セレベス新聞時代を顧みて(2)

Retrospeksi masa redaksi "Harian Pewarta Selebes"
di Makassar selama 1943-45 (2)

黒崎 久 Kurosaki Hisashi

 マカッサルはブリンギンの並木がしげる東インドネシア第一の都市である。ジャワとスマトラを除くインドネシアは海軍担当地域であり、海軍軍政本部の民政府があった。メナドやボルネオのバンジャルマシンなどには下部機関の民生部が置かれた。セレベス新聞から一軒おいた隣りは海軍司令部で(第二三特別根拠地)であった関係か、開戦記念日や祝日に民衆を司令部前の広場に集め、海軍司令官が訓話をするならわしがあったが、わたしも二度ほどその通訳をさせられた。それはそれでよろしいが、司令官訓話のあと民衆を東京方向に向け、宮城遙拝をさせた。これは不評判であった。イスラム教が盛んな地域として知られる南セレベスの民衆が遙拝するべきなのはアラビアのメッカだけだから当然というべきだろう。  

プワルタ・セレペスの記事は民政部検閲官の検閲を受けなければならなかった。 その係りは藤田勝さんといってジャワ生まれだったらしく、オランダ語に通じた温厚な人だった。近藤編集長とも親しく、検閲とは名ばかりで、一度もひっかかったことはなかったようだ。藤田さんは戦後、オランダ語ができることから、ボルネオで開かれたオランダ側による戦犯の裁判の通訳をされた。

わたしが着任したころ、外語上級生の伊東定典先輩が民政部の土地関係役所の所長をしておられたのを知り、訪ねていったところ、大いに歓迎され、その当時衣服にもことかく状態だったので、防暑服を下さったので助かった。防暑服といえば、外語同級の奥源造君もわたしより少し遅れてメナド支社に出向していたので、伊東先輩に頼まれて送ってあげた。伊東先輩は終戦前に帰国され、のち外国語学校の教師となり、最後は東京外国語大学インドネシア語科の主任教授として、定年まで勤められた(現在外大名誉教授)。伊東先輩と同期の田辺穂積先輩も海軍士官としてマカッサルに駐屯していたが、わたしどもが在学中、同先輩の訃報がもたらされ、わたしどもは驚くばかりであった。田辺先輩はインドネシア語の成績がことのほかよく、もし健在であったらインドネシア語の権威になったかもしれないと惜しまれる。わたしは伊東先輩に連れられて、田辺先輩のなきがらを火葬にした場所に行き、冥福を祈った。

わたしが着任した翌月だったと思うが、セレベス新聞の社長が大森富氏から持田賢士氏に変わり、大森氏は思い出にと南セレベス一周遊行をされた。同じく帰国することになった柿本勝氏と日野重一氏も同行し、わたしは通訳としてお供をさせてもらう幸運に恵まれた。ゴアとかボネのラジャ(王)と称する有力者の家などを訪ねたり、南セレベスの秘境とされるトラジャ地方を訪れることもできた。トラジヤ・コーヒーと称さるる高級コーヒーの産地として今では日本でもよく知られるようになったが、稲作を生業とする地方で、トンコナンという舟型の伝統的家屋に住み、独特の風習があり、インドネシア有数の観光地でもある。 道を進むと、至るところに岩壁があり、それらの岩壁には横穴の洞窟がいくつも掘られてあり、その洞窟の前に人形が立ち並べられてあるのが目についた。(上の写真説明補足:右端は県管理官)

横穴は岩窟葬の墓であり、人形は 死者をかたどったものである。トラジャ人の信仰はアニミズムで、万物に霊魂が宿ると信じる。葬式をことのほか重んじ盛大に行う。葬式をペスタ・マティと称する。マテイは死を意味し、ベスタはヨーロッパ語由来で祭礼・祭典・祝祭を意味する。したがって葬式はトラジャ人にとっては死者の祭りである。生前からペスタ・マテイが盛大に行われることを心がけ、子のない人は養子を迎えて自分の死後、ペスタ・マティを盛大に行うよう全財産を譲り渡しておく。この死者の祭りを盛大に行うのは、死後死者の魂があの世でも盛大に迎えられることを願うからである。死者の祭りには裕福な家では何百もの家畜(水牛や豚や鶏)を屠殺して、各地から訪れる親族や村びとたちにふるまう。死者の祭りが行われる時期はきまっており、隣村ばかりでなく遠くジャワあたりからも見物に来るという。大勢の人が集まるので、死者を出した家の前には仮の家が何戸も建てられ、訪れた人たちを宿泊させる。死者は防腐処置がほどこされ、幾重にも布を巻いて棺に納められて時期を待つ。 一年近くも待たなければならない場合もあるという。時期が来ると、棺は竹梯子を使って洞窟に納められる。一年後にその死者を納めた棺が取り出され、骸骨化した遺骨を、あらたに布で包み直して洞窟に戻される。この祭りも盛大に行われる。これをマネネ祭りと称する。この際、慣習法の司宰者が告文を読み上げる。これで夫(妻)が再び妻(夫)を迎えることが認められる。つまり、この祭りをもって夫婦の縁が完全に切れるというしだいである。

