身近にあった戦場(1)

永江 勝朗

knagae@topaz.plala.or.jp

  全巻目次

  まえがき
一、あの四年間
二、南洋貿易とは
三、南セレベス
四、身近かにあったこの世の地獄
五、後が続いていたのだろうか?
六、ボンテアナの悲劇
七、平和なセレベス
八、壊滅した南興東部ニューギニア事業所
九、消えた南興マノクワリ事業所
十、地獄のベラウ地峡
十一、アンボン事業所・テルナテの行方
十二、もう一つあった少年の戦場
十三、マカッサルBC級戦争犯罪人裁判
十四、トラック諸島の離島生活
十五、森小辯(弁)とトラック(チューク)島
十六、蘇ったNBK南洋貿易会社
十七、南太平洋諸島独立す
十八、おわりに


まえがき

 私が敗戦を迎えたのは、満二十二歳になった二ケ月後のことでした。一九三一年 (昭和六年)勃発の満州事変以来十五年、私が初めて出会った平和でした。 それから六十年近く経ち、今年満八十歳を迎えました。

  私は、昨年「雪国の少年、熱帯の島に行く・マカッサル滞在回顧録」を文芸誌「小 さな炎」に書きました。 私のすぐ側に数多くの戦場があり、そこで無意に命を失った数え切れない魂のいた ことを知りました。

 それを全く知らずに済んだ、それがどんなに幸せなことだったか。書いている内に 何度も何度も思い知らされました。  国は、昨日まで平和で穏やかに暮らして来た、何の罪も科(とが)も無い人間を、 一転今日は自分の意志の全く働かない戦場に駆り立て、無法を強い、結果はゴミ屑の ように命を棄てさせたのです。自国兵士の降伏を認めない、敵の降伏者を尊敬しない、日清、日露両戦役の勝利に 酔いしれ、近代思想を失った、尊大で旧時代的精神主義にこり固まった日本軍部は、 敵味方双方にどれだけ多くの犠牲を強いたか。無能で無慈悲な軍中央の指示で、どれ だけ多くの兵士、民間人が、耐えがたい苦しみの中で、命を失って行ったか。しかもこの思想は、この国に今なお根深く生き続けていると思われるのです。 身近にあった戦争を書き遺そう。  太平洋戦争を同時代のこととして語ることのできる最後の年代の責務として、これに取り 組もうとしたのです。

一、あの四年間

 太平洋戦争の始まった一九四一年(昭和十六年)十二月、戦時特例学校繰上げ卒 業 措置で、旭川市郊外の永山農業学校を卒業しました。望んでいた南方渡航は、戦 争勃 発で一時絶望的になりました。  その後戦局は展開、五月南洋貿易鰍ノ採用され、五月末上京、マカッサル支店勤 務と決まりました。六月十五日、横浜港から五人の同僚と共に貨物船「千早丸」に乗船、三十九日間の 航海の末、七月二十三日旧蘭領インドネシア・セレベス島マカッサル港に着きまし た。

 それから三年間、南興兜ト穀課員として南セレベス各地を転勤して歩きました。  四五年(昭和二十年)八月一日、現地海軍に召集され、九月初旬除隊しました。後居留民収容所に入り、翌四六年(昭和二十一年)五月六日、パレパレ港から、米 軍リバティ貨物船(引き揚げ船)で、五月二十三日名古屋港に帰りました。

二、南洋貿易鰍ニは

 一九二三年(大正十二年・私の生まれた年)九月、南洋貿易鰍ノ就職した叔父の 導きで入社した会社は、四二年(昭和十七年)七月一日、南洋興発鰍ニ合併消滅しま し た。

 南貿鰍フ創立は、大変古く、一八九〇年(明治二十三年)帆船天裕丸が南洋群島に 向け出帆、南洋での商業活動を始めた時からとされています。  一九八四年(明治二十七年)南洋貿易日置合資会社設立、自社船により交易を始め ました。業務はスペイン領だった南洋群島各地に生活物資を供給、油の原料になった 椰子実を仕入れる交易だったのです。

