南スラウェシ Palopo Plywood Project 回想

最後の戦時賠償プロジェクト

スラウェシ研究会

 日本は昭和33年(1958)4月15日に、日本・インドネシア平和条約とともに発効した賠償協定の下に、12年間で総額803億880万円(2億2308万ドル相当)を、日本の生産物および日本人の役務の形で、インドネシアに支払う約束をし、昭和45年(1970)4月15日全額供与を完了した。これは狭義の賠償額であり、これ以外に経済協力借款、焦げつき債権放棄、賠償を担保にして供与された賠償担保借款などを加えると、当時の金で3,200億円(8億9467万ドル)相当となる。

 賠償による供与品目には、インドネシアが要請し、日本が合意するもので、協定の付属書に掲げる計画の中から選択するが、計画以外の項目でも、インドネシアの要請により、両政府の合意で含めることが出来ること、また生産財は資本財とするが、これも両政府の合意により、それ以外もあり得る、とかなり自由度の高いものあった。その結果、当時の岸信介首相、民間企業、インドネシア側が絡んだ賠償汚職問題が昭和34年(1959)2月の国会でも問題になった。インドネシア側では、かなりの額が、スハルトの個人資産になったとも言われています。この間の事情は、深田祐介氏の小説『神鷲(ガルーダ)商人』にも生々しく描かれている。因みに、戦時賠償はインドネシア共和国が他国と比較して最高額を授受している。

 南スラウェシ州のパロポにも、合板工場を建設する賠償プロジェクトがあった。このプロジェクトは、Palopo Plywood Project (P3) と呼ばれ、昭和41年(1966)にJapan International 社が受注した。この会社は、旧陸軍出のグループで、独立軍人との人脈で契約出来た会社で、企業運営の能力はなかったようだ。受注して約2年後、昭和43年(1968)10月に同社は倒産する。賠償供与終了の二年前のことで、プロジェクト継続の為、工事下請けの北野建設がメインコントラクターとなり、工事が再開された。

 ほんとうに得体の知れないプロジェクトだった。誰がどんな理由でパロポに合板製造工場を作ろうとしたのか。ジャングルの中の工場に、どうやって原木を搬入するのか、ここは原木の産地ではなかった。製品の輸送手段はどうなっているのか。プロジェクトの全体像について、日本側関係者は誰も知らなかった。賠償金は日本政府から契約者(Japan International 社)に円価で支払われ、その使途はインドネシア側に決定権があるという不思議な契約だった。従って予算はインドネシア国軍が握っている上、国軍の方針も明確ではなかった。国軍が真にこのプロジェクトを成功させたいと考えているのか、ということすら不明であった。

Pangkajene のドラム缶を並べた浮き橋
長く続いた動乱(ムザカル反乱1950年、パルメスタ独立運動1957年など)で、各地の橋梁は破壊されていた。バス、トラックは干潮まで通れない。
小舟を並べての渡河作戦
(Wajo 県にて)

 南スラウェシは、長く続いていた動乱が、1965年、後年大統領になるスハルトの指揮する反乱鎮圧国軍によって漸く終息した。プロジェクトが決まったのはその直後である。道路、橋梁などは破壊されていて、マカッサルからパロポの郊外の工事現場まで、ジープで30時間以上掛かった。最初の計画では、1966年の受注から2年足らずで工場のテストランを行い、製品の出荷が始まっていた筈であったが、予算を統括する国軍に牛耳られていたうえ、建設資材の盗難、追加資材の調達などの難しさ、また大洪水のため、一夜のうちに河川の位置が変わり、完成した取水口が役に立たなくなってしまったことなど、期限が迫っても完成にはほど遠い状況であった。

Jl. Sungai Saddang 56 にあったマカッサル事務所

杉山長幹氏は、Japan International 在籍時、ジャカルタ近郊のタンゲランで“もやし豆"の試験栽培を行っていたが、1968年にマカッサル近郊のマロスにプロジェクトを移した。
参照:インドネシア独立戦争に参加した元日本兵
Luwu県Bua郡にあった現地事務所・兼宿舎

夜間、発電機が止まれば真の闇、机の隅のローソク灯かりが頼りだった。

 プロジェクトの事務所は、パロポとマカッサルにあった。Japan International マカッサル事務所の所長は、インドネシア独立戦争(1945年 - 1949年)の一時期、日本人部隊長を務め、動乱の時代を生き抜いたインドネシア国軍の英雄、杉山長幹氏(インドネシア名スカルディ杉山)であった。しかしP3には直接関与していなかったようだ。

 合板工場は、スライサー、ホットプレス、発電機など日本の最新鋭の機械を揃えていた。このプロジェクトには、一番多いときには30人くらいの日本人が係わっていた。栗田工業、池貝鉄工、福島製作所などといった一流企業からの技術者達だった。各メーカー担当の仕事を終え、または色々な事情で中断(中止)により、大半の技術者を帰国させたあと、最後は人質2人だけが残された。日本人が駐在していればプロジェクト継続の証しとなったからである。このプロジェクトの体験をもとに書かれた庵浪人(いおり なみお)氏の小説 『ブアの反乱』に、つぎのような記述があります。

 「日本から金が出る。それをインドネシアが使う。紐付き発注だから、日本のメーカーにも金がまわる。ひとまわりすればみんながニコニコ出来る。目減りが多いから8年経っても、プラントからは音も発しない、蒸気も上がらない。それでもいいのだ。関係者は工事が完成しなければ、蠅のようにたかって末永く喰えるのだ。こんなプロジェクトは後学の為、ひと思いに爆発しちゃえばいいと酔った拍子に言ったことすらあった。」

Palopo は Luwu 県の県庁所在地 Bua の四つ角(建設現場の近く)

 最終的には1970年4月、賠償協定にもとづき、12年間の供与期間を終了した。もちろん工場は完成していない。その後この工場がどうなったのか消息は分からない。

 プロジェクトの竣工式では、シンガポールから搬入した新しい合板を積み上げて、「Palopo Plywood Project」と書かれた大きな横断幕を張った式典会場が用意され、ヘリコプターで乗り付けたインドネシア国軍幹部が列席して行われた。書類の上だけのプロジェクトの完成であった。

あとがき

 この資料は 2011年9月22日 東京目黒で開催された「スラウェシ研究会」(会長 松田勲)にて報告されたP3プロジェクト関係者の想い出話、庵浪人氏の小説『ブアの反乱』、当日回覧された当時の写真アルバム、その他参考資料をもとに取り纏めたものです。

 多くの日本企業は、インドネシアの賠償工事で海外工事の経験を積み、その後の海外事業に弾みをつけた。賠償工事がなかったら、そう順調にいかなかっただろう。

 このPalopo Plywood Projectのような汚職の事例は、過去のものではありません。筆者も10年前、似たようなケースをしばしば耳にし、光景を目の当たりにしました。世界各国の汚職を監視する非政府組織(NGO)「トランスペアレンシー・インターナショナル」によると、2010年度の「汚職指数(CPI)」は、インドネシア110位。かつてはもっと低かったので、かなり改善されたと思いますが、インドネシアで仕事をする場合、心の隅に留めておく必要があると思います。因みに日本は17位、先進国の中では最低の部類です。

参考資料

  1. 松田勲 「日本とインドネシアの賠償協定(概要、メモ)」 2011年9月22日 スラウェシ研究会資料
  2. 東南アジアを知るシリーズ 『インドネシアの辞典』 同朋舎出版
  3. 庵浪人『ブアの反乱』 http://tokada.net/mangaku/mgfic2.html