カラエン・パティンガロアン博物館

Museum Karaeng Pattingalloang
ベンテン・ソンバ・オプ地区に出来た新しい歴史博物館

博物館の入り口 博物館入り口の看板

 現在のマカッサル市の中心地から約7km 南に、かつてのゴワ王国の遺跡がある。ここでは、1980年代から遺跡の発掘調査が続けられている。約20年前、発掘された物件を保管、整理するため、発掘現場の近くに、マカッサルの伝統的な木造、高床式の建物が建てられた。使われた木材は、カリマンタン島から運ばれてきたという。その後、2003年、この建物の周囲の塀の整備、2005年には建物に塗装を施しするなど、少しずつ手を加えていった。そして2010年、発掘された遺品のほか、17世紀に東南アジアで最も栄えた港都一つであったマカッサル王国に関する資料、南スラウェシ各地の伝統的な民族衣装なども集め、南スラウェシ州の文化観光局の歴史博物館として一般に公開された。この博物館には、週末には数十人から数百人の観光客が訪れるという。

17世紀のマカッサル絵地図
(約2m x 3m)
博物館の前庭に据えられた当時の大砲
(車輪は複製品)

 この遺跡からは、要塞の中に住んでいた、ゴワ王国の人々の食生活や、日々の生活ぶり、祭りの様子などを、色鮮やかに示す数多くの物や、手工芸品、煉瓦、瓦などの建築材料破片なども多数発掘されている。これまでにも出土された破片から、例えば、ゴワ王国の人々の食生活では、主な蛋白源は魚であったこと、粘土についた足跡から、鶏や家畜など飼っていたことなど、多くのことが解明されてきたという。1666-1669年のオランダ東インド会社との戦い、マカッサル戦争で使われた大小各種の砲弾や、兵器の一部も発見されている。

 建物の天井には17世紀、マカッサルが最も栄えた時代を描いた大きな絵地図(約2m x3m)が掲げられている。このほか、1667年、ゴワ王国とオランダ東インド会社との間で締結された、ブンガヤ条約の全文、この博物館につけられた名前、カラエン・パティンガロアンとはどのような人物であったのかの解説も掲示されている。

カラエン・パティンガロアンのこと

 カラエン・パティンガロアン(1600-1654)は、ゴワ王国と同盟関係にあったタロ王国の王子で、国際都市マカッサルの黄金時代に首相(1641-1654)を務めた。(注1) 当時マカッサルは東南アジアの8つの貿易港の一つとして、また、スパイスの取引の中心としても知られ、市内にはポルトガル、オランダ、デンマーク、英国、パキスタン、アラブ諸国、スペイン、中国などの商館や外国人居留地が置かれた国際都市であった。

 カラエン・パティンガロアンは、頭脳明晰で、外交手腕に優れた知識人として、西欧にも知られていた。彼は、西欧の書籍、地図、望遠鏡などを購入、西欧の各国の歴史も詳しかった。ポルトガル語ほか、スペイン語、ラテン語、英語、フランス語、アラブ語などを理解した。フランス人宣教師アレキサンダー・ローデス(Alexandaer Rhodes)が、1646年に記した記録によると、彼はいつも数学の本を抱えていた。昼も夜も、西欧の科学の勉強をしていた。彼のポルトガル語はリスボン人の発音であったという。

カラエン・パティンガロアンの歿後

 1654年、カラエン・パティンガロアンは歿する。1631年1月生まれの、若いスルタン・ハサヌディン(Sultan Hasanuddin)が、後継の首相役を務めたが、西欧諸国側の評価では、気まぐれ、かっとなる気質で、行政能力もなく、首相にはまったく相応しくない人材だったという。また他の王位継承者間の対立もあり、カラエン・パティンガロアンの没後は、1669年のマカッサル崩壊へと進んでいく。ハサヌディンも1670年、37歳の若さで世を去った。(文責・写真:脇田)

(注 1) マカッサル王国は、スラウェシ島南西部にある好戦的で人口の多いゴワ(Gowa)王国と、海洋交易を得意とするタロ(Tallo)王国が、同盟を結んで作った都市国家 であり、両王国は姻戚関係にあり、ゴア部族から王が出て、タロ部族からは首相ないし日常業務の管理者が出るなど、非常によく組織化されていたという。

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