マリンプン こんな収容所生活があった

小島貞二さんの戦時体験

 戦前・戦後を通じて、漫画家、力士(出抽C部屋)、雑誌記者、新聞記者、演芸作家、演芸評論家、著述業など多彩な活躍をされた小島貞二さん(故人)は、戦時中、民間人として麻生鉱業トンドンクーラ鉱業社の炭坑で労務係として勤務していた。昭和20年7月に現地召集となったが、約1ヶ月で終戦。その後、マカッサル、バンティムルン、マリンプンでの収容所生活を経て帰国する。当時マリンプンの収容所内では、セレベス新聞社のスタッフがガリ版刷りの壁新聞「草原」を発行していた。小島さんは壁新聞に漫画「寅さん」を連載、また相撲大会、絵画班へ参加するなど活躍した。一般の収容所のイメージよりも、かなり自由な雰囲気の収容所生活だった様子が窺われます。小島氏の遺著となった「こんな落語家がいた」と昭和50年(1975年) に公表された「セレベス日誌」などを元に終戦時の模様を探ってみる。

終戦の前後

昭和19年9月9日
マカッサル着、「ヤマへゆけ」との命令がかかる。トンドンクーラは麻生が開発した炭坑。(場所未確認)ヤマでは労務係。現地人と親しくなることがます大事。現地人の労務者は、パンツ1枚の裸。考えて越中ふんどしを配給したら大いに受けたという。その後昭和20年に入って軍からの増産の指令は更に厳しくなったという。
昭和20年 7月16日
「民間の日本人のほとんど現地召集を受く。小生も陸軍二等兵。将校をのぞいて下士官以下すべて現地召集なり。 マカッサル近郊にてもっぱら穴掘り。敵上陸すれば最初の消耗部隊と思われる。」元力士で体が大きくて軍服が無かったため、 小島氏一人私物の服と靴を許された。海岸の崖に穴を掘ることと、斬り込み隊としての訓練だけ。敵の上陸があれば一コロの泡沫部隊だったようです。
8月15日
「敗戦。天皇陛下の声しっかりときく。その夜、不寝番にあたり、抜けるような 月光が印象的。」
8月20日
「マカッサル市内の収容所に入る。」
9月8日
「移動命令あり、パンテンムルン (マカッサルより北に42キロ〉の林兼の味噌醤油醸造所に収容所移る。」

マリンプン

11月8日
「また移動命令あり、ピンラン北方十余キロのマリンプン大草原に大集結。 途中パンカグェネからピンランまでは海上移動。夜陰にまぎれて海賊出没、トランクなどけむりの如く消え去る事件相つぐ。ピンランから マリンプンまでは行軍。 マリンプンは”死の草原”といわれ、砂漠の中に点々と土まんじゅうあり、ジャワよりの労務者たちの墓ときく。むろん第二次大戦以前のものなり。」わずか半月ほどで、井戸を掘り、バラックを建て、食う寝るところが曲がりなりにも出来上がったようだ。
11月28日
「この日より連載漫画「寅さん」を描き、毎日掲示板に貼り出し人気となる。」 収容所では毎日新聞系のセレベス新聞のスタッフがガリ版用具を運んできていて壁新聞「草原」が発行されていた。民政部が短波ダジオを持っていたので日本や世界のニュースを得ることができた。暗いニュースばかりだったので小島氏が手を挙げて4コマの連載漫画「寅さん」が始まった。そのほか俳句や短歌も投稿、掲載された。
12月9日
「初の第六群句会あり参加。「富士に似し山まみどりや雲の峰」が入選。 大草原に家を建て、畑を耕し、集結以来わず か一ヵ月で趣味をたのしむ余裕生まれる。日本人のエネルギーのすばらしさ。」
12月23日
「民政部長官宿舎を解放”絵画班”が出来る。小生も漫画家として参加。 集う人洋画の杉浦三郎、中西次郎、小柳俊郎、 日本画の竹中青写、高橋忠一の各氏、主にまくら絵を描く。こうした絵は万国共通のため、警備兵とのトラブルに役立つときく。お国のための危な絵は痛快なり。」春画は見張りのアンボン人兵士の鼻薬になったようだ。同氏のこのメモを持ち帰ることが出来たのも春画のお陰だったという。
昭和21年 1月1日
「大草原に新年を迎う。木村長人氏の句に「元旦や青嵐吹くマリンプン」。」
1月15日
「セレベス新聞(毎日新聞社系) 後援で、農耕意欲高揚のため、「農耕の唄」を募集、小生の歌第一席となる。中村武人氏が曲 をつくる。」
2月2日
「草原に新生劇場出来、2日より6日まで陸軍報道部演芸班の手により各種の演芸行われる。小生の「みんな元気で」、永田勉氏 作曲、井上大次氏の「マリンプンの月」(河野 研一氏作曲)などの歌、ステージで発表。」

