南スラウェシの地方社会

 一言葉を手がかりとして一

南スラウェシ日本人会ニュース 2000年度 第1号 復刻版

南スラウェシ日本人会会員の方の中には、縁あって住むことになったこの地方について まだよくご存じでない方もいらっしやるかもしれません。今回はそのような方のために、 ここがどのような社会であるのか主に言葉の面から簡単に説明しようと思います。但し、 インドネシアについての入門書の中で既に紹介されている事柄は極力避けて、書籍では触れられていないが、この地方の人々と交際する上で重要だと思われる事柄を紹介してみよ うと思います。

南スラウェシ州には、大別してブギス族、マカッサル族、マンダル族、そしてトラジャ 族の四つのエスニック・グループが住んでいることは既にご存じでしょう。これらの4グ ループは共通する基層文化と社会構造を有し、かって身分制社会であったという点でも共通していますが、多くの点で異なっていると言えます。最も異なるのは言語で、一般に地方語と称される固有の言語を持っています。これらの地方語は、日本の方言間の言語学的 距離とは比較にならない距離があり、相互理解はほぼ不可能です。さらに、一つの地方語の中にも方言があって、甚だしい場合は同じ地方語でありながら方言が異なるために相互理解が難しい地方もあります。

インドネシアの地方語の中で最も習得の難しい言葉の一つはジャワ語だと言われていま すが、これは同じ事柄を表現する場合でも、話し手と聞き手の相対的上下関係に応じて言 葉を使い分ける一分かり易い例を挙げれば、丁寧語や謙譲語を有する一日本語と似た構造を持っているためで、このような構造を有する地方語はインドネシアでは少数派に属すると言われています。現代の南スラウェシで使われている地方語は身分制社会が機能していた時代のそれと較べると大きく変容していますが、それでもかってはジャワ語と同じ構造を有していたことを伺わせる痕跡をとどめています。

かって、マカッサル語を少し喋ることのできる日本人の方が当地にいて、相手がマカッサル人と分かるとマカッサル語を使っていました。ご本人は相手に親近感を抱いてもらお うとしてのことだったのでしょうが、本人の知らないうちに、礼儀を知らない下品な日本人だとの評判を立てられてしまいました。誤解を招いた原因は、もっぱらベチャ引きから覚えたマカッサル語-ベチャ引きの使っているマカッサル語は下層階級のマカッサル語と考えて間違いありませんーを相手構わず使っていたことにあります。会員のほとんどが住んでいるマカッサル市はマカッサル語圏ですので、インドネシア語のほかにマカッサル語をかじってみようと思い立っている人もいるかもしれませんが、ベチャ引きの若者などから覚えたマカッサル語を社会的地位のあるマカッサル人に対して使うのは避けた方が無難でしょう。

彼らがグループの壁を越えて相互に理解することが可能な言語は国語のインドネシア語だけです。但し、国語教育が村落部にまで普及し始めたのはわずか30年ほど前のことですので、村落部では今でもインドネシア語が通用しないという状況が見られます。  私かマカッサルの地を初めて踏んだのは1971年で、その後2年間しばしばこの地を訪れました。いつも津田さんという釣り好きの日本人の家に居候していたため、日曜日にはこの方のお供をしてサマロナ島周辺によく海釣りに出かけました。船頭はもっぱらマカッサ ル人の船頭で、いつも男の子が一緒に乗り込んで父親の手伝いをしていました。この船頭は、船縁から水中に降ろした櫂の上端に耳をつけ、聞こえてくる音から海底が岩場か砂地 かを判断するという感嘆すべき能力を有していました。こうして舟が岩場のポイントに到着すると、息子に声をかけて錨を海に投げ込ませるわけですが、錨を投げるタイミングが 遅れて舟がポイントからずれてしまうと、「仕事ができないなら、学校にやるぞ」と息子を怒鳴りつけ、その度に幼い男の子がしゅんとなっていたのを記憶しています。

昔話が長くなってしまいましたが、私か驚いたのは、船頭が海底を見極める技法もさる ことながら、我々の常識を覆す学校教育に対する考え方でした。船頭の息子の例は当時と しては決して珍しいものではなく、少なからぬ児童が学校教育とは無縁の生活を過ごして 大人になっていたのです。彼らは社会生活を営む上でインドネシア語を使えないわけでは ありませんでしたが、そのインドネシア語はいわゆるバハサ・パサールーリングア・フラ ンカとしての俗語-でした。今日の卑近な例を挙げれば、恐らく日本人の多くが雇ってい るであろうトラジャ人のお手伝いさんが使うインドネシア語がほぼこれに相当します。ベチャ引きから覚えたマカッサル語については上で触れましたが、お手伝いさんなどから覚えたインドネシア語も決して正しいインドネシア語ではありません。家の中や買い物で使うだけであればあまり問題はありませんが、正式な場では無用の誤解を招きかねませんの で注意が必要です。