 一八九九年(明治三十二年)スペインはアメリカとの戦争に敗れ、グアム島、 フィ リピン群島はアメリカ領となりました。  この機に乗じ、ドイツは南洋群島をスペインから買収、ニューギニア島北東蔀から 太平洋諸島に至る広範囲な地域を領有するに至りました。ドイツ領有時代、南洋貿易日置はドイツの治政に協力したのですが、商圏拡大を 恐 れてか、幾多の弾圧が加えられました。その困難の中一九〇八年(明治四十一 年)同業の南洋貿易村山合名会社と合併「南洋貿易梶vが誕生することになりまし た。

 一九一四年(大正三年)第一次世界大戦が起こり、ドイツ領南洋群島は日本海軍に より占領されました。 (この戦争のドイツ人捕虜が収容されたのが、敗戦後日本軍の主力が収容されたセレ ベス島・マリンプンでした。) 大戦終了後南洋群島は「国際連盟・委任統治地」となり、実質日本領土として経営 されることとなったのです。

 南洋貿易鰍ヘ、それにより群島各地に支店、出先を設け活動したのですが、世界大 戦後の経済パニックを受け、川崎銀行の系列下に入りました。四二年(昭和十七年)七月南興との合併により、南洋貿易鰍ヘ解消されましたが、マカッサル事業所は、駐在重役の山崎軍太さんは元北セレベス南貿マナド支店長、前 南貿パラオ支店長を勤めた方、初代所長手島茂さんは前南貿トラック島支店長(私を 事務屋にしてくれた方)所長文野年紀さんは南貿本社、木村二郎さんは南貿トラック 支店から転勤、こんな方達がいて、主要幹部は南貿竃{社で採用された人逹ばかりでしたから、長年南洋群島・離島で培った、自立、自由闊達な南貿精神は、マカッサル 支店に継承されていたよに思います。

三、南セレベス

・太平洋戦争下、蘭領インドネシア占領地域を二つに分け、スマトラ、ジャワは陸 軍、その他の広い海洋、島嶼地区は海軍軍政下に置くことになりました。

・ 海軍軍政区は、西は世界第三位の大島ボルネオ(現カリマンタン)の南部、東は オーストラリア領、蘭領ニューギニアまでと、バリ島からテイモール島までの小ス ンダ列島を含んだ広大な地域でした。

・この真中辺りにセレベス島があります。南西半島は平地に恵まれ、雨量もあり、 島内で唯一最も盛んに農業が行われ、食糧の自給、輸出ができ、人口も密集していま した。中心都市がマカッサル市、当時十万人ほどの街でした。

・海軍は南セレベス地域を南方派遣艦船への食糧供給基地にすることにしました。 米、雑穀、生鮮野菜、果実、魚類など諸々の食料調達を、南洋群島で関係の深かっ た「南洋貿易梶vに託したのです。私が赴任した支店の仕事がこんな内容とは、マ カッサルに来て始めて知りました。 それは南セレベス地区最大の農産物を独占すること、国内知名の大商社も進出して いる中の仕事です。胸を張って働きました。

・南セレベスは東西一〇〇q、南北二五〇qほどの地域です。マカッサル市のある西 海岸は平地が多く、特に市の北側は優良な米生産地で、寿司米さえありました。マ カッサルの北一〇〇qのパレパレ港を集荷地とする一帯は、南セレベス最大の米作地 でした。  半島東海岸は降雨量の少ない処が多く、天水頼りの米作は西海岸に比べ、貧弱な生 産地が多いようでした。

・半島全地域の米の集荷、貯蔵、精米、販売は、戦前百%華系人が握っていまし た。彼らを頂点に半島全土に綿密な集荷流通組織ができていたのです。我が社は、イ ンドネシア住民の絶対的な協力もあったし、その権益の委譲を平和の内に受け、殆ど トラブル無しに集荷再開を始めました。  野菜は半島南部標高千mのマリノ高原の直営農場で始め、順次平地でキャベツなど の契約栽培が始まりました。

