戦前のセレベス島邦人進出事情

脇田 清之

1)昭和13−14年頃のセレベス島進出の日系企業

 昭和13−14年頃のセレベス島進出企業一覧(日本インドネシア協会 加藤裕氏所蔵)は当時の日本人の進出事情を探る上で大変貴重な資料である。この一覧表にはマカッサル(セレベス島南部)で39社、マナド(セレベス島北部)で19社、島全体で58社が掲載されている。

 a)マカッサル地区 (セレベス島南部)

 セレベス島南部における日系企業数は合計39社。業種はココ椰子農園4社、コーヒー農園(トラジャ)1社、商業(商店、商会)が28社、写真館2社、理髪業2社、旅館業1社、撞球場1社となっている。商店の中には自転車の輸入販売関係(含む貸自転車)が11社、菓子製造も2社含まれている。場所はマカッサルが多数を占めるが、トラジャ、マリリ(ボネ湾の奥)、ポレワリ、クンダリと各地に拡がっている。

会社名 住所 責任者名 原籍 摘要
アンゴヤ農園 Kendari O.C. 大石 保 ココヤシ
安部商店 Makassar 主任 吉田 兵庫 雑貨輸入
朝日商店 Makassar 泉 清四郎 和歌山 自転車
バルップコーヒー園 Rantepao 岸 将秀 コーヒー・茶、規那
土井秋太郎商店 Makassar 土井 秋太郎 和歌山 自転車輸入
土井国松商店 Makassar 土井 国松 和歌山 自転車商
浜口浩一商店 Makassar 浜口 浩一 和歌山 自転車商
平田写真館 Makassar 平田 孝次郎 静岡 写真業
本田商店 Makassar 本田 輔司 栃木 自動車・タイヤ・修理
伊木写真館 Makassar 伊木 夥顕 宮城 写真
池田商店 Makassar 池田 宝蔵 東京 物産輸出
岩井ココ椰子園 Malili 岩井 清田夫 ココヤシ栽培
金子商店マカッサル支店 Makassar 金子 憲次 群馬 雑貨輸入・小売
苅底商店 Makassar 苅底 権之助 長崎 べっ甲細工商
岸下商店 Makassar 岸下 政治郎 和歌山 自転車商
北島商店 Makassar 瀬古 周吉 和歌山 自転車輸入
マピリ椰子園  Mapili Poliwali 川原 啓壮 ココ椰子
槙野理髪店 Makassar 槙野 吉次郎 和歌山 理髪業
松尾商店 Makassar 松尾 辰六 長崎 自転車業
松本商店 Makassar 松本 儀衛 長崎 仲買人
都商店 Makassar 松尾 辰六 長崎 製菓業
南筑貿易商会 Makassar 佐野 実 福岡 輸出入
南斗農園 Poliwali 佐野 実 福岡 ココ椰子・玉蜀黍
合資会社日印商会 Makassar 長野 勇 新潟 物産輸出
日本旅館 Makassar 管 政康 長崎 旅館業
緒方商店 T.C.J.L. 緒方 惟一 東京 物産輸出
大塚商会 Makassar 大塚 虎一 東京 撞球場
岡本 商店 Makassar 岡本 初太郎 和歌山 自転車業
エス・ジー・ケー商会支店 Makassar 主任:加藤勝雄 愛知 陶器輸入業
エス・ハ商会 Makassar 確井 春三 東京 物産輸出
沢田商会 Makassar 沢田 寛二 愛知 運道具
坪野商会 Makassar 坪野 正久 石川 一般物産輸出入
鶴間商店 Makassar 鶴間 吉次郎 和歌山 貸自転車
確井商店 Makassar 確井 佐一 東京 直輸出入
渡邊商店 Makassar 渡邊 豊喜 熊本 製菓業
和田商店 Makassar 和田 治太郎 兵庫 船舶売込業
矢倉商会 Makassar 矢倉 徳松 和歌山 自転車業
矢野商店 Makassar 矢野 福二 和歌山 自転車業
大和理髪館 Makassar 徳永 栄吉 長崎 理髪業

 上のリストには野村栄太郎氏の「在南方40年の回顧」 (後出)に出てくる南洋倉庫会社が入っていない。他にも記載漏れがある可能性がある。

 b)マナド地区 (セレベス島北部)

一方、メナド(セレベス島北部地域)における日系企業数は合計39社。業種農園10社、水産1社、商業8社となっている。場所はメナド周辺が大半を占めるが、トミニ湾内のゴロンタロには4社、ポソにも1社進出している。

会社名 住所 責任者名 原籍 摘要
デ・レーセンデ・ソン(日出商会) Menado 秋山 理 福島 自動車・貸切バス
絲永商会農園 Menado 糸永 太郎 ココヤシ栽培
勝間農園 Menado 勝間 順蔵 ゴム・ココ椰子・コーヒ
河合農園 Mongondou 河合 堅治 コーヒー
倉元農園 Mongondou 倉元 堅治 コーヒー・農業
栗本農園 Mongondou 栗本 唯 コーヒー
ケレロンデー農園 Menado 小林 常八 コーヒー・玉蜀黍
トコ・マタハリ Posso 鳴海 新太郎 東京 一般雑貨輸入
宮井農園 Menado 宮井 源太郎 ゴム・ココ椰子
森商店 Tominiboket 森 由五郎 長崎 雑貨商
南洋貿易 Menado 社長宮島清次郎 東京 一般輸出入
南洋貿易 Amoerang 社長宮島清次郎 東京 椰子栽培・コプラ
日蘭漁業 Menado 勝山 三郎 東京 鰹鮪漁業
岡田・森農園 Mongondou 岡田雅雄・森貫次郎 コーヒー
管復農園 Mongondou 管復 寛一 コーヒー
田中商店 Gorontalo 田中鉄次 佐賀 一般雑貨輸入
巴商会 Gorontalo 宮井 源太郎 大分 一般雑貨輸入
内田商会 Gorontalo 内田 隼人 雑貨商・ヤシ・コプラ
森古々椰子園 Gorontalo 森 由五郎 ココ椰子・バナナ

 Bitungは日本の水産基地としての歴史は古く、1920年代に大岩漁業が鮮魚販売、鰹節製造を開始している。1940年にはBitung在住の日本人は154人であったという。(海のアジアE アジアの海と日本人 岩波書店 2001年5月発行) しかし、上記のリストにはBitung の企業は掲載されていない。

2)南北セレベス邦人進出の相違点

 大正5年から終戦までセレベス島各地で農園経営に当たった柴田鉄四郎氏の回顧録「セレベス島今昔」(昭和42 (1967) 年10月10日、日本インドネシア協会 加藤裕氏所蔵)の中で、南セレベス地域の在留邦人数は北セレベスと似たり寄ったりだが、性格的に少々趣を異にしていたという。即ち、北部は会社組織が中心であり、農園の開発をはじめ、製油業、漁業の開発、小型沿岸船の運営、ペレン島の雲母鉱山の開発など企業的な活躍が多く、一方、南部では個人商社が中心で、総じて商業的であり、業種は一般貿易及び雑貨商などであったという。

 柴田氏は当時椰子王と称された清水兄弟商会に職を奉じ、専らコプラ貿易に従事し、マリアナ群島、マーシャル群島、ギルバード、エリス群島などで活動していたが、大正5年(1916)、南太平洋貿易株式会社を創立し、メナド支店を設け、サンギル群島タルナ、パタ、タマコシャオ、ハルマヘラ群島のテルナテ、トミニ湾のゴロンタロ、ポソ、北セレベスのケマ、アムラン、南のマカッサル等に分店を置き、コプラ買付け機関とした。丁度、第1次世界大戦 (1914−1918) の最中で、欧州へのコプラの販路がドイツ艦隊のインド洋風封鎖によって閉塞され、日本への輸出以外に道が無かった。そのような恵まれた機会に進出したため、当時の蘭印政府や民衆から歓迎されたという。柴田氏が社船金華山丸(450トン)にてメナド港に着いた当時は、北部セレベスにはシンガポール経由の日本人進出者が12,3人散在していた。その後、南洋貿易(株)が、南洋群島経由で進出し、大分賑やかになった。昭和16年、太平洋戦争の勃発時には百数十名の邦人が活躍するようになった。その内容はコプラ貿易を筆頭に、椰子、ゴム、コーヒー、カポック等の農園経営、雑貨商、タイヤ修理業、歯科医、水産業(鰹漁など)である。

 柴田氏の回想録では昭和16年、太平洋戦争勃発時の邦人数が百数十名とされているが、Bitung の水産関係者の154名を加えるとセレベス島北部には300名近い日本人が活躍していたことになる。

3)金子商店マカッサル支店 (Toko Kaneko) のこと

 野村栄太郎氏の「在南方40年の回顧」(日本インドネシア協会加藤裕氏所蔵)によれば野村貿易商会は昭和7年7月、新規にお得意先開拓のため、マカッサルに小売店進出を決めたが、ジャワ島のコトアルジョに本店を構え、近郊に5,6軒の支店を有する金子憲次氏所有の金子商店のマカッサル支店として開店することになった。昭和7年8月22日、南洋郵船の名古屋丸で神戸を出発、8月30日マカッサルに着いた。上手い具合に、商店街に当時の市長所有の1軒の空き店舗を借りることが出来た。開店までホテル住まいは軍資金が心配だったので、本田輔司氏宅にご厄介になったという。9月4日には店の向かい3軒両隣だけでなく、同市在住の邦人39軒全部に信州更級製干しそば持って挨拶に廻った。同市には1軒の美術雑貨阿部商店のほか、宮田製の自転車店北村(北島?)商店のほか多数あった、と記されている。開店までに電灯会社、ガス会社、水道局、郵便電話局への届け等、毎日東奔西走多忙を極めた。荷物の通関手続きは日本人経営の南洋倉庫会社の紹介によってMOLUKKE NV EEM というオランダの倉庫会社に船積証とインボイスを渡せば直ぐ手続きをやってくれ税金まで一時立替えてくれた。一番手こずったのは、売り子の募集であると共に売り子の質の悪い事であった。開店に先立ち広告ビラを同市の新聞に折り込んだところ、反響が多すぎて、売るものが過少であることがわかった。昭和7年9月25日(日曜日)、マカッサル到着後僅か25日目に開店することができた。金子商店の評判が急に拡がると商魂逞しい華僑は同じ街に同じ格好の店を開いたという。

追記:トコ・カネコのマカッサル支店はは同市目抜き通りのパッサル街に百貨店を出していた。マカッサル店は間口21メートル、奥行き98メートル総二階の細長い鰻の寝床のような店で、裏口は海岸通りへ突き抜けていた。(図南春秋 第12号 昭和51年1月1日発行 P15、回想記 「セレベス4年の哀感」より) Passerstraat は現在の Jalan Sulawesi と思われる。(高橋 弘行氏調査による)(2008−6−2)

4)トコ・ア・ドイ (Toko A.DOI) のこと

 左の写真は昭和6〜7年頃に撮影されたマカッサルの「トコ・ア・ドイ」( Toko A.Doi) の写真である。マカッサル進出企業一覧表には「土井秋太郎商店」と書かれている。写真は土井秋太郎氏の孫にあたる土井正治様から提供されたものです。( 昭和6〜7年頃撮影)

  (準備中)









関連資料

セレベス時代の村岡伊平治
セレベス時代の三浦襄


皆様から頂いたコメント

OI 様

 戦前(戦後もかもしれませんが)の日本人のバイタリティーは凄いですