近藤三郎 セレベス新聞社 「プワルタ セレベス」編集長のこと
Kepala Editor "Harian Pewarta Selebes" Kondo Saburo

スラウェシ研究会

 太平洋戦争中、海軍軍政下のマカッサルでは、海軍の要請に応じ、毎日新聞系のセレベス新聞社が、日本人向けの「セレベス新聞」のほか、現地住民向けの『プワルタ セレペス(Pewarta Selebes)』を発行していた。発行部数はマカッサルで3万部、メナドで2万8千部、編集長は近藤三郎であった。もともと現地住民の宣撫活動として日本語の新聞記事がインドネシア語に訳されている筈であったが、実態は海軍の方針とは異なる、インドネシアの人達の独立への意識を高める啓蒙を行っていたようだ。(左写真は創刊号 国会図書館蔵 裏の文字が滲んで読み難いが Pemimpin Redaksi: S. KONDO の文字が判読できる)

 従軍記者としてマカッサルに駐在し、近藤と親しい関係にあった戸川幸夫氏によれば、近藤は愛知県の幡豆郡の出身で、昭和10年、22歳のときに一商社員としてジャワに渡った。近藤はジヤカルタで日本語並にマレー語の新聞『東印度日報』を発行していた久保辰二と知り合う。また、オランダの支配下で喘いでいるインドネシア人のことが解ってくるにつれ、激情家の彼はじっとしていられなくなった。彼はそこで商社を辞めて、久保の下で東印度日報の記者になった。そのとき彼の同僚に市来龍夫や吉住留五郎などがいた。

 「インドネシアはこのままでよいのか。インドネシアが持つ富はインドネシア人のものでなければならない。東洋の富は、東洋人のものでなければならない。東亜の盟主と自負する日本はインドネシアを援けて、インドネシアの独立を計り、オランダの支配から解放すべきではないか」。若い二人の情熱と意見は一致した。ひそかにインドネシア独立を計る志士だちと交わりだしたという。 いよいよ太平洋戦争へに突入も不可避との雲行きとなる頃には、近藤たちは海軍の情報機関である花機関(軍令部直属・花田行武少将)と結びついていた。

しかし、近藤たちの考え方は、インドネシアを日本の植民地にすることを目論んでいる海軍の方針とは相容れなかったようだ。近藤は海軍の反民族主義政策に対しては、占領当初から疑問を抱いていた。戦争が進展するに従って、彼はますます批判的になり、日本軍の支配を緩和し、その後で実質的なインドネシア独立を実現すべきだ、と主張するようになっていたと言われている。

 昭和18年の後半ごろから、マカッサルの空襲も苛烈になってきた。日本は敗れるのではないかという不安は、現地にいる誰の胸にも響いてきた。日本が敗れたらインドネシアはどうなる? 再びオランダの植民地に逆もどりするだろうか? そうさせてはならない。たとえ日本は敗れても、インドネシアは独立するー そうなって初めて、日本の戦争目的も達するというものだ。そのためには一日も早くインドネシアに独立を許容すべきだ、というのが近藤だちの主張だった。近藤や吉住たちはその方向に世論を向かわせることに死力を尽した。

近藤の部下のインドネシア人編集員の一人は、次のように述べている。

「彼は同情心の厚い友人で、私たちにとっては、兄のような存在であった。彼のインドネシア語は流暢で……私たちは政治や日本の目的やインドネシア独立などについて、彼と多くの討論をした。彼はいろいろな方法で私たちを援助してくれた。私たちの記事が検閲にかかった時には、何とかしてそれを通し、印刷出来るようにしてくれた。」

 近藤は、自分が海軍の宣撫活動という、いわば公的な地位にあるにも拘らず、自分の接しているインドネシア人に対して民族主義感情をかきたてたということについて、ほとんど良心の苛責は感じていなかったという。占領末期には、彼は秘かに地下組織を激励していたといわれている。当局が、彼の活動を抑制しようとしなかったのは、彼が、失うには惜しい有能な人物であり、しかも、彼は、マカッサルの日本人間で、強力な支持を得ていたからであった。当時マカッサル民生部に勤務した粟竹章二氏によると、民生部の女子職員からは〝コンチャン”と親しまれていたという。インドネシア民族主義に関し、彼と同じ見解を持っていたマカッサル時代の同志の中には、吉住留五郎とその義弟小林哲夫がいた。吉住は、昭和19年、ジャカルタの前田大佐指揮下の海軍武官府に転勤になるまで、マカッサルにあつた海軍の特務機関いわゆる花機関に勤務していた。吉住がジャカルタ海軍武官府へ転出した動機としては、海軍首脳部と考え方の相違、また義弟の小林哲夫の戦死などがあったと言われている。

