セレウェス滞在記(1)

 

永江 勝朗


 
全巻目次
 
第1話 セレウェスは私の青春
 
第2話 南洋貿易会社と言う名前をご存じですか
 
第3話 少年は南の国に行きたかった
 
第4話 いただいた命
 
第5話 いざマカッサルヘ!! 上陸のない39日の航海
 
第6話 夢の街マカッサル
軍政下のマカッサル、文化ショック
 
第7話 マカッサル界隈にて
カンピリ婦女子収容所
 
第8話 ジャラン拾い書き
センカン、パレパレ、ピンラン、スリリ
 
第9話 センカンからスングミナサへ
ワタンソッペン、セレベス新聞、カンピリ余話
 
第10話 マロスの歌
 
第11話 続マロスの歌
 
第12話 居留民・スリリ収容所
マリンプンからスリリへ、スリリ温泉、地獄のマリンプン収容所

第1話 セレウェスは私の青春

 私は1942年から1946年、19歳から23歳まで、南セレベスに会社員として働いていました。特に1年半は飛行場に近いマロスに駐在していました。セレベスは私の青春であり、学び舎でした。

 1942年から47年まで南セレベス、中でもマロスには一年半位住んで居ましたから馴染みは深いのです。でもマロスには、2度ゆきましたが、市街の変わり様が大きすぎて、懐かしさがこみ上げてこないのです。50余年と言うのは変わって当たり前なのでしょうが、そんなことから、前から行って見たかったマナドの落ち着いた風光に触れて、すっかり病みつきになった次第です。マカッサルについて何かと言うお申し出ですので、その内にぼつぼつ思い出したことを書いてみます。本当は私の青春なんですから・・・。19歳になったばかりから24歳までです。一番いとおしい時間でした。

 南セレウエシの海軍の占領は42年4月で、私の行ったのは7月23日でしたから、直後と言って良いでしょう。横浜は6月15日に立ちました。途中横須賀,大阪、神戸、関門海峡、玄界灘、那覇、キイルン、香港、マニラ、ダバオ、タラカン、バリックパパンと辿って、マカッサルにはいったのです。約40日、時間はかかってこのままでは永久に船を下りられないのではないかと思ったほどでしたが、無事岡に上がることができました。その上に北海道の、そのまた田舎から行った子供には夢のような洋風の生活が待っていたのです。舞い上がるほど嬉しかったですね。

 私のセレウェスはそんな処から始まったのです。

第2話 南洋貿易会社と言う名前をご存じですか

 南洋貿易会社と言う名前をご存じですか。この会社は昔内南洋と言ったサイパン、パラオ、トラックなど太平洋諸島で椰子の実などを買って、日用雑貨を売るそんな仕事から、発展し、マナドに出たのは大正の初期だったようです。

 マカッサルは当時から東の地域の物産の集散地でしたから、戦前支店を開設して、交易に参加していたようです。会社は小さいけれど特異な存在だったようです。この会社に昭和17年1942年5月、19歳寸前に見習いで入社しました。叔父がこの会社の古株、そのコネでした。

 1942年と言うとご存じでしょう。41年12月8日に日本はアメリカ、イギリス他連合軍に戦争を仕掛けたのです。その翌年春南セレベスが日本海軍陸戦隊によって占領され、その後にこの会社は南セレベスの米を集める任務を与えられました。私はその要員の一人として、派遣され、敗戦を迎え、収容所生活を経て46年5月パレパレ港から名古屋港に引き揚げたのです。ですから、約満4年居たことになります。住んだのはマカッサル、センカン、ジャラン、パレパレ、ピンラン、ソッペン、スングミナサ、マロス。スリリ(収容所)と言った順番です。わりと歩いた方ですね。


 

第3話 少年は南の国に行きたかった

 私の育ったのは、北海道の首都札幌から南へ100キロ、高原の「倶知安」人口1万7千人の街です。道内指折りの多雪地、雪は11月から4月まであります。こんな処から少年が南の国を志したのには、いくつかわけがありました。

 一つは、叔父が大正末期から戦前日本の委任統治地だった 南洋群島トラック諸島の南洋貿易会社に勤めていました。2,3年毎に帰国、その度に椰子の実細工、絵はがき、アルバムなど南洋の風物をもたらしました。これが憧れの原点になったのです。1925年当時、小学生の人気雑誌「少年倶楽部」に」連載漫画「冒険ダン吉」は、日本の少年が、海で遭難、漂流、南の国に漂着、そこで王様になるお話です。これもずいぶん少年の夢をかき立てたものです。