それでは学校教育を受けた人々が正しいインドネシア語を使えるかと言えば、必ずしもそうとはかぎりません。国語教師自身が標準語を完全には身につけていないこともあって、 児童が習得する国語は地方語訛のインドネシア語であり、地方語の統辞法に影響された独特のインドネシア語となる場合が少なくありません。この結果、どのような事態が起こる かと言えば、双方とも国語であるインドネシア語で喋っているつもりでも、話し手と聞き手の文化的背景が異なるために、肝心なところで互いに気が付かないまま誤解が発生しているということもしばしば起こります。

私は、或るブギス人とトラジャ人がインドネシア語で喋っている最中に、トラジャ人が 相手を kamu と呼んだのが原因でブギス人が怒って怒鳴り始め、何故怒鳴られるの分からず目を白黒させていたトラジャ人も遂には怒りだし、あわや取っ組み合いの喧嘩寸前にまでなったのを目撃したことがあります。インドネシア語二人称の kamu (君、お前)は対等の親しい関係にある間柄で使われる言葉ですが、自分よりも年下や目下の人間に対して 使われる言葉でもあり、私自身はよほどのことがない限り使いません。上の出来事でブギス人が怒ったのは、kamu をインドネシア語のレベルで捉えて、トラジャ人から軽くあしらわれたと思ったためですが、何故トラジャ人がこの言葉を使ったかと言えば、トラジャ 語では目上に対して kamu と呼びかける習慣かおり、これに無意識に従った、つまり地方語の論理でインドネシア語を使ったがために、このような思わぬ誤解が生じたというわけです。このような言葉の使い方をするケースは、高等教育を受けたトラジャ人ではさすがに少ないとはいえ、初等中等教育レベルのトラジャ人では決して珍しいことではありませ ん(トラジャ人とブギス人やマカッサル人の関係については、言葉の誤解ということだけ ではなく、歴史が尾を引いた側面もありますが、長くなるのでここでは触れません)。そして、これと同類のインドネシア語の誤用はこの地方では日常頻繁に起きています。

私は南スラウェシについて、誤解の連鎖でコミュニケーションが成立している社会であるとの仮説を有しており、何故このような現象が発生するのかについては、この地方の社会が伝統的地縁・血縁コミュニティーから構造的に完全には脱却していないために、その 当然の帰結として社会成員である住民の意識構造も多分に伝統的な範疇から脱却できてい ないためと考えています。難しい議論は別にしても、この地方の人々がインドネシア語で喋ったり書いた文章が論旨不明瞭なケースは少なくありませんが、これは、本人の不勉強 はあるにせよ、社会的には十分に納得のいく現象であり、インドネシア人のくせにインド ネシア語を知らないのかと揶揄するのは、これまで彼らが置かれてきた歴史と環境を考え れば酷な批評と言わざるを得ません。尤も、日本語の現状を考えれば、我々に当地方の人々の言葉遣いをあげつらう権利はないかもしれません。

インドネシアでは、そしてこの地方でも、人々の言葉、特に話し言葉に対する観念は我々とはかなり異なり、人間関係を維持する上で極めて重要な役割を果たしています。日本では、同じ場に居合わせても、赤の他人同士であれば双方とも黙りこくっているのは至極 当たり前のことで、うっかり話しかけたりしたら変に誤解されかねません。また、不言実行という諺からも窺えるように、寡黙はむしろ好ましいものとして評価されますが、こち らでは様相を異にします。少々極端に言えば、寡黙は無能の裏返しであり、不快感を抱いていることの表現だとも言えます。ブギス人の自慢の一つに、「ブギス人の男は鋭いものを 三つ持っている。一つはバティック(短刀)、もう一つは舌(弁舌の鋭さ)、そして最後の ーつはペニスだ」という言葉があるように、この地方では、雄弁は聡明さの証、成功する ための必要条件の一つとなっています。我々はこのような風土の地に住んでいるわけです から、この地方の人々と席を同じくした場合は、できるかぎり相手に話しかける方が良いということになります。

最後に、やはり実際にあった話を紹介して終わりにすることにしましょう。
 一昔前、インドネシアの汚職問題が昨今と同様に新聞紙上を賑わせていた時の出来事。 或る日本人のご婦人が汚職問題を指して、「これは恥ずべき問題である。インドネシアの kemaluan だ」と、インドネシア語の単語を連発しながらインドネシア人を相手に悲憤慷慨したことがあります。これを聞いたインドネシア人は、ご婦人の口から大きな声で連発されるこの単語に顔を赤らめるやら、可笑しくて吹き出しそうになってはいるものの、笑えば真面目に言っているのに何故笑うのかと相手から怒られそうで、必死になって吹き出すのを堪えるやらで大変な目に会いました。 日本人のご婦人にしてみれば、インドネシア 語の入門書に説明されている通りに、形容詞「恥ずかしい」の malu に接頌辞と接尾辞をつけて名詞の「恥」にして喋っているつもりですから何の恥ずかしいこともありません。 結局、これは「恥ずかしい所」、正に「恥部、性器」を指していると私が説明して大笑いになりました。インドネシア語には本来、品詞の区別がないことから起きた笑い話ですが、 本当に言葉とは難しいものです。(TS )