1日2回、1回約1時間と決められた。

 2007年にも調査を行ったダイバーによると、その後も艦の解体が進み、殆ど側壁が無く船底部分だけになっている。3年前に確認された大量の遺骨は、堆積物の中に埋没、または流失により海底に露出している遺骨は僅かと言う。潜水第2日目にはダイバーが準備した熊手型の道具を持ち込んで懸命の捜索を行ったが、掘削すると水が濁り作業が出来なくなるという。潜水作業は4日間にわたって行われ、収集された遺骨はインドネシア大学の専門家により日本人の遺骨10柱であると鑑定された。
 29日午前、南国の強い日射しの下、マカッサルの観光名所ロッテルダム城内にある水中文化財保護センターの裏庭で日本政府関係者、インドネシア政府関係者、その他今回の捜索に加わった民間の関係者など多数参列のもと、焼骨式が行われた。ご遺灰は30日、ジャカルタの大使館で封印されたあと、国旗に包まれ大使館内にて追悼式が行われた。翌日7月1日朝、無事成田へ到着、64年ぶりの無言の帰国となった。

4.マカッサル湾に沈む一等駆逐艦「夏潮」の怪談話

 マカッサル湾には第11号掃海艇の近くにもう一隻旧日本海軍の艦が沈んでいる。マカッサル侵攻作戦の際に沈んだ一等駆逐艦「夏潮」である。すでに「スラウェシの海底から(1)」で報告のとおり、ここにも大量の遺骨があり、艦橋には椅子に座ったままの姿の遺骨があると言う。おそらく最後まで脱出せず運命を艦とともにした艦長の遺骨ではないかと思われる。その原稿を書いた2006年6月の時点でも夏潮沈没のスポットで現地の潜水業者が死亡すると言う話しは聞いていたが、不確かな情報であったので書かなかった。今回第11号掃海艇遺骨収集の際、2006年の時点からこのプロジェクトに関わってきたマカッサルの海洋調査会社社長のルドルフさんと直接話しをすることが出来た。彼はマカッサルの国立ハサヌディン大学出身のエンジニアで専門は海洋調査で海の専門家である。私は夏潮の沈没地点が水深40mと、第11号掃海艇の沈没地点より若干深いので死亡事故は潜水病が原因ではないかと意見を述べた。しかし、彼はそれを否定する。もっと深いところで作業をやっていて事故を起こしていない。しかし「夏潮」では、何人ものダイバーが作業中、突然金縛りになって絶命するという。彼は潜水病ではなく海没した兵士の呪いであると確信している。

 2009年8月8日から年末までの約4ヶ月間、東京新宿のインドネシア文化宮で『ニューギニア未帰還兵展』が開催され、多くの方々が会場に駆けつけた。文化宮のブログ(2009年9月13日)にこのような記載があった。

― パプア人記者が尋ねます。『日本では、国家が発動した戦争に駆り出された青年たちが死んだ場合、遺骸はその地にそのまま放置することが普通なのでしょうか?』

『あちらこちの村々で、弔われない日本兵の霊が彷徨っている、と噂が絶えません。彼らが天国に行ったと、地元民は誰も思っていません。豊かな日本が遺骨さえ集めに来ない理由は何ですか?』  ―

 第11号掃海艇の遺骨収集の場合も、先に「これは彼女(笠原美代さん)の執念、それと偶然の巡り合わせとしか言いようがない。」と書いたが、ほんとうは第11号掃海艇の英霊のお導きであったのかも知れない。

掲載日:2010-1-3