 私の育った頃の北海道は、開拓が始まって4,50年です。第一次欧州大戦が終わり、不況、不作などで痛手を受けた開拓者は、樺太、南米へ、更なる「青い鳥」を求めて、再移住する人も多く、住民は定住以前の時代でした。祖父は島根県の農家の次男坊で、東京で測量技術を修め、1890年代に単身北海道に渡りました。祖父にも南米移住の思いもあったらしく、長男の父を農業技術者にし、叔父を東京・世田谷にあった「日本植民学校」で、スペイン語を学ばせました。結局叔父は南洋に就職しました。1935年頃から、日本人の満州(中国・東北)への 移住は盛んになりましたが、北海道の移住熱はあまり高く無かったようです。

 もう一つの私の南志向のもとは雪でした。小学校2年から住んだ家は、街から離れた1軒屋で、冬辺りは2メートルの雪に覆われました。そこに住んだ時から除雪は私の仕事になっていました。スキーで遊んだ楽しい記憶もありますが、やはり「雪のない処に行きたい」願いは心に染み込んでいました。

 日本の現代を「戦前、戦後」に分けて言いますが、戦前の日本は「1931年満州事変から1945年の敗戦までの15年」を休み無く戦争に明け暮れていました。1930年に私は小学校に入りました。学校を出たのは1941年12月でしたから、正に戦争のさなかで大きくなったのです。私は背も高く健康でしたから、日本にいたら兵隊間違いなしでした。殆どの人はそれをあきらめの境地で待ったのです。

 往生ぎわの悪い私は、南洋では「兵隊延期が認められる」特例があると聞いていたこともあって、叔父に頼んで南洋貿易会社の就職の内定を貰っていたのです。(この特例が実際にあったかどうか確かめていません)そんな矢先に太平洋戦争・・・就職内定もご破算・・暗然とした思いで、帰郷、仕方なく農業組合の臨時雇で日を過ごしていました。それから4ケ月、戦争は調子良く展開、5月南洋貿易会社から待望の「採用通知」ようやく、南の国への道が開けたのです。19歳になる直前でした。


第4話 いただいた命

 戦争とはむごいものです。平和な今では想像つかない無造作に人命を失われました。兵士は「召集令状」一枚の命令書で、それまでの仕事も、家庭生活もそのまま放棄して、命ぜられた処に赴かねばなりませんでした。こうして15年戦争で失われた兵士の命は220万人に上ったと言われています。この中で最も惨めだったのは、南の戦場へ渡航する途中、船が撃沈されて、むざむざ命を失った兵士、スラウェシ島に近いハルマヘラ・パプア・ニューギニアなど緑の島々で、生きる方法を知らず、飢餓のため命を失った兵士、戦争末期のフィリピンの戦争にも同様の悲惨な死がありました。

 そんな事情を知ったのは、主に敗戦後のことですが、私にもマカッサルに渡航の前後に、2、3度「命拾い・命を頂いた」ことがあります。1度目は、日本で船を待つ間に起きました。1942年5月30日北海道を発って上京、渋谷の先輩の下宿に転がり込んで、会社から「船待ち」を命ぜられました。

 1、2日たって、実家から電報が来ました。「オトウトシロウ、キュウビョウスグカエレ・ハハ」電話事情の悪い時代、とても詳しいことを尋ねようがありません。あたふたと夜汽車18時間をかけて帰宅しました。 2ケ月前、小学校入学式に私が手をつないで行った弟が「腸チフス」隔離病舎に入院、母が付き添っていました。病状はどうも私を呼び返さなければならないほどな重症には見えませんでした。元々母は私が外地に行くことに、最後まで同意しませんでした。それでどうしてももう1度呼び帰したかったのではないでしょうか。

 6月8日会社から電報「トコウシタクニテスグライシャアレ・ナンボウ」。その夜、父と次弟の見送る夜汽車に乗り込みました。雲が低く垂れ込め、遠雷は鳴り気分の良くない旅発ちでした。 東京に戻ったら数日前「船は出て行った」行先はアンボン、ニュ−ギニア、ラバウル方面とのこと、私の任地がどこだったかは知らないが、この内のどこであっても、後に悲劇的生死をさまよう状況に巻き込まれていたことは間違いがありません。母親の「虫の知らせ」が、私の命を救ってくれたように思うのです。