マリンプンでの相撲大会

2月11日
「ペンテン海軍司令部内にて海軍 部隊対民政部・実業団連合の対抗相撲大会あり、 双方25名づつの選手による団体対抗は14対11で民実側大勝。小生小結にて勝ち名のり。 大五番は民実側は筑紫洋(元山分部屋)、浜勇(元二所の関部屋)、小生(元出抽C部屋)、長崎、 伊集院(毎日新聞相撲記者)のメンバーで4対1で勝ち、海軍側は五段田中兵曹が個人決勝を制し、からくも面白を保つ。夜の酒盛りうまし。 」戦時、終後を通じて内地からの相撲放送は聞くことが出来た。戦後初の20年の十一月場所もセレベスで聞いた。内地に帰ったら新聞社に入り、ぜひ相撲記者をやってみたいと思ったという。

2月20日
「漫画「寅さん」約30枚(描いたのは約40枚なれど、掲示中にスコール等で 破損紛失など多し)のこる。スリリ文化班の招きに応じて、スリリ第十二群へゆく。ニューギニア戦線からの兵士多数入院中、骨と皮の肉体を垣間見て胸痛し。」

3月3日
「スリリにて「寅さん」漫画展をひらき好評。この日西山司政官から電話で、絵画班の中西、小柳両氏とともに.ハレパレに行ってほしいと要請あり、パレパレにゆく。」

マカッサルの進駐軍劇場で背景画を制作

3月8日
「パレパレよりマカッサルまでドライブ、海辺の船舶隊の宿舎に入る。仕事は三笠会館が進駐軍の劇場となり、その舞台用の背景を日本人画家に命じたものときく。中西氏は別行動をとり、小柳氏と小生は毎日三笠会館へ通って製作。ある日ニュース映画を見る。戦勝にわき立つシドニー市中の光景に、ただショック。」
4月16日
「”帰還近し”の報に、急ぎマリ ンプンに戻る。 」

帰国の途へ

4月29日
「午前三時マリンプンをあとに して、パレパレまで行軍。さながら荷物が歩くが如し。午後、パレパレのトランシット・キャ ンプに入る。 持ち帰り品は「帽子2、上衣・ズポン各3、 毛布2、せっけん6、靴3、時計1、ローソク 3、白紙の手帳1、タパコ200グラム、マッ チ2」など、かなりこまかく規制。」
5月9日
「帰還船来るの報に終日準備あわただし。」

帰国の途へ

5月10日
「帰還船にのる。アメリカのリパテ ィ型輸送船、約7千トンなり。午後7時すぎパレパレを出航。さらばセレベス!5月12日午前O時ごろマカッサル海峡上 ”赤道”を越す。速力10.6ノット。 ミンダナオ島の東を回り、黒潮にのって北上、 一路名古屋に向うコースときく。」
5月16日
「波強くローリング十度の揺れ。 満月美し、南十字星もまた美し。 」
5月20日
「逆風と波浪のため七・九ノット に落ちる。潮風肌にめっきりと寒し。いよいよ 日本に近づくを感ず。」
5月23日
「朝名古屋港に入る。かつて威 容を誇りし大工場群はあとかたもなし。午前11時5分、祖国への第一歩。DDTを頭より浴 びせらる 。」
5月24日
「手続き終り、正午築港前より 市電にのり、午後三時すぎ故郷豊橋(愛知県) につくが、まさに一望千里の焼け野原。むろん わが家もなし。敗戦の風が身体を吹き抜ける思いなり。」

出典

  • 小島貞二 「こんな落語家がいた」 発行所 うなぎ書房 2003年8月2日
  • 図南春秋会発行 「図南春秋」 第10号 P32 セレベス日誌 昭和50年(1975年) 9月1日
  • 衣笠周司 「戦時下の記者たち」 発行所 向陽書房 平成9年12月18日

関連資料(収容所生活)


掲載:2008年6月7日