Haji Umar Feisal 小林哲夫のこと
Tentang Haji Umar Feisal Kobayashi

Nur Kasim、Wakita K.

Haji Umar Feisal sangat dikenal oleh tokoh2 Islam di Makassar atau di Sulawesi Selatan, terutama dari pengurus Organisasi Islam Muhammadiyah, organisasi terbesar kedua di Indonesia sesudah Nahdlatul Ulama (NU). Beliau bekerja-sama dengan ulama-ulama menyebarkan agama Islam termasuk di Tanah Toraja, Sulawesi Selatan dan Ambon, Maluku, yang pada umumnya penduduknya memeluk agama Kristen. Karena itu banyak pendeta yang mengenalnya. (Nur Kasim)

Haji Umar Feisal, nama Jepang adalah Mr.Kobayashi Tetsuo (1911-43), lulusan Al-Azhar University di Mesir. Dia bekerja sebagai koordinator antara masyarakat Indonesia dan Minseifu (pemerintah sipil di Makassar). Dia bekerja sama dengan warga Makassar, tetapi sayangnya, dia meninggal dunia pada Juni 21,1943 oleh suatu kecelakaan pesawat. Dia menulis sebuah buku "Agama Islam di Indonesia" dalam bahasa Jepang pada tahun 1941. Kemungkinan besar, ini adalah buku pertama untuk memahami Islum Indonesia yang diterbitkan di Jepang. Dia katanya mempengaruhi besar terhadap masyarakat Islam di Sulawesi Selatan baik positif maupun negatif pada masa pendudukan Jepang. (Wakita)

 太平洋戦争の初期、南スラウェシで活躍した一人の日本人がいた。Haji Umar Feisal 小林哲夫である。彼の死後70年以上を経過したが、Haji Umar Feisal Kobayashi の名は、いまも南スラウェシの人達の心に刻まれている。ところが、このことは日本ではほとんど知られていない。インドネシア人が知っていて日本人が知らない日本人、小林哲夫について、インドネシア側パートナーの協力を得て、取りまとめた。

 小林哲夫(兵庫県飾磨郡夢前町出身 1911-43 )はエジプトのアズハル大学(世界最古の学園)宗教学部を卒業し、メッカ、メジナ、ケルベライを巡礼し、ハジ(Haji) の 称号を得ている。太平洋戦争勃発後、小林は海軍南方方面艦隊、当時マカッサルにあった海軍民政府に所属し、軍政と海軍占領地の回教徒の間に立って相互理解に尽力した。インドネシア回教徒より尊敬され親しまれ、海軍軍政下の占領地行政に大いなる影響貢献があったという。 昭和18年(1943年)8月21日、アンボンよりの帰途、米空軍機B29 (?) に遭遇、ポマラ南方の海中に撃墜され、戦死した。33歳であった。小林の墓地は、かつて Gowa の森の中にあった。その後、1963年に日本の援助で製紙工場を建設するため、マカッサル市内 Panaikang にあるイスラムの霊園に移されている(nomor pusara: 209 H)。 因みにこの製紙工場の跡地は、地元Hasanuddin 大學のキャンパスに生まれ変わるとのこと。

H.Umar Faisal dimakamkan di Romang Lompoa, Bontomarannu, Gowa (tempat ini dulunya hanyalah sebuah hutan, yang dihuni beberapa keluarga). Berhubung tempat ini akan dibangun Pabrik Kertas Gowa pada tahun 1963 kerjasama Pemerintah Daerah Sulawesi Selatan dan Tenggara, Gubernur A.A. Rivai (1960-1966) dengan Pemerintah Jepang, maka makam Haji S.F. Umar Faisal Tetsuo Kobayashi dipindahkan ke Pekuburan Islam Panaikang, Gowa (sekarang wilayah Kota Makassar). Tahun 1996, lokasi Pabrik Kertas Gowa tersebut dibangun Kampus Universitas Hasanuddin (Unhas).

Foto: Nur Kasim

 小林は日本大学経済学部に在学中、1936年(昭和11年)2月26日の二・二六事件に関連して投獄されるところを、学生であるからというので、当時陸軍少将だった山下奉文(やました ともゆき、1885年11月8日 - 1946年2月23日)に助けられ、「カイロに行ってイスラム教の勉強をして来い」と命ぜられ、二・二六事件直後の昭和11年3月、日本を出国している。山下奉文はなぜ小林哲夫にイスラム教を学ばせたのか?おそらく山下は、いずれ日本は開戦する。開戦となればインドネシア大衆が信奉する宗教を通じて、インドネシア人を日本に引き付ける政策が必要になる。その要員を作って置こうという考え方だったようだ。山下に命を救われた小林は、この人のために命を投げ出そうと決心したのだろうと、当時マカッサルで従軍記者を務めた戸川幸夫氏の「戦場への紙碑」に書かれている。戸川氏にとって、小林哲夫は後世にその名を残しておきたい人物の一人だった。

