女優 森光子さんのマカッサル

スラウェシ研究会

 2009年7月に国民栄誉賞を受賞した大女優森光子さん(1920.5.9 - 2012.11.10)にとって、戦時中慰問に訪れたマッカサルの「富士ホテル」は一生涯忘れることが出来ない。2009年5月、森光子さんの放浪記2000回を記念した特別番組が企画され、当スラウェシ情報マガジン編集部にも「富士ホテル」の写真の提供依頼があった。しかし、残念ながら写真は見つからなかった。

トキワ通り (昭和17年撮影)
海岸方向を見る。左遠方に大和ホテル

トキワ通り清月堂付近(撮影時期不明)
富士ホテルは大きな三本の木の裏辺りかもしれない

 当時マカッサルのトキワ通り(写真左 現在 Jl. Ahmad Yani )は、富士ホテルのほか、大和ホテル、清月堂、セレベス新聞社などが建ち並び、道路の反対側は第一広場(現在のカレボシ広場)や映画館がある、美しい並木道だった。当時商社マンとしてマカッサルに在住した北海道のNさんによると、富士ホテルは間口は狭いが、奥行きのあるホテルだった。戦時下のマカッサルはスパイが横行し、マカッサル師範学校の記念写真にも軍の検閲が必要な時代であった。一般人が写真を撮ることなど難しかったようだ。

森光子さんのマカッサルとの関わりには日本経済新聞社 私の履歴書 森光子  (2007年12月)にも紹介されている。その一部を引用させて頂く。

(上の写真:女優 森光子ー大正・昭和・平成 八十八年激動の軌跡ー集英社 2009年より)

 「戦局は決して悪くないから危険はない。ご苦労ですが、お国のためにしっかり働いてください」 満州(中国東北部)から帰った私はしばらくして海軍の恤兵部(じゅつぺいぶ)に呼ばれ、部長さんに激励された。歌手では松平晃さん、林伊佐緒さん、松竹少女歌劇団の天草美登里さん、曲芸師の鏡小鉄師匠たちが一緒だった。行き先は南方。昭和十八(1943)年七月、3ヶ月の約束で出発したが、8ヶ月の長旅になった。私たちは一般の国民と同じく戦局を何も知らされないまま神戸を発った。徴用されていた浅間丸は太平洋の女王といわれた日本郵船の豪華客船だった。数千人もの人が詰め込まれた。

慰問団はシンガポールからボルネオ、セレベス、チモール、ジャワ、バリと南洋の島々を巡った。昭和18(1943)年の秋から冬にかけてのことだ。石油基地のあったボルネオ島のバリクパパンから船でセレベス島のマカッサルへ渡り、フジホテルというところに泊まった。ここをベースに近くの海軍航空隊や同じセレベスのケンダリにあった基地まで慰問をしてまわった。

フジホテルの前に穴を掘って木をかぶせただけの防空壕があった。浅くて役にたたないから、空襲のときは左に数十メートル行った刑務所の壕に入りなさいと教えられた。

二十四人の慰問団が二班に分かれ、一班がラジオ(マカッサル放送局MHK 編集部注)の生放送の仕事に行き、残りは自由行動になった日のことだった。林伊佐緒さんたち七、八人と買い物に出かけた。快晴の真昼の帰り道、警戒警報もなく、いきなり空襲警報がプーップーッと鳴った。刑務所へ向かったが、間に合わない。仕方なくフジホデル前の壕に飛び込んだ。シュルシュルシュル、ガーン。皆本土で爆撃を経験していない。すさまじい音にびっくりした。むしろは降る、木ははずれる。わけもわからず押し黙っていた。シュルシュルシュルがまずあってガーンと何かが降ってくることがわかってきた。

二、三十分もたっただろうか。埃まみれで壕を出てみると、刑務所のあたりには何もなかった。屋根や柱の残骸があるだけで、平らになっていた。
もし刑務所の壕に入っていたら・・・・・・。
「刑務所の人たちどうしたのかしら」。そう噂していた、翌日解き放たれた現地の囚人さんが皆帰ってきたという。「江戸時代に牢屋が火事になると、ちゃんと帰ってきた人の罪を減らしたね」なんて言い合って手をたたいて喜んだ。戦地ではちょっとしたことが嬉しいのだった。

慰問団はこのあと二斑に分かれ、私は前線のチモール島へ向かう戦闘機に乗った。

森光子さんがマカッサル滞在中と思われる昭和18年後半から19年始めにかけてのマカッサルの様子を当時のセレベス新聞その他で探ると;

参考資料