四、身近かにあったこの世の地獄

南洋興発鰍フ展開
 太平洋戦争の勃発は、南洋群島で明治以来営々と交易事業を営んで来た南洋貿易 梶Aサイパン・テニアン島で製糖業を起こし、他の島々で各種開発を行って来た南洋興発鰍、否応なく戦争遂行体制に組み込み、更に両社合併に至ったのです。合併によって南洋興発鰍ヘ、版図を従来の南洋群島から、米領グアム島を加え、東 はギルバード、ラバール、ニューギニア島・東部ニューギニア((ウエワク・カイ リュート・蘭領ホーランディア・アイタベ・ムシュ・ボイキン・センタニ・デムタ・ ドヨバル)旧蘭領インドネシア・ニューギニア西部マノクワリ(ナビレ・モミ・サル ミ)アンボン島アンボン(タルナテ)北部セレベス・メナド、南部セレベス・マカッ サル(ボルネオ島ポンテアナク)ティモール島、ジャワ(スンダ列島、ロンボク・ス ンバワ)、フィリピン(カンルパン)中国海南島、旺洋島と広大な版図に事業を展開 するに至ったのです。

 一時栄光に輝いたと見えた南興社でしたが、一九四二年に始まった戦局の逆転は、 私のいたセレベスにほど近い場所に、沢山の生き地獄が生み、無数の兵士が熱帯の密 林で飢 え、傷病に泣き、命を失いました。会社の同僚の多くも同じ惨劇に巻き込まれていたのです。

五、後が続いていたのだろうか?

  社員名簿の疑問(一九四三年四月現在)
 戦後四十年ほどたった昭和六十二年「南興会=旧南洋興発且ミ員親睦会」から「南 洋興発社報号外、昭和十八年四月現在、南興会社社員名簿」が送られてきました。あ の時代に発行されたものの複製でした。
 昭和十八年四月その頃私は、南セレベス・センカン出張所からボネ湾に面した小さ な港ジャランに一人派遣され、駐在していました。

 この時期は、連合軍の本格反撃開始直前で、南洋興発梶E南洋貿易蒲シ社が合併 後、つかの間の無事を映した名簿だったかもしれません。  当時の南興竃員、全事業 所の役員、従業員が網羅したものと思われます。  南洋貿易鞄社を計ってくれた健二叔父は、入社以来トラック島支店に勤務しまし たが、この名簿に名前を載っています。  叔父は翌四四年(昭和十九年)一時帰国の 後、自営を考え会社を退職しました が、戦局の悪化を懸念する周囲の説得で再渡航を 断念、北海道に止まりました。

 「この名簿は、何か役にたつことがあるに違いない」長年大事にしてきました。  昨年「雪国の少年、熱帯の島に行く」をまとめていて「社員名簿」に気に なることを発見しました。 名簿では、マカッサル事業所(支店)に、マカッサル市長だった駐在取締役山崎軍 太さんを筆頭に、三一名の所員がいることになっています。 私は四二年七月、マカッサルに着任後、事務所庶務係に配属され、次いで米穀課に 移り、翌四三年(昭和十八年)正月過ぎセンカン、パレパレ、スングミナサに出向、 再び同年十一月マカッサルに戻り、翌四四年(昭和十九年)四月まで事務所にいまし たから、その頃マカッサルに転勤して来た人、通過した殆どの人に出会っていた筈で す。
 しかし、名簿には記憶のない六人の方が載っていました。
 括弧内がその人逹です。

[参与 瀬川幸麿さん、嘱託 尾藤信正さん]
 所長参事文野年紀さんの上位の方です。

[書記 高森能成さん、堀田武信さん]
 書記はこの外、米穀課課長和田利之さん、室蘭栗林商事鰍ゥら出向の青柳富士彦 さん、総務課長木村次郎さんがいます。青柳さん、木村さんは南洋群島から直接渡航して来たようです。