 2度目はマカッサルに向かった船で起きました。船名は千早丸、1万トン級、上海にいた中国籍の貨客船で、開戦直後海軍が接収し、南方各地の海軍関係基地に配置される民間要員を送るもので、最終目的地はシンガポ−ルとのこと、千人余りの人が乗っていました。私達の一行は6人、私以外は千葉各地からの農業技術者でした。

 6月15日横浜港出帆、翌7月23日にマカッサル港の岸壁に到着しました。渡航39日目のことです。私達は晴れ晴れと船を降りましたが、船にはまだ千人ほどの船客は残っていたようです。何日後かにジャワ島スラバヤに向かったのですが、その沖合で潜水艦の攻撃を受け、沈没、3分の1の人は救われなかったとのです。ずいぶん後になって、うわさのように聞きました。そう言えば私達がマカッサルに着く直前、対岸のバリックパパン(ボルネオ)からは、小さな駆潜艇が護衛、3日ほどの航海をしましたが、その恐れは何日もたたない内に、現実になっていたのです。

 

第5話 いざマカッサルヘ!! 上陸のない39日の航海

出発

 1942年6月10日私は満19歳になりました。東京に戻って数日後辞令交付「見習社員」行先は、蘭印・セレベス・マカッサル支店・・でもそれがどこにあって、どんな処か全く見当も付きませんでした。(蘭印=オランダ領インドネシア)

 6月14日夜「明日乗船、すぐ出社せよ」電話連絡を受け、慌ただしく日本橋の本社にトランク1つと東京で買ったヘルメットを持って集合、1夜を明かし15日朝、横浜・桜木町から、横浜港岸壁に行き、着いていた船に乗り込みました。船は貨客船千早丸、以前は中国の海岸で人や貨物を運んだものらしく、処々に中国 語の表示がありました。

◇ねぐら 船室などはありません。何層にも分かれた船倉・蚕棚(かいこだな)、私達は船首近くの右がわ、甲板から2段目の1偶にござを敷き、毛布を敷いてそこが人の居住空間、窓はありました。もちろん雑魚寝(ざこね)です。

◇同行者 私の外5人、皆千葉県各地から集まった農業技術者、皆日本刀を持っていました。年長者は42,3歳、中国大陸の兵隊経験あり、中国語を話し、成田で「やし」だったとのこと、時々私達に「はっぱ」をかけます。親分と奉つりました。以下26,7歳の髭づらの人、私と同年が2人、年下が1人でした。

◇関東弁 戦争の影響で、北海道は本州への修学旅行が中止になっていたから、私は東京に来たのは初めてでした。「東京弁」は大学に進んだ先輩が話すのを時々聞かされましたが、調子が軽く照れくさく、馴染めないでいました。同行する人逹は東京の隣りの千葉だと云うのに、ひどく言葉が違うのが驚きでした。「おめぇ・・何だぁ・・そうだっぺ・・」と言う調子です。始めは1人浮いていましたが、そのうちそれなりに仲間に入れて貰えました。

◇中国人 船員で乗っていて、乗客のいるあたりを掃除していました。大人しい顔の多い中に、凄い面がまえの者もいました。船を接収し、その乗組員をそのまま連れて来たのでしょうか。

◇食事 1日朝昼夕3度出ました。御飯は麦飯、1什1菜でした。どんな1菜が出たか全然覚えていません。塩豚の味噌汁が頻繁に出たのは記憶しています。

航海が始まる

 乗船の翌朝、船が動き横須賀港に行き給油、その後また横浜港へ戻って夜を待って、出帆しました。もう港で見送る人はおりません。海峡を越え外洋に出たら、船の作る波が夜光虫にキラキラ輝きました。初めての海の感動でした。

◇神戸港 沖泊り、六甲山地に雲が黒く被っていました。荷物や人を載せました。

◇関門海峡 夕方差しかかりました。門司側は手を伸ばすと届く程の海岸に、民家が建ち並んでいました。その家々の広い窓から、沢山の人逹が旗を振って見送ってくれました。私達も応えて手を振りました。