南セレベス一周旅行では、トラジャ随一の有力者の家を訪れた。プワルタ・セレベス紙の販売取り扱いを依頼していた家であり、その家の主にすすめられて、近くの温泉で一夜を過ごしたが、その温泉へ行く途中の田んぼで村びとたちがきらびやかな衣裳で踊っている光景にしばし見惚れた。この南セレベス旅行を生涯の思い出としてしばしば偲ぶことがある。

マカッサル爆撃がしきりで、海軍司令部のそばでもあり危険だというわけで、プワルタ・セレベス編集部は近藤編集長宅の隣りに移った。それを機会にしたわけでもないが、わたしはマナイ・ソフィアン宅を去り、近藤家の近くにあった回教協会の離れ部屋に移った。マナイ・ソフィアン家の近くにインドネシア人有識者たちの交流場所として「友好の泉」という社交場が近藤三郎氏の発案で設けられた。その社交場の名称を何とするか、プワルタ・セレペス記者たちの間でいくつかの案が出されたが、わたしが提案した友好の泉を意味するインドネシア語 "Sumber Persaudaraan" が採用された。そこにはビリヤードの設備が設けられたり、ちょっとした飲みものなどがサービスされ、マカッサル在住のインドネシア人有識者たちがよく遊びに来た。わたしもここで初めてビリヤードを覚えた。そんなわけで、わたしはマナイ・ソフィアン家を去るのが残念に思えた。

当時の回教協会会長はカイロ大学を卒業した川崎寅雄氏で、副会長は現地人のハジ・オマール・マンスールであった。前会長で人望があった小林哲男氏はイスラム(回教)名をハジ・オマール・ファイサルといったが、後述のとおり非命の最期をとげた。

回教協会に興亜専門学校(現アジア大学)を卒業し、わたしが着任する前からマカッサルに在住し、プワルタ・セレベスの草創期に編集を手伝った栗城赳(イスラム名アブバカル・ハムザ)と古沢賢太郎(イスラム名アリ・アブドゥラ)という少壮気鋭の青年がいた。回教協会にはいつともしれずプワルタ・セレベス記者なみになった今村真澄(前記両青年の後輩)という勇ましい青年がわたしと一緒に回教協会の離れ部屋に住むようになった。わたしが回教協会に寄宿するような形になったのは、プワルタ・セレベスと回教協会が密接な関係にあったからである。南セレベスの主要部族であるブギス・マカッサル人はスマトラ島北端のアチエ族ほどではないにしても、信仰心の厚いイスラム教徒で、それを宣撫する回教協会の目標はプワルタ・セレベスのそれと一脈相通じるものがあった。

セレベス新聞社員はみんな社員住宅に分散して居住したが、わたしは大和ホテルからマナイ・ソフイアン家へ、さらに回教協会に移り、ついにセレベス新聞社員住宅に住まなかった。社員住宅に住むことがなかったのはわたし一人だけであった。わたしがマナイ・ソフイアン家に移ったのも近藤三郎編集長に送り込まれたといったほうが正しいかもしれない。 わたしがセレベス新聞に出向して、初め宿泊した大和ホテルで毎日「誰か故郷を思わざる」という流行歌が流されていた。望郷の念をかきたてるためであろうか、来る日も来る日もこの歌を聞かされた。レコードはこれ一枚しかなかったのであろうか。

それよりも何よりも、マカッサル滞在中の思い出で最も忘れ難いといおうか、劇的なシーンとでもいおうか、脳裡に深く刻まれたのは、インドネシア最高の指導者で、政略的かもしれないが軍政に協力したスカルノ(初代大統領)が終戦の年の4月の末だから天長節に合わせてかしてマカッサルを訪れたことである。

(上の写真:スカルノが1945年4月末マカッサル訪問時のニュース映画の画面より
  Youtube 動画 "Bung Karno - Kembali dari Sulawesi": 注1)
左の写真:スカルノの演説風景
右の写真:手前からスカルノ、スバルジョ、マナイ・ソフィアン