戦争末期になって、マカッサルの民政府には軍政監部顧問として、後のインドネシア独立に向けて活躍したラトランギ博士(Dr. Gerungan Saul Samuel Yacob Ratulangi)も配属されていた。ラトランギ博士と近藤やその周辺と何らかの接点があった筈であるが、結果的に勢力を結集するには至らなかったようだ。ラトランギ博士は、その後インドネシア共和国独立準備委員会の委員を務め、インドネシア独立宣言後は初代スラウェシ州知事となっている。

敗戦になって、これまで近藤の片腕となって働いていたワハブやソフィアイン(Manai Sophiaan 注1)、ミスランなどが表面に出て、彼らが中心になってセレベスの再編成にとりかかった。近藤は日本軍の武器庫へ行って銃器弾薬をトラックで運び出して、独立運動をやってる連中に引き渡している。そのとき近藤は「日本人が抑留されている間は絶対盲動しないよう。何も知らない日本人までがどんな目にあわされるかわからないから」と言い渡していた。彼等はこれを忠実に守った。日本人抑留者の帰国は1946年5月であったが、結果的に良かったのか否か、陸軍の軍政地域ジャワ島の場合と較べてみる必要がある。スラウェシではオランダが政権に復帰し、一時「東インドネシア国」を樹立し、混乱が続いた。

近藤三郎は夫人と2歳になる娘をつれて、マロスの収容所に入れられた。
最初は濠州軍、次は英印軍、そしてオランダ軍が最後にきた。このときになって近藤は戦犯として引き出された。オランダは彼を独立運動の煽動者として逮捕し、連日ひどい拷問が加えられたが、近藤は強情に一言も吐かなかった。 しかし、体力は日に日に衰弱し、このままでいれば、遂には拷問に負けて、独立の機を窺っている同志の名を喋らないとも限らない。
「死のう。死んで生きよう」
と彼は決意した。彼の最期を見届けた者はいない。だが、彼がガソリンを浴びて、自ら火を放って自決したことはほぼ確実のようだ。オランダ軍は彼の死が、インドネシア人に与える影響を怖れて極秘にした。終戦時うまく生き延びていたら独立戦争の英雄になっていたかもしれない貴重な人物であった。

注1 Manai Sophiaan (1915-2003)のこと

南スラウェシ Takalar 生まれのインドネシア国民党の政治家、 1934年 MULO Makassar (中学校)卒業後、21歳で Yogyakarta の Taman Siswa (民族教育の父 Ki Hajar Dewantara が1922年に創立した学校)の教員となった。1933年頃から地域の政治に関心を寄せていた。 日本軍政時代はマカッサルで、Harian Pewarta Selebes の編集に, 現地人編集長として携わった。太平洋戦争が終わったあと、1945年9月、スラウェシ州の情報部長に就任する。因みに州知事はRatulangi博士だった。その後、蘭印によって捕えられたが、脱獄し、ジャワに渡り、スカルノにより重用され、国連大使、駐モスクワ大使を歴任、国民協議会ではある案件で動議を提出し、これが「マナイ・ソフィアン動議」としてインドネシア近代史に記録されている。(戦時中マカッサルで Harian Pewarta の発行に携わった黒崎久様からご教示頂きました。写真は昭和60年(1985年)12月24日、国連大使の任務を終え、帰国途中東京に立ち寄り、帝国ホテルで旧セレベス新聞関係者と再会した際に撮影 黒崎様提供) 

黒崎久様からのコメント(2015-11-12)

当時毎日新聞社からマカッサルへ派遣され、プワルタ セレペス(Pewarta Selebes) の編集に携わった黒崎久様から、下記のご教示を頂きました。有難うございました。

追記:『なぞのエス・コンドー』(かつおきんや作 1985年 リブリオ出版)

この本は「はじめての海外旅行3 インドネシア編」。近藤三郎やマナイ・ソフィアンの足跡を訪ねて、ウジュン・パンダン(現在のマカッサル)まで子供が旅行する物語。太平洋戦争の記憶が薄れつつある中、インドネシアで一人の日本人が現地の人達とともにインドネシアの独立に向けて、戦った記録が、こういう形で残されていることは嬉しい限りです。太平洋戦争中のマカッサルでの近藤氏については 戸川幸夫著「昭和快人録 知られざる戦史」などにも詳しく取り上げられていますが、この本では近藤氏の幼少時代のこと、日本力行会の学校で学んだこと、戦後建てられた郷里の墓地のことまで、丹念に取材されています。ウジュン・パンダンでは短時間の滞在であったにもかかわらず、ディポ・ネゴロの墓を参拝するなど物見遊山ではない「はじめての海外旅行」になっています。

巻末の取材ノートを見たら、これも黒崎様から懇切丁寧な情報提供、マナイ・ソフィアンへの 紹介状などがあったことが記されていました。愛知県の出身校や日本力行会の学校まで 訪ねて近藤さんの情報を収集するなど、子供向けながら本格的です。 (2015年12月19日追記)

参考資料