マカッサル研究所のこと

脇田 清之

 太平洋戦争中、マカッサルに総合的な科学研究機関「マカッサル研究所」があった。 南方占領地域の海軍軍政地区に地域の統治・開発に必要な基本的事項を調査研究することを目的とする機関として昭和18年(1943年)5月に創設された。研究所の前身は昭和17年5月に海軍省南方政務部に設けられた海軍地区南方資源調査団である。戦況の悪化に伴い、昭和20年5月をもって研究所は解散の憂き目に会う。

 研究所の組織は、総務(97名)・農林水産(103名)・地質鉱物(133名)・環境科学(12名)・熱帯衛生(127名)・慣行調査(10名)の六部、総計482名の陣容であった。建物は総務部、農林水産部・地質鉱物部等はロッテルダム要塞内に設けられ、熱帯衛生部の病院は海岸通りのステラマリス病院、実験所は明石通りの建物に入った。

 このたび旧海軍マカッサル研究所職員のご厚意によって、「マ研会」が発刊した関係者の「思い出集」(平成7年3月28日発行)を読む機会が得られたこと、また当時熱帯衛生部に派遣されていた倉茂好雄氏の著書「蘭印滞在記」(1988年清水弘文堂書房発行)には熱帯衛生に関する活動内容が克明に記載されていこと。併せて当時現地で発行されていたセレベス新聞の記事を参照しながら、当時のら研究所の活動を垣間見てみたい。僅か2年間の短い期間ではあったが、地質、農林水産、医療関係ではその後のインドネシアの開発に大いに役立ったことは特筆すべきであると、関係者の一人が回顧している。活動の目的は異なるが、戦後各分野における日本の技術協力の先駆けであったのかも知れない。

先ず地下資源開発、衣食の現地自給から各方面へ

 昭和18年7月9日付(第177号)のセレベス新聞にマカッサル研究所の事業に関する記事が掲載されている。「先ず地下資源開発、衣食の現地自給から各方面へ」の見出しが付いている。研究所が先ず第一に着手とするものは大体次の如く。事業を実施に関しては内地の各専門研究機関と極力緊密な連絡を取り、それを活用する方針であるとしている。
 まずは農林関係で食料、衣料、現地自給、食料にあっては米の増産、衣料にあっては綿花栽培の指導、ラミ(?)の栽培の指導から始める。
 水産方面では取りあえず漁労方法の改善を行い、食膳に安い魚類を供給する。
 地質鉱物については探鉱の方法に重点を置く。旧蘭印は現地のこの鉱産資源について伏せてあったが、南方開発には地下資源開発への期待が大きいのに鑑み、極力綿密に探鉱する。
 熱帯衛生では邦人の現地保健上、まずマラリア退治に全力を集中し、その対策として現地にキナの栽培をも行う。
 慣行調査では政治、行政、司法(読み取り不可)源となるものである。調査は相当の年月を要するので、手取り早い方法による調査を行う筈である。

 昭和18年8月26日付(第221号)のセレベス新聞には、準備が整ったのでいよいよ研究調査の実行に着手することになったことが報道されている。すでに地質鉱物部ではハルマヘラ、ボルネオに調査隊を派遣、農林水産部では稲作の改良、熱帯衛生部ではマラリヤ、デングの予防の研究に着手したと書かれている。研究所の活動はセレベス島内に止まらず、海軍軍政地域各地まで拡がっていたようだ。

日本野菜の増産指導

 昭和19年8月23日のセレベス新聞にマ研、日本野菜の増産指導の記事があった。日本の各種野菜や現地の畜産を学術的立場から探求して増産を図るため、菜園場を新設して日本種子を栽培するため、研究所は昭和19年初めからバンタエンのエレンエレンに進出、すでに採種園の三分の一が出来上がり、19年年末までに完成予定である。海抜750mの高原に設営された採種園は調査道具の不整備、労力不足、種子の延着で困難を極めたが、青木主任技師ほか要員が精進の結果、6月頃から開墾に着手し、整地の完了した畑に茄子、胡瓜、菜類など栽培容易なものを播種し、去る7月7日の研究所開設一周年当日にその一部をマカッサルに展示する運びになった、と書かれている。

 研究所の業務と直接的な関連は不明であるが、この時期、日本農法を現地に移植する動きが見られる。昭和19年8月26日のセレベス新聞に「増産陣へ新鋭部隊 農業要員第二期生来着」の記事が出ている。人数は公表していない。目下鎌倉通りの南海荘に合宿し、民政部で軍政、教練、農事、実習、語学などの訓練を受けて居る。28日からはマリノ南興農場に入植し、三ヶ月間原住民の指導者たるべき訓練を受けることになると報道されている。さらに目下マリノ農場で実習中のマカッサル農学校生は8月一杯で下山、九月中旬には同師範学校が、10月初旬からは同農業技術員養成所生徒が心身の錬磨を兼ねて食糧増産戦士に相応しい実習をうけると追記されている。