◇玄海灘 真っ暗闇の海、雨もまじりシケのようでした。 ここ迄来て全乗客は徹夜交代で、船のあちこちに立ち「潜水艦の監視」をすることになりましたが、夜の海はいくら目を凝らしても本当は何も見えないのです。波しぶき、雨、うねり、船首では「シーソー」の様に十メートルも上下します。一行の大半は船酔いでやられました。私は幸い全くこたえません。自分が「船に強 い」と知った貴重な体験でした。この頃の私達に「敵・潜水艦」への怖さは全く持っていませんでした。ですから、監視も面白くない辛い仕事、仕方無しにやらされている子供逹のような心境でした。 もちろん、この夜は何事もありませんでした。

◇那覇港 港近くの沖泊まりです。曇っていましたが、目の前の海岸の崖の上に、赤く塗られた小さな社「波の上宮」が建ち、とても美しく印象的でした。

◇基隆 6月25日、乗船から11日目、台北の外港、基隆岸壁に着きました。山の近い所らしく、港の全容が見えません。 本土以外の煙草を始めて味わいました。この日出した手紙は、7月1日に北海道に着いたようですが、1頁半検閲で削除されていました。それまでの航海を詳しく書いた処でしょう。(検閲=手紙を調べ、気にいらない処はハサミで切り取る)

◇香港 沖泊まり。英国が東洋百年経営の拠点港です。大きな岩山の島々、海岸には山の頂きに届くほど、東京でも見なかった高いビルが立ち並んで見え、山の中腹にも白塗りのホテル、別荘らしい建物がありました。その間に黒い銃眼を備えた砲台がこちらを向いていました。船に近づく小さな舟、かい三丁で漕いでいました。連中は物売り、シャツ、ズボン、タオル、靴下などです。粗末な品質だが、飛んでもなく安い。それを値切って、篭にお金(日本円)を入れて下ろします。私もペラペラのシャツを1円で買いまし た。銭を投げると海に潜って取る子供逹もいました。

◇マニラ マニラ湾の入口にコレヒドール島が見えました。ほんの何ケ月前に陸軍が攻略した要塞島です。後に日本本土を占領、連合軍の司令官として君臨したマッカ−サ−は、陥落直前この島からオーストラリァに脱出したのでした。マニラは海から見ると、ずっと奥まで平地が続いて、海岸に大きな市街が開け、並 木、芝生、舗装道路、建物がとても美しい。自動車は多く、内地で見たことのない高級車も走っていました。船はマニラ港岸壁に着いたのですが、乗客の大半は上陸できません。ここで始めて南の人を見ました。荷役の人夫でしょうが、広つばの帽子を斜めにかぶって、ひどくアメリカ臭さを感じたものです。上陸した人の話では物価は大変安く、コーヒーとケーキで5セント、靴は5,6円(ドル)で無論本物が売っているとのとでした。(本物=内地でこの頃民需品は、総て代用品でした。ドル=戦争前1ドルは2円位と でたが、日本軍は占領後「軍票」を発行、ドルと等価として流通させました)マニラの夕日が名物と聞いていましたが、やはり素晴らしかった。

◇船の中の交流 客の中にマレーシア20年、ダヴァオ在住10年と言う人達がいて、現地事情を色々教わりました。ここでマレー語も少し習い始めました。

◇美しい島々 マニラ港を出て南下しました。椰子の木の生えた白い砂浜、波、絵のような小さな美しい島が、次々見えて過ぎて行きました。多分スルー列島の一部だったのでしょう。

◇海軍のバッタを食う(精神棒) 綺麗な海を眺め、ロマンチックな気分で甲板に出ている内に、女性と交流してはいけないことなっていたのですが、少年はシンガポ−ルに行く女の子と知り合いました。2、3度会っている内に、監督の海軍の下士官に見つかりました。「手を上げて立て・・歯を食いしばれ・・」その尻にバッタを5,6発食わされました。海軍の体罰、手加減などはありません。痛いを通り越しもう立っていられないのです。がっくり崩れ落ち、友人に抱きかかえられて寝床に戻り、腰腹ばいになったま ま3、4日過ごしました。女の子・・ロマンスは波の彼方に消えて行きました。海軍の連中から見ると、命を賭けて戦った海で、自分より若い者が禁を破って、女の子とジャラジャラしているのはとても許せなかったのでしょう。気持ちはよく分かるけど、ひどく痛かった・・。(精神棒・直径3センチほどの樫の棒です)