「インドネシアの回教」出版の経緯

 小林は昭和14年(1939年)の年末に帰国したときに、外務省の南洋局長から依頼され「インドネシアの回教」を執筆している。本書は昭和17年1月20日初版2000部、同年5月25日に再版3000部されている。序文を読むと「、、、併し私はインドネシアに在留した事も、否、旅行した事さへもないので、此の書に対しては至って自信がない。インドネシアに於ける回教といふものに対する私の認識として、一つは過去5ヵ年間埃及のアズハル大學に留学中、學友として朝夕接してきた約五百名のインドネシア回教留学生を通じたものと、他の一つは前後二回に亙って聖地の巡礼に参加し、その間、接してきた多数の敬虔なるインドネシア回教徒との接触くらいなものである。随って此の書の内容は間口も狭いし奥行も浅く至って貧弱なもので、擱筆後一読して甚だ慙愧に堪へない次第、只管に読者各位のご指導と忌憚なき御叱正とを望んで已まない。、、、、、」と極めて謙虚であるが、インドネシア留学生、巡礼者との交流を通じて、蘭印政府の回教政策や問題点について、かなり研究していたと思われる。序文の最後に書かれた日付は昭和16年12月10日 霞ヶ関にて著者、と書かれている。太平洋戦争勃発の直後、発行は海軍がセレベス島北部マナドに上陸(1月12日)して間もなく出版されたことになります。回教徒の多い南スラウェシ、マカッサル上陸は2月9日ですからぎりぎりのタイミングだった。当時の関係者にとって解りやすく、貴重な情報であったと思われる。表紙には大東亜共栄圏叢書第4編「インドネシアの回教」ハッジ ケルベライ オマル・ファイサル著、と書かれているので、表紙を見ただけでは小林の著作であること分かりにくい。この本を古書店で探したときは、ファイサル著、小林訳と書かれていたので、訳本かと誤解していた。

「インドネシアの回教」の目次

第1章 概説 1.インドネシアの宗教 2.回教の伝来 3.インドネシア回教徒の宗派 4.インドネシア回教徒の民族性 5.インドネシア回教徒の異教徒観 6.インドネシア回教徒に対する異教伝導 7.インドネシア回教徒と汎「イスラミズム」 8.蘭印政府の回教政策

第2章 回教教理の体系 1.神 2.天使 3.聖典コーラン 4.預言者 5.來世および天命 6.信仰の告白 7.礼拝 8.断食 9.喜捨 10.巡礼

第3章 回教儀律に起因する風習 1.如法および不如法 2.飲食物に関する風習 3.動物に関する風習 4.割礼に関する風習 5.脱糞排尿に関する風習 6.面子に関する風習 7.異性間の風習 8.葬儀に関する風習 9. 清浄及び 汚穢に関する風習

第4章 雑録 1.回教徒が好んで礼拝の時に唱える「スウラア」 2.「エジプト」の回教大学 3.預言者「マホメット」の地獄極楽観 4.インドネシア回教徒聖地巡礼に就いて 5.インドネシア回教徒聖地メッカ巡礼者数年次表 6.日本人回教徒聖地巡礼者一覧表

蘭印政府の回教政策

「インドネシアの回教」の概説の中「蘭印政府の回教政」の項には概略このような記述がある。

  3億2千万を超える回教徒の大多数は、政治的独立を拒否され、異教徒の統治下にあり、しかも回教徒が嫌忌し、憎悪するキリスト教の統治下にある。そして世界の植民國の中で回教徒を統治民としているのはオランダだけでる。インドネシアには回教徒以外の宗教もあるが、回教徒が圧倒的多数である。オランダはインドネシアに主権を確立するにあたって、ジャワ戦争、バンジャルマシン戦争、アチェ戦争など苦しい経験を持ち、また再び苦しい経験を繰り返さないか絶えずその危険に脅かされている。しかもインドネシアはオランダ本国の宝庫であり、その荒廃は直ちにオランダ本国の経済的存滅に関わる。

第2次欧州大戦勃発の結果オランダ本国はドイツに占領され、本国政府はロンドンに逃避し、インドネシアは事実上本国無き植民地と化した。しかも日本が英米に宣戦布告したため、蘭印政府の国際的地位は著しく危険に瀕するに至った。このことは必然的にインドネシア人に対する政府の圧力を弱め、政府の態度は軟化せざるを得なかった。現在蘭印政府の回教政策は、インドネシア回教徒に如何にして好意を得るかに尽きている。