何ごとにつけ、ジャワに遅れをとっていたセレベスの人たちはスカルノを熱狂的に歓迎した。第一日目は型通り軍政当局との会談、二日目は青年たちの「独立か死か」と題する演説会への出席であった。ハイライトは3日目に町の中心部第一広場で繰り広げられた大集会での演説であった。その日は、それまで禁じられていた民族歌の「インドネシア・ラヤ」(大いなるインドネシア。現在の国歌)が歌われ、紅白の旗(現在の国旗)が揚げられ、集まった群衆は涙してスカルノの演説に聞き入った。スカルノは噂にたがわない演説の名手で、その烈々たる言辞は聴衆の肺腑をえぐった。わたしがいまだに忘れられないのは、スカルノが「日本に特攻隊がある限り、日本は敗けない」とぶった文言である。すでに沖縄は戦場と化し、4 月7日には戦艦大和が沈没していた状況下にあって心からそう信じたわけではあるまいが、彼の置かれた立場上そう言わざるを得なかったに違いない。わたしは彼の心境を察して、指導者とはかくあるべきものかと感じ入った。ちなみに、この大集会はプワルタ・セレベスが中心となって進められ、司会は地元の少壮気鋭の記者マシアラがつとめた。

スカルノのマカッサル訪問を機にしたわけでもあるまいが、或る日マカッサル在住の民族運動指導者や要人がマナイ・ソフィアン家の近くにあるマラデカヤ広場に集まり、民族決起集会記念の写真をとった。四十人くらい集まり、写真を見ると前列の椅子席の中央にプワルタ・セレベスの編集長近藤三郎がでんと座っているではないか。彼がいかに現地の指導者たちに信頼されていたかを証明する写真である。メナド出身最高指導者のサム・ラトゥラギもたまたまジャカルタから来ていたので、この集会に加わった。彼の名はメナドにある国立大学と空港に冠せられている ほどの大物であった。

追記・民族決起集会記念写真の中の方々

Daftar nama orang dalam foto peringatan SOEDARA(Sumber Darah Rakyat) di Makassar pada May 1945

まったく非常識なお願いでしたが、黒崎様に70年前に撮影された写真に写った方々の名前を思い出して頂きました。(2016-3-12 編集部)

1 黒崎様 Mr.Kurosaki  
5 サム・ラトゥランギ博士(Dr. Sam Ratulangi) 民政部参与、初代スラウェシ州知事、インドネシアの英雄(1961年第590号)、1946年4月、オランダ軍に対する反逆罪で投獄、1949年6月30日死亡
6 ハジ・マンスール (Haji Umar Mansur) 全イスラム組織副会長(Djamijah Islamijah)、初代会長の小林哲夫は昭和18年8月戦死、
7 近藤三郎(S Kondo) プワルタ・セレベスの編集長
Kepala Editor "Harian Pewarta Selebes" 戦後オランダ(NICA)により逮捕され、1948年3月13日死亡、独立戦争の最中、現地への影響を怖れ極秘扱された。
8 タジュディン・ノール (Tadjoeddin Noor) 東カリマンタン出身、日本軍政時代、マカッサルに法律事務所を開く。民政部参与、建国錬成院 (Watanpone)、終戦後 初代スラウェシ州 経済局長、オランダを排除する目的で東インドネシア国設立にも関与した。
9 ナジャムディン・ダエン・マレワ (Najamuddin Daeng Malewa) 反オランダ闘争の闘士、1945年5月 マカッサル市長(山崎軍太氏の後任)Walikota Makassar、しかし戦後は変身、住民の安全を守るため、オランダ(NICA)側に協力、1946年12月発足したオランダの傀儡国家 〝東インドネシア国 NIT ”の首相に就任する。1947年9月汚職で起訴された。
10 パジョンガ・ダエン・ガレ Padjonga Daeng Ngalle
Karaeng Polongbangkeng
1901年 Takalar 生まれ、1942年 Polongbangkeng 郡長(Takalar)、青年団 所属 (Seinendan Boe tei Sintai 防衛挺身隊)、1945年10月16日, Lasykaran Lipang Bajeng (LLB) 結成。1945年12月、LLB がマカッサルの蘭軍基地を襲撃、
南スラウェシ軍隊長 Ketua "Lasykar Pemberontak Rakyat Indonesia Sulawesi Selatan (LAPRISS)" pada tanggal 17 Juli 1946
LAPRISS は1946年8月18-19日 Limbubg の警察を襲撃。
11 ハジャ・ラティ(Hadja Rati) Editor "Harian Pewarta Selebes"
建国同志会(Himpoenan Sefaham oentoek Pembangunan Negara)の有力者の一人、初代スラウェシ州知事のスタッフに就任
12 マナイ・ソフイアン(Manai Sophiaan) プワルタ・セレベスの編集長
Kepala Editor "Harian Pewarta Selebes"、 戦後 初代スラウェシ州 調査局長、1946年4月、オランダ軍に対する反逆罪で投獄され、その後脱獄、ジャワへ逃亡。スカルノ政権時代に国連大使、ソ連大使を歴任、引退後はスハルトを批判する立場を貫いた。9月30日事件(G-30-S) でスカルノを強く擁護。2003年死去

注1:https://www.youtube.com/watch?v=FUWu6YqAndA

関連資料

注:著者のご了解を頂き「八十年を顧みて」(平成13年10月25日発行)の一部をそのまま転載させて頂きました。(編集部)