製紙技術開発

 昭和19年9月16日のセレベス新聞に「良質で強い紙の製法 マ研、試作に成功」の記事がある。現地ではブギス語でアンバロンと言われる桑科の灌木、同じくブギス語のススアン、バブと言われる野生の灌木2種類の外皮下にある柔組織が強靱で抵抗力の強い繊維質で製紙に適していることに着目、試作品の紙質は非常に強靱でタイプライター用紙としても使用可能であり、今後の製品化により、事務用紙の不足を打開したいと期待が込められた記事である。この時期セレベス新聞も版が半分ほどのタプロイド版になっていることから、用紙不足が深刻になっていた事が窺われる。

 製紙技術に関しては「思い出集」の中で栗山旭氏が詳しく記載している。栗山氏の研究テーマが「木材を乾留して得られる木タールからクレオソート油を製造する」から突然「コウゾ樹皮を原料とする手すき和紙の製造」に変わったこと。東京から竹ひごを編んだ抄造用、すき簀(す)一枚(新聞紙一頁大)が送られてきたので、それを持ってマサンバに向かう。現地では和紙工場の用地選定のため付近の川を見て回った。和紙作りには綺麗な水が必要だからである。工場は幅6m、長さ15m、高さ2.5mの長屋で、柱は丸太、壁は竹、屋根は椰子の葉などを材料とし、付近の森から得た。工場が出来上がった。試作の結果、女性の作業員でも一日当たり100枚以上の紙が作れるようになった。その後、本部から次のテーマとして「黒色火薬用木炭の製造」も行うよう命令された。試作された黒色火薬の試験結果は良好だったと書かれている。

熱帯衛生部

 当時熱帯衛生部に派遣されていた倉茂好雄氏の著書「蘭印滞在記」には同氏が所属する熱帯衛生部の活動について詳しく書かれている。同書によると、熱帯衛生部は研究を行う「実験所」と現地の診療を行う「病院」との二つからなっていた。実験所は郊外の閑静な所にある現地の研究所の建物が利用され、それと離れて、病院は海岸近くに設けられた。熱帯衛生部の部長は、京大医学部出身の阿部勅任官(少将相当官)技師であり、実験所長を兼任していた。また病院の院長は同じく勅任官で、九大医学部教授であった東(あずま)博士であり、真面目な学究肌の方であった。この人の長兄は当時セレベス民政府衛生局長であり、元東大医学部教授、後の東京都知事の東龍太郎博士である。ちなみに、東衛生局長が内地帰還後、阿部熱帯衛生部長がその後任の衛生局長に栄転し、さらに東病院長がその後任の熱帯衛生部長に栄転した。 実験所 実験所は予防医学第一科(内科)、予防医学第二科(生薬)、予防医学第3科(寄生虫)に分かれ、研究員は京都大学関係者が多かったと書かれている。

マカッサル病院

 海岸通りにあった病院で一般に「マカッサル病院」と呼ばれていたが、正式な名称は「南西方面海軍民政府 マカッサル研究所 熱帯衛生部付属診療所」。オランダ統治時代は、ステラマリス・ルマサキットで、今で言うオープンシステムの病院で、市内の開業医が、手術又は入院の場合、この施設を共通に使用していたもので、レントゲン装置はフィリップスのものであったし、手術の照明は、自動的に電池に切り替えが出来る等、施設はかなり進んだものであった。大きくはなかったが、こじんまりした清潔な病院であった。この病院では軍人以外の日本人や現地人の診療と臨床の研究、更には現地人の医師と看護人(マントリー)の教育も行われていた。生徒の中にはなかなかピンタールな者も居て、医学用語を漢字で書けるようになったという。病院長は東陽一先生(東京厚生年金病院長)であった。 藤山一郎さんは、患者と職員の為、しばしば音楽会を開いて下さった。音楽好きの現地の方々は、二階の講堂を、花や、美しい葉で巧みに飾ってくれて、その中で歌とメロディをどんなにか喜んだ事だろう。そして藤山さんに対するお礼は、病院の賄いの人達が作ってくれた現地のお菓子「オンデオンデ」を食べて頂くことであった。(板谷健吾氏)

コメント( 2008-10-27、訂正 2010-9-1)
 当時マカッサル民政部在籍の粟竹 章二氏から下記コメントを頂きました。
 熱帯衛生部の記述の中の東三兄弟の件は、マカッサル病院長の東陽一先生が次男で、龍太郎(りょうたろう)元都知事が長男、民政府に居た東俊郎博士が三男 とのことです。
(2010年8月31日、東家の東久仁子様からご指摘を頂きました。太字部分が訂正個所です。東久仁子様有難うございました。 )

掲載:2008年10月22日
加筆:2008年10月27日
加筆:2008年10月29日
加筆:2008年11月03日
修正:2010年09月01日