[書記補 内田千造さん]
 このクラスには、農産軍需課長沢井武保さん、センカン出張所主任安永徳重さ ん、庶務主任松平義明さん、パレパレ出張所主任小池育之助さん、無任金森卓馬さ んがいます。この名簿に記載がないけれど、書記補安田行雄さんは、この時期パラオから直行 便で赴任、すでにセンカンの南西五十qのワタンソッペンに駐在していました。見習六人は全部知った人ばかり。 岡山寛さん、岩田武雄さん、板橋栄一さんはマカッサル事務所勤務、小林仲治さ ん はマリノ農場、一緒の船だった山本成夫さんもマリノ農場、山崎茂さんは佃煮製 造を 担当していました。

[傭 青木幹司さん、津上善市さん]
 お二人以外は皆知った顔です。 パレパレ出張所吉川大一さん、通訳・森=今吉秀雄さん、笹生靜さん・マリノ農 場、一緒に来た五木田耕一さんはパレパレ勤務、石井五郎さんは野菜栽培指導、マリ ノ農場伊藤昇さん、それと私。 私はこの名簿の下から三番目、二番目は二歳年下の伊藤昇さんでした。
 マカッサル事業所の社員は、開戦の後マカッサル占領を待って、南洋群島から直接 渡航した先発組が支店を開設しました。七月上旬、客船「鎌倉丸」で横浜港から直行した本隊約十四、五名がそれに加わり ました。鎌倉丸よりはるかに早く出たのに、七月二十三日やっと辿り着いた、千葉県 出身農業技術者五名と私、千早丸組もいました。
 私達が着任し、翌年四月までの九ケ月、マカッサル事業所の仕事は増える一方、支 店は要員派遣を要請したと思われます。しかし、私達の来た後、南洋群島から直行し た三人以外、一人も増えていないのです。

 六人の方の行方を尋ねてみました。
 戦後発行された「南興会会員名簿」「南興マカッサル会員名簿」「敗戦直前の事業 所員名簿」に当りました。しかし、一人もお名前が出て来ません。  船の都合で別の出 先に着いて無事だったら「南興会」の名簿に、一人位名前が 載っていてもいいはずですが、その形跡もないのです。考えられるのは唯一つ、四三年四月一日付で、マカッサル支店へ赴任辞令を受け たが、現地に到着できなかった方々・・・ではなかったか。

 当時赴任辞令が出たらすぐ名簿に載せる例があったようです。東部ニューギニア事 業所所長小林子平さんも名簿に載っていますが、実際に任したのは、四三年(昭和十 八年)十一月五日でした。  ソッペンの安田さんは、パラオ支店に名前が残っているのに、本人はセレベスにい ると言う記載遅れの例もあったようです。  戦争後半期に入って南洋興発鰍ヘ、サイパン、テニアン、パラオ、トラックを始め ほとんどの出先は戦場となり、資産は総て壊滅、従業員と家族の多くが犠牲になりま した。

 敗戦後南興鰍ヘ、戦争協力機関として閉鎖命令を受け、後継会社の設立も許され ず、消滅してしまいました。
 その為、戦争中の出先、航海の犠牲者など人事等の詳細な記録は、遺されていませ ん。今は生存者の遺した記録だけが、あの時代を伝える唯一の術と言う不幸な会社な のです。

客船「鎌倉丸」
 四二年(昭和十七年)七月、私達六人は三十九日航海の末、マカッサルに到着しま した。  その一週間前、戦前太平洋航路に就航していた日本を代表した客船「鎌倉丸」(一 万八千屯)が、海軍民政要員と共に、南興且x店員約十五名を横浜港から一挙にマ カッサルに送り込み、現地の業務体制を作り上げたことがありました。  鎌倉丸組はこ とある毎に、船の豪華さを我ことのように話します。  貨物船の蚕棚(かいこだな)で三十九日の航海に耐えた私には、羨ましいを通り 超し、腹が立ったものです。

 「鎌倉丸」は、その後何度か南方航海の後、翌四三年(昭 和十八年)四月、三千人 (内女性三百人)の海軍軍政区要員を乗せ、神戸を出帆、マ ニラ港に一泊、四月二 十七日午後九時、マニラ港を出帆、ボルネオ島バリックパパン に向かった処、夜半 パナイ島沖で、潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没しました。  海に飛込んで漂流、五日後に救助された者は、四五一名(内女性二名)救助された 者は、ミンダナオ島ザンボアンガ港に一時収容され、そこで更に八名が病院に収容後 亡くなり、重傷者はマニラに送られました。

