ボネ王 アンディ・マッパンユッキ

Andi Mappanyukki

脇田 清之 Wakita K.

 太平洋戦争の末期、昭和20年5月のマカッサル大空襲、7月の連合軍ミンダナオ島上陸、戦局の急迫で、セレベス島への米軍の上陸も必至と見られるに及び、海軍セレベス民政部では、非常物資の疎開、一般邦人及び軍属の現地軍への応召等、非常体制が整えられた。たまたま昭和20年5月、民政府令により、インドネシア人を、県、分県監理官及び市長の特別任用の途が開かれたので、逐次これを活用して、行政上の責任ある地位を与えた。

 これと同時に、セレベス民政部の日本人職員は全員、ボネ県ワタンポネへ疎開する準備が進められた。そして敗戦後は、ここが収容所キャンプ地になる筈であった。しかし敗戦後、連合軍司令部から、南セレベス在住の日本人すべては、10月末日までにマリンプンに終結せよ、との命令が下ったため、急遽マリンプンへの物資と人員の輸送が行われ、ワタンポネでのキャンプ生活は、僅かな期間となった。

 セレベス民政部は、なぜ、マカッサルの東、174㎞ の位置にあるボネを疎開地(収容所キャンプ地)に選んだのか。当時の民政部の職員であった粟竹章二氏によると、

  1. 当時のボネ王 アンディ・マッパンユッキ(Andi Mappanyukki)は親日家と知られ、民政部とはかなりの信頼関係が出来上がっていたこと
  2. 国王所有の広大な土地を借りられたこと
  3. 海に近く、食料も豊富で、当分(2,3年)の生活には耐え得る場所であること

などが挙げられる。 マッパンユッキの経歴を調べると、彼の親日の背景には、40年に及ぶ、抗オランダ闘争の歴史があった 。

マッパンユッキの抗オランダ闘争の歴史

 1904年(明治37年)は、オランダ領東インドが成立し、またこの年は、日露戦争勃発の年でもあった。1905年6月、オランダ遠征軍がボネを攻撃、さらに10月にはオランダ主力部隊がゴワを攻撃、1906年にはオランダのファン・ホイツ(van Heutsz)総督がセレベス島内の全域を支配したとされる。これが契機となって、オランダと、これに抵抗する地元民との、長い闘争の歴史が始まる。

1905年ゴワとオランダ間の戦争が勃発したとき、ゴワの王は、イ・マックラウ(I Makkulau)であった。そして、その王子が、のちの第32代ボネ王、アンディ・マッパンユッキである。マッパンユッキには、ゴワ、ボネ、バルの血が流れている。

 マッパンユッキが16歳のとき、スッパ(Suppa)の首長(Datu )に任命され、これと兼務の形で、父親から、ゴワ王国軍の中尉に任命されている。マッパンユッキの部隊はオランダ軍に対しての長いゲリラ戦を展開していく。

 オランダの総督クローセン(Kroesen)はマッパンユッキの部隊を攻撃し、23名のゴア兵士が戦死した。1905年12月25日、マッパンユッキの部隊はこれに反撃し、オランダの指揮官ファン・デ・クロゥル(Van de Kroll)を捕らえ、射殺した。翌日、これに激怒したオランダはゴワの王イ・マックラウを処刑する。

 父親の死後、マッパンユッキのオランダとの戦いは、森の中でのゲリラ戦に転じた。間もなく、オランダ側の使節、ラ・パレンレンギ・カラエン・ティンギマエ(La Parenrengi Karaeng TinggimaE)がやってきて、オランダ側と協議するよう呼びかけたが不調に終わる。その後、オランダはマッパンユッキの一族の撲滅を企てた。そのためマッパンユッキは、オランダとの交渉に入らざるを得なかった。彼はパレパレのオランダ領事と面会したが、この交渉はただの戦術であり、彼は直ちに捕らえられ、何人かの兵士とともに投獄された。しかし住民のマッパンユッキに対する信望は厚く、1909年、スラウェシの総督はマッパンユッキを釈放せざるを得なかった。

 1915年7月28日、ゴワ軍の一人、イ.トロ、マガシン(I Tolo Daeng Magassing)がサボタージュに入り、オランダはジャワから8個中隊を派遣したが、ゴワにおけるナショナリズムの高まりから、ゴワを制圧することができなかった。スラウェシの提督は、ボネに自治権の地位を与え、1926年、マッパンユッキは、ボネ王に任命された。しかしナショナリズムの高まりにより、各地に反乱が起こった。

 その後も、オランダの統治に対する原住民の抵抗は各地に広がっていた。1939年、第2次世界大戦が勃発、その後1940年の日独伊3国同盟が締結されるに至り、オランダは日本軍侵攻に対する防衛力の強化が迫られた。マカッサルにおいても、軍事力の強化が急務となった。読売新聞社会部記者の渋川環樹氏が、軍の依頼によって、戦争突入直前の蘭印を駆け足で踏破、各地で取材をもとに書かれた「蘭印踏破行 カメラとペン ジャバ、スマトラ、ボルネオ、セレベス」(1941年7月発行)には、開戦間際のマカッサルの様子が次のように記されている。

「町のメイン・ストリートには“セレベスを守れ”と書いた横幕が渡され、義勇軍が募られていた。だが36年前まで血みどろな反抗を試みた精悍無双のマカッサ人、いまでもその婦女子に戯れる白人に鋭い蕃刀を突き刺すと言うマカッサ人の応募する者は殆ど無い。土人の戦争に対する無関心がここにもある。 300余名の義勇兵のうち半数は中国人、その残りは蘭人である。」