吉住留五郎・小林哲夫・近藤三郎 -インドネシア独立を支援する仲間とともにー

 マカッサルには一時期、インドネシアの独立を支援する海軍特務機関「花機関」があり、興亜専門学校(現亜細亜大学)等で、マレー語を学ぶ学生が大量動員され、日本の青年とインドネシアの若者とが寝食を共に生活をしていた。花機関の責任者は、インドネシアの独立運動に一生を捧げた吉住留五郎であった。吉住留五郎の妻は小林哲夫の実妹マサノである。二人は昭和18年1月に結婚式を挙げている。小林が戦死する半年前である。吉住と小林との関係は、小林のエジプト滞在中にカイロ駐在総領事を務め、帰国後外務省南洋局長に就いた斉藤音次の引き合わせによるものである。また吉住とともにジャカルタの東印度日報(旧日蘭商業新聞)の記者を務めていた近藤三郎(愛知県幡豆郡出身)もマカッサルにいた。近藤は毎日新聞系のセレベス新聞社でマレー語(インドネシア語)の新聞 "Pewarta Celebes" (発行部数 マカッサル 3万部、メナド 2万8千部) の責任者であった。近藤は、ジャワ在住の前田精から命を受け、インドネシアの人達の独立への意識を高める啓蒙活動を行っていた。一時期、従軍記者としてマカッサルに滞在していた戸川氏も、ゴア・ウェイにあった近藤三郎や小林哲夫の住む、椰子林とバナナ林に囲まれた隠れ家の一間を借りて住んだという。この隠れ家の小林のところには毎晩のようにインドネシア人が訪ねてきていた。すでに小林のつくった回教協会には8万の会員が居て、遠くアンボンやスマトラあたりから小舟でマカッサルの小林の宿舎にやってきて、小林の指示を仰いでいた。

 吉住、小林、近藤は深い同志的関係で結ばれながら、陰に陽にセレベスのインドネシア民族主義者の要望に耳を傾け、彼らと日本の軍政当局者の橋渡しを務めることになった。

 戸川氏にとって、この近藤三郎も後世にその名を残しておきたい人物であったという。近藤は日本敗戦後、マカッサルへ戻ったオランダ軍によって逮捕され、インドネシア独立運動の扇動者であったことを追及され、連日ひどい拷問を受けた。最後を見届けた日本人は居なかったが、近藤氏はガソリンを浴びて焼身自殺を図ったという。インドネシア独立運動に関わった仲間の名前を言うわけにはいかなかった。

 ちなみに小林哲夫と姻戚関係にある吉住留五郎は、1944年よりジャカルタの海軍武官府に移り、前田武官の下で民族主義運動工作に当たる。この活動を通し「海軍グループ」とよばれたインドネシア人民族主義者と交流し独立への共鳴を深める。日本敗戦後、民族運動の指導者で共産主義者のタン・マラカと出会いインドネシア革命軍に入る。東部、中部ジャワでゲリラ部隊を指揮し転戦中、セゴンで病死。市来龍夫らと翻訳した「陸軍歩兵操典」はインドネシア革命軍の手引書となった。(以上同朋舎出版「インドネシアの事典」P437より)東京・愛宕の曹洞宗 青松寺(せいしょうじ)境内に、1958年(昭和33年)、当時のインドネシア大統領スカルノが、同国の独立に尽力した市来龍夫と吉住留五郎を顕彰した碑がある。(興亜専門学校生の太平洋戦争ーマカッサル花機関と吉住留五郎 参照)

宗教対策要員の養成

 小林にとって海軍占領地域である東部インドネシアを担当する宗教要員の養成が急務であった。吉住留五郎が花機関の要員を養成したときと同じような流れで、興亜専門学校(現亜細亜大学)の学生7名が、小林によって厳格なる宗教教育訓練を受けた。マカッサルに到着したのは昭和18年1月1日であった。彼らは回教徒としての洗礼を受け、真の回教徒として、日本軍政と回教徒の潤滑油となるよう、原住民回教徒の中に入っていった。セレベス回教協会(マカッサル、ゴロンタロー、ケンダリ各1名)、ボルネオ回教協会(バンジャルマシン2名)、セラム回教協会(アンボイナ2名) の編成であった。民政府側からは、飽くまでも原住民回教徒側の日本人であってほしい。軽々しくも官庁等への出入りを避けるように、と訓示されたという。

各地につくられた回教学院は日本敗戦後も数年存続し、インドネシア独立に向かっての活動が続いたという。回教学校の中の有力メンバーが青年団、兵補の中心に入っていった。ここで日本軍から軍事知識や兵器の使い方を習得した。これらの知識は日本敗戦のあとのインドネシア独立運動におおいに役立ったという。ちなみに Haji 小林が指導していたマカッサルの回教学校は、JI. Muhammadiyah にあった。昭和18年(1943年)3月(日本側の記録では4月中旬)、マカッサルの港湾地域が連合軍の猛烈な爆撃を受けた。午前11時から午後3時までの連続的な爆撃であった。港湾地域で働く現地の労働者が多数死んだ。そのときマカッサルの回教学校にいた小林は現場に行き、夥しい死体の山を見たという。その小林本人も3か月あと戦死する。

参考資料