 鎌倉丸沈没の秘密保持のため、一切本土帰還が許されず、軽傷者を含む全員巡洋 艦「大井」などで当初目的地に送られました。 前記マカッサル支店疑問の六人には、役職の高い人が多い。渡航に高速で安全と 思 われた「鎌倉丸」に乗り、遭難したと思われるのですが、今は確かめる方法はあ りま せん。

泳いで帰るなら・・
 四三年(昭和十八年)六月、私は満二十歳になりました。  本土にいたら「徴兵検査=兵隊になる身体(適性)検査」を受ける年齢です。  一緒の船 で来た石井五郎さんと相談しました。
「どうする?どうしても内地に帰らねばならな いか・・」
 来る船も、戻る船の多くが撃沈されていると田舎にいる私達の耳にも届いていまし た。  元々兵隊になりたくない二人・・でもおおっぴらに表には出せない。  恐る恐る和田米穀課長に「徴兵検査なので、国へ帰らねばならないのでしょうか・ ・・」
課長は私達の本心を見透かしたように 「泳いで帰るのならいいよ・・」ニヤリ話はそれで終わりです。
「あぁヤレヤレ」内心ホッとしました。
 和田さんは当時の船舶事情(鎌倉丸沈没など)を承知していたのでしょう。

六、ボンテアナの悲劇

 マカッサル事業所社員名簿(前掲)末尾にこんな一行がありました。

『ポンティアナ出張所長 書記 縄田久一』
 マカッサル事業所の唯一の出先です。書記は事業所でもトップに近い高い職階で す。しかし私達は、支店の出先がボルネオにあるなど噂にも聞かなかったし、ポ ンテアナは地名程度しか知りませんでした。  ボルネオ島の要衝は、私達が渡航途中に寄港した石油生産地バリックパパン、島南 部のバンジェルマシン、西部のポンティアナです。ここはシンガポールにも近く、海 軍の軍政下の最西端の土地でした。  南ボルネオは未開地が多く、街同士は海路か空路でしか交通手段がありません。  南興マカッサル・ポンティアナ出張所、あの時代マカッサルと連絡、監督の及ぶよ うな処ではありません。  そこで南興はどんな仕事をしたか、たった一人赴任した縄田さんとはどんな方か、 長い間疑問に思っていました。

『孤島の土となるとも=BC級戦犯裁判記録』
 九九年六月、インドネシア・マナドツアーでお世話になったメール友達の川口さ んが、私がマナドに興味を持っていると知り、この本を借してくれました。  この本は川 口さんがナド駐在中「マナド日本人会報」編集を担当、マナド「戦犯 裁判」の特集をするために集めた資料で八三〇頁の大冊です。

 「BC級戦争犯罪者裁判」とは、太平 洋戦争中日本関係者の行った、連合軍捕虜の 処遇、現地人敵対分子の扱い、その他の行為を連合軍の名に於いて裁いたものです。  インドネシアがまだ独立以前で、オランダ関係者が次の処で、裁判を行いました。  ジャワ・バタビア、スマトラ・メダン、ボルネオ(ポンティアナ・バンジェルマシ ン・バリックパパン)セレベス(マカッサル・マナド)ティモール(クーパン)アン ボン、モロタイ、ニューギニア(ホーランディア)

 この本の「オランダ裁判」の項を読んでいて「ポンテアナ事件の軍人処刑記事」 に 『ほかに南洋興発株式会社の社員を被告とする事件も判決、結果は死刑』  の一行が目に飛び込んで来ました。 驚き、うろたえました。 「民間人の南興社員がどうして・・」そのまま読み捨ては到底出来ませんでした。  インドネシア事情に詳しい庵さんに教えを請いましたら、早速ボルネオ研究者の 望 月さんをご紹介下さいました。  望月さんと何度かメールの後、被告になった方のお名前、執行日、出身地を調べて 頂きました。