日本海軍のセレベス島侵攻

 日本海軍のセレベス島侵攻は、地元民の、オランダに対する闘争心を一層高めたようだ。1942年1月、日本海軍の落下傘部隊を使っての電撃的なマナド侵攻、続いてクンダリ侵攻、2月8日のマカッサル侵攻と続いたが、原住民は、日本軍の侵攻に対し、蘭印政府に反抗することにより、日本の侵攻に協力したという。ゴロンタローでは、日本の侵攻の数週間前に、蘭印住民を投獄したという。同様の行動が中部スラウェシのルウク、トリトリ、南スラウェシのボネでも行われた。しかし、原住民による蘭印政府の駆逐によってインドネシアの独立を勝ち取る試みは、このときは日本軍により妨げられた。インドネシア国旗の掲揚も禁止された。

 南スラウェシの内陸では、貴族層が日本と協力して、物資の供給を担った。そして、そのことが、戦時の南スラウェシ社会の経済状況に大きな影響を与えたという。日本占領はたったの3年半であったが、スラウェシ社会に非常に大きな影響を与えた。それは社会・経済・政治の分野のみならず、規律、作業手順、寛容性など、日常生活に密接に関わる部分にも影響を与えたという。おそらく日本が設置し、ブギス貴族社会によって運営された新たな官僚制度にも関係があったであろうとハサヌディン大学のラシド・アスバ教授は言う。

菅藤ナツコさんのマッパンユッキ氏の思い出

 マカッサル師範学校に教官として赴任した菅藤ナツコさんは、戦争末期、生徒とともに、ボネに疎開した。菅藤さんの勤務したマカッサルの師範学校は、男子と女子に別れ、女子部がボネに移り、菅藤さんは、生徒とともに、学校の寄宿舎に入った。丁度プアサの時期だった。近所も全く知らないところだったが、生徒達が、菅藤さんを夜の晩餐に毎日連れて行ってくれた。菅藤さんはボネのラジャ、(当時、日本軍はラジャを「王様」と呼ぶことは不適当とし、「首長」と呼んだ)の王女の結婚式に招かれたことを鮮明に覚えている。その時のラジャが、アンディ・マッパンユッキ氏であった。マッパンユッキ氏は非常に親日家であった。宮殿には明治天皇の御真影が飾ってあった。マッパンユッキ氏の親日観の背景には、彼の40年以上にわたる、抗オランダの戦いがあった。そしてオランダとの戦いでできた腕の傷を菅藤さんに見せてくれた。マッパンユッキ氏は、日本のような、あんな小さな国なのに、大国ロシア、中国との戦争に勝った。だからボネもオランダに打ち勝つことが出来る、と確信していたという。

 この結婚式には、セレベス民政部からは、長官をはじめ、政務部長の大崎大佐、高橋県監理官、小笠原主計課長はじめ多くの高官が招かれ、たいへん盛大な式だったようだ。宴席には、山羊の頭がお皿の上に乗って、脳味噌が料理されて居り、来賓に廻ってきて、一片ずつ食べさせられて閉口したとのこと。

インドネシアの独立へ向かって

マカッサルにおけるスカルノ(中央)と
ジャカルタ海軍武官府の前田精少将(左前)
(1945年4月)
式典に参列するマッパンユッキ(中央)
 (1945年4月)

 日本がインドネシアの独立を確約するのは、戦況が悪化した1944年になってからのことである。1944年9月7日、離反しつつあったインドネシア側の協力を得るため、日本軍はインドネシアの独立を確約、1945年3月、インドネシア独立準備調査本部(Badan Penyelidik Persiapan Usaha Kemerdekaan Indonesia, BPPUPKI)を結成した。1945年4月にはスカルノ(Bung Karno)とスバルジョ(Subarjo)がマカッサル入りし、インドネシア独立キャンペーンを行った。当時のニュース映画 "P.T.Ir.SUKARNO KEMBALI DARI SULAWSI" には、スカルノのマカッサル訪問当時の模様が記録されている。粟竹章二氏によると、マルチャヤ広場での歓迎式典では、兵補の模範演技や師範学校の生徒の行進や演技等行われたという。

 その際、マッパンユッキの王子の一人、アンデイ・パンゲラン・ペタ・ラニ(Andi Pangerang Petta Rani、のちにスラウェシ州知事を務め、現在はマカッサルの道路の名前として残されている。)が、民政部組織である、ボネの分県管理官に任命されている。当時セレベス民政部の下に、マカッサル州、メナド州の2州があり、マカッサル州の下に7つの県があった。そのうちの一つがボネ県、その下にボネ分県、ワジョー分県、ソッペン分県の3分県があった。各分県に、分県監理官事務所が置かれていた。

 1945年7月9日、住民闘争組織 Sudara(Sumber Darah Rakyat) が作られ、マッパンユッキが総裁(Ketua Umum)に、ラトランギ (Ratulangi) が作戦本部長 (Kepala Staf Operasional) に、ラント・ダエン・パセワン (Lanto Daeng Pasewang) が本部議長 (Ketua Pusat) に就任した。

  1945年8月7日、ラトランギはジャカルタの独立準備委員会(PPKI Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia)から招待を受けた。マッパンユッキは既に60歳となっていた。そのため、彼は息子のペタ・ラニを代わりにジャカルタへ派遣した。8月15日、代表団がジャカルタからゴワのリンブン飛行場に帰ってきた。日本が無条件降伏した日である。