◇ダバオ マニラから2泊の航海です。ここには沢山の人が降りました。船は沖泊り2泊しました。当時ダバオ周辺に多くの日本人が住んでいるのを聞いた気はするのですが、その後長い間忘れておりました。太平洋戦争開始後、ダバオはフィリピンで真っ先に日本軍に占領されました。2万人の在留邦人が、開戦直後収容所に収容されれ、過酷に扱われたとも聞きました。邦人が50年かけて開拓したマニラ麻の畑は、急遽軍の食糧供給基地に変られていたようです。これも攻略の目的の一つだったかも知れません。(1987年8月・私はミンダナオ島を訪れ、以後ダバオ日系人自立支援ボランティアとして、昨年まで14回尋ねていますが、この時は45年後にそんなことがあろうとは、夢にも思いませんでした)海岸にはマングロープがうっそうと茂り、内陸は全くうかがえません。でもここで上がった果物(パパイヤ)は美味しかった。初めて味わった南国の果物です。現在もダバオはフィリピン有数の果物の産地、中でもドリアンが名物です。

◇タラカン島 ボルネオ島の北部、オランダ領に入ったのです。石油の産地とのこと、島中が緑で陸地が見えませんでした。沖泊まり。オランダ軍捕虜が船荷役に来ました。インドネシア、オランダが混じっていますが同じ服装です。インドネシア人を初めて見ました。荷役は上級者がクレーン係、兵隊が船底で荷物を「もっこ」に入れています。和気あいあい冗談も交え朗らかでした。

◇赤道祭り 7月16日朝10時、赤道を越えました。 お祭りは楽しいものでした。船長以下乗組員、一部乗客も演技者になりました。赤道の神様に1人の子供が大刀持ちになり、3人の稚児が塩、三宝、麻糸の束ねたお払いを持ち、それに鯛、平目、たこの装束の家来が大きな黒い箱を持って続きます。 船長は赤道の神に願い、大きな鍵を貰い、魚の持つ黒い箱を開けます。箱には海図は入っていて、初めて赤道を越えることができました。その後は、余興、演芸が続きました。「対潜水艦監視」は続いていましたが、航海はまだそんなのんびりムードだったのです。

◇バリックパパン 7月17日着、広い河口らしい処で沖泊まり、ボルネオ島、(今はカリマンタン島)私達の目的地マカッサルの対岸に来たのです。石油基地ですが、辺りには何もなく殺風景な処でした。ここまで航海は35日位「目的地は近い・・・」理屈で分かっていても「いやいやこの船から、永久に下船できないのではないか」払っても払っても妄想が襲って来たことを思い出します。ここから小さい駆潜艇が護衛に着きました。

◇マカッサル港の意外 7月23日やっと船が着きました。港は500メートルもある岸壁を備え、倉庫もずらり並び、故郷に近い「小樽港よりはるかに大きくて立派だ」と思いました。上陸となり甲板から岸壁にいる迎えの人を見ると、見たことがあります。「そんな筈がない・・・」降りて聞いたらやはり東京本社で一緒にいた人でした。2週間前、当時の最優秀客船「鎌倉丸」(元アメリカ航路専用船)に会社のマカッサル支店の幹部と中堅処が便乗、船は横浜を出てマカッサルヘ直航1週間、着いて丁度1週間と云うのです。唖然とするばかりです。私達の39日航海は1体何だったでしょう。

南の国の第1頁

 負け惜しみではなく、航海には沢山の収穫がありました。1度も上陸できなかったとは言え、これだけ多くの海を渡り、十ケ所もの港を眺め、沢山の人達と交流しました。海軍のバッタも食いました。同行したG君とは、セレベス滞在中も親交を深め、戦後も付合いが続きました。G君は1970年代からマカッサル・バリに通算8年間住んだのですが、1991年彼の案内で私は50年ぶりにマカッサルを訪れることになりました。これを契機に私のインドネシア通いが始まったのです。この39日間は、忘れがたい貴重な南の国の1頁になりました。

◇心が痛む 幸い私達は何事もなく長い航海を終え、陸に上がることができました。しかし千早丸遭難を聞いてからは、マカッサルを思い出す度に、きっと知り合ったマライ在住の方達、シンガポール行きの女の子、バッタを食わせた海軍さん、中国人、赤道祭りをしてくれた船長、船員さん達の行く末を考えてしまいます。


 戦前、戦中、戦後の日本人とスラウェシ島の関わりについてあまり纏まった資料が見つかりません。今回、永江様に思い出話しなどの執筆をお願いしました。(編集人)