 「吉雄(尾)順さん」(東京都世田谷区出身、年齢不明)一九四七年(昭和二十二 年)四月十二日法務死=死刑執行。  判決理由は、その後入手した「戦争裁判記録」に次のように書かれていました。 『ポンテイアナック抗日陰謀蜂起事件(第一次)当時、南洋興発且ミ員として、ケ タ ペン(地名)に勤務中、該地派遣隊特警隊に通訳として協力し逮捕、処刑に関係 せり』

 吉尾順さんの刑務所での模様を「山田武夫さん・四十八歳・岡山県」は次のように 証言しています。
  『東京都出身、会社員吉尾順は、ポンテアナック刑務所に於いて、昭和二十一年十 月 頃「ランタオ」外二名の警戒兵により、全裸とされ、監視哨舎の柱に両手を縛り 付けられ、鞭で尻部を殴られ、遂に約五日間身体の自由を失っていた。』

 ポンティアナは、オランダの領有以前から、華系人が住み着き開拓した地方で、太 平洋戦争の前、日中戦争時代から華系人の反日(抗日)感情が大変強かったようで す。  海軍駐屯隊との間に、何度となく抗争事件が起き、現地住民に沢山の犠牲者が出て いると、うわさで聞いたことがありました。しかし、南興の出先があったのも知らな い位なので、南興社員が戦犯になり、死刑にされたなど、夢にも思っていませんでし た。  南セレベスの私達の仕事は、軍関係・マカッサル市民に供給する米を、生産地に 入って集荷することでした。  ポンティアナ出張所も、同じ仕事だったとしたら、吉雄さんはそのためケタぺンと 言う辺地に駐在、特警隊(陸軍の憲兵)に頼まれ、反抗分子尋問の通訳を手伝ったの ではないでしょうか。

 記録によると海軍のポンテアナ警備隊員は中尉を長とし二百名、内特別警察隊員は 少尉 を長とした十名だったと言います、恐らく全員が警察経験など無い「しろう と」集団だったでしょう。  吉雄さんはきっとそんな手不足に引きずり込まれたのです。 吉雄さんの駐在していた「ケタペン分県監理官佐藤正雄さん」も 『ケタペン分県監理官在職中右事件に際し、該地派遣隊に協力』として起訴され、 二年の有期刑になっています。

 私のいた田舎で、軍に頼まれたことは一度も無かったけれど、万一頼まれたとし たら、拒否はできなかったでしょう。そんな機会が無かっただけです。他人ごとでは ないと思いました。驚きと困惑、同情だけです。
 一人異国に残され、命を絶たれた吉雄さんの心情、思うと辛くなります。  ひたすら心から吉雄さんのご冥福を祈り、戦争のもたらした大きな罪をただ噛み締 めるだけです。

「ポンテアナ事件とは」
  ポンテアナ地方は四二年(昭和十七年)一月二十三日陸軍が占領、軍政を戦前ボ ル ネオで商業を営んでいた退役陸軍少佐に託しました。この頃は「星(陸軍のシン ボルマーク)の時代」と、住民は協力的でした。  四二年(昭和十七年)七月、旧蘭領ボルネオは海軍の管轄となり、海軍警備隊が置 かれ、民政部が設けられました。

 太平洋戦争半ば、四三年(昭和十八年)六月南ボルネオ・バンジェルマシンで、ハ ガ(旧オランダ総督)による抗日事件が摘発されました。  同年十月、北ボルネオ(旧英領)アピ(現マレーシア・サバ州コタ・キナバル)で 日本人が虐殺されました。

『ポンテアナック第一次事件」
 四三年(昭和十八年)十二月八日、ポンテアナック市に於いて大詔奉戴日の祝賀会 を催す。州知事、警備隊長などの日本人要人約二十名を招待、飲料物に毒物を入れ全 員を殺戮すると共に、予め編成してあった決起部隊を蜂起させ、一挙に日本軍を一 掃、新たに西ボルネオ共和国を樹立する計画。

ポンテアナック第二次事件
 四四年(昭和十九年)十月十日、双十節(中国の祝祭日)を期し、芳拍政権を誕 生、旧蘭領西ボルネオ州を独立するため、海軍民政部高級官吏と華僑有力者が首謀 者となり、日本軍、民政部転覆を図る計画。』

 日本側が抱いたこんな「嫌疑」に基づき、第一次検挙(約百名)が行われ、次いで 翌四四年(昭和十九年)一月第二次検挙(約百二十名)二月第三次検挙(約百名)が あり、六月四十六名に対し軍法会議で死刑を宣告、即日銃殺されました。

 同年九月、第二次ポンテアナック事件(前記)の嫌疑が生まれ、華僑有力者約百三 十名が検挙されました。
 これら検挙者の多くはポンテアナック市の北、車で一時間三十分も離れたマンドー ルで処分(殺され)されました。
 七七年ここに建てられた慰霊碑の銘板によると、処刑になった住民は、二万一千三 十七名とされています。この数に誇張があるとしても、一連の事件で三千名近い人 が「戦時反逆罪」で逮捕、処刑されました。  数が余りにも多く、一カ所に収容する場所もないので、その場その場で処刑したこ ともあり、拷問は水攻め、電気攻め、様々な方法が取られたようです。  銃殺すると音が聞こえると、斬首または胴体切りその他日本刀による処刑が普通に 行われました。 これは海軍軍政の「粛清」と言うより、オランダ・現地民との「戦 争」であり 「虐殺」でもありました。こんな辺鄙なマンドールで、処分が行われたのは、ここがオランダがインドネシア領有以前、華僑・羅芳伯(客家人)を中心に共和国「蘭芳公司」を設立した地と言わ れ、日本海軍為政者は、住民の「西ボルネオ共和国」設立の動きを阻止するため、み せしめに処刑地としたと考えられています。  こうした強圧策で、日本の「永久支配」体制が出来上がった頃、皮肉にも戦況は 悪 化の一途を辿り、日本は敗者となり「支配地」は一転「報復される地」となりま した。 戦後この事件に関し、海軍関係将官以下兵士、軍属、民間人を含めて、一一七名 が逮捕、四十七名が起訴され、内二十一名が死刑となりました。

[海軍軍政は永久支配をねらっていた]
官房機密第三一六七号
海軍占領地軍政処理要綱
 海軍の主担任区域は、我が方の永久確保を目途とし、かつ全地域に亘り、帝国を 中心とする有機的結合に遺憾なからしむ如く統治し、その他全般の施策を実行するも のとする」 ポンテアナは一九四二年(昭和十七年)一月二十三日陸軍が占領したが、同年七 月 旧蘭領ボルネオは海軍の管轄となりました。ポンテアナ事件は、この決定に反し たと して摘発されました。 ジャワのように「近い将来独立を認めよう」と言う方針だったら、こんな惨劇が 起こらなかったでしょう。  マカッサルでも占領当初は「インドネシア独立歌、インドネシア・ラヤ」を歌われ ていました。私が行った七、八月頃、日本人に改めて通達されなかったけれど、この 歌が禁止歌になっているのを知って、奇妙な違和感を感じた思い出があります。
海軍文書「永久占領方針決定」は、今回「孤島の土となるとも」で初めて読みま し た。

七、平和なセレベス

 南興マカッサル事業所は、四三年(昭和十八年)四月当時は、前記六人を除く日 本人二十四人と華系人、インドネシア人で、南セレベス全域から何万トンもの米を集 め、野菜を栽培、マカッサルに送りました。それを前線へ送り、市民に配ったので す。 不思議な位円滑に仕事が行われました。 南セレベスでは、首長から農漁民まで住民皆が友好協力的で、治安が大変平穏、 そ して生産力も高かったから達成できたのでしょう。  私が田舎で一人暮らしをして、治安の心配をしたことは一度もありませんでした。 思えばこれは日イ双方にとって大変幸せなことだったのです。  四三年(昭和十八年)十一月、私がスングミナサの伊藤分県監理官にいびられ、マ カッサル事業所に戻り、代わって赴任した加来安一さんは、その頃マカッサルに無事 到着した何人かのお一人だったようです。

松谷、塔島さんの渡航
 南興マカッサルは、四三年四月当時、重役以下二十三人で運営されていました。 しかし、敗戦時には約百十人になっていました。
 東ニューギニア、マノクワリ、アンボン、ハルマヘラ、マナドから撤退してきた方 も大勢います。 あの危険な海をどうやって渡航したか、四四年二月パラオから渡航 した松谷さん、同年四月に到着した塔島さんの記録で当時の状況を見ることにしま す。

[松谷芳夫さん]
 四三年年末、在パラオ、南洋庁付属熱帯産業研究所研修課程を終了
 四四年一月二十六日南洋興発鰍ヨ入社
 一月二十七日当月分給与八十円を受く。
 一月二十八日マカッサル勤務となる。
 二月三日機帆船「第三秋田丸」(二百八十トン)に、同期大橋敏彦氏と乗船、パラ オ港を出帆する。 (同船の乗員は、船長以下日本人五名、インドネシア船員七名。)  渡航経路・マナド(北セレベス)ドンガラ(中セレベス)バリックパパン(ボルネ オ)に寄港しマカッサルに上陸した。
 松谷さんはマリノ農場勤務となる。
 同行大橋敏彦さんは終戦時ケンダリーに勤務。

[塔島栄三さん]金沢出身
 一九二四年(大正十三年)四月一日生れ
 四三年(昭和十八年)九月
 高岡高商 戦時特例繰上げ卒業
 十月 南洋興発鰍ノ入社、東京事務所経理課 入社、ジャワ事業所勤務発令。
 十一月 白紙徴用令状を受ける。会社は直ちにマカッサル事業所勤務に辞令を差し 替 え、渡航待ち要員とし、徴用を免れる。
 十二月 渡航準備のため、帰郷。四四年(昭和十九年)
 一月、東京より電報「バンナンヲハイシ サセボニ オモムケ」
 浅間丸に乗船指令。一月末、浅間丸を中心に堂々の護送船団を組み、シンガポー ル(当時昭南)に着く。  一行は蓮見三良さんを団長に、平尾健二、石川直之さん等事務系と木村茂さん他 千 葉県出身の若い農業要員二名、お酒作りの技術者、その他はアンボン、ハルマヘ ラ要 員等、全部で十数人の団体でした。  シンガポールでは、当初チャンギー元刑務所ニ泊まり、後ラッフルズホテル(昭 南 旅館)に移る。  十日程で、貨物船聖川・きよかわ丸(大砲の装備があった)に便乗、ジャワ島ス ラ バヤ港に至る。ここで船待ち一月余り。
 四月初旬、小さな貨物船大丸で、無事マカッサルに到着しました。 (この時事務所 で私に会ったとのこと、私がマロスに赴任する直前の頃でしょう)  直ちに乗り合いバスでボンタイン(松沢和さん駐在)経由、ワタンポネ分店に赴 任 しました。分店長は水落功さん、小西留雄さんがいました。

『浅間丸』
 二八年(昭和三年)に竣工した日本を代表した豪華客船、姉妹船に竜田 丸、鎌倉 丸があり、いずれも太平洋航路に就航しました。  浅間丸は四四年(昭和十九年)十一月一日、日本への返り便、台湾沖パラー海峡で 撃沈されました。 竜田丸は四三年(昭和十八年)二月八日、南洋群島トラック島へ要員一二八三名を
乗せて向かう途中、御蔵島東方嵐の海で撃沈され、生存者は一人もいなかったと言い ます。

『参考図書』
 「南興会報号外・南洋興発且ミ員名簿
   四三年(昭和十八年)四月一日付け
 「孤島の土となるとも=BC級戦争犯罪裁判」
   岩川隆著・講談社版・一九九五年発行
 「戦争犯罪裁判の実相」巣鴨法務委員会編
 「補完・戦争犯罪裁判の実相」
   茶園義男・重松一義著
   不二出版社
 「赤道標」 ブアヤ会

(掲載日:2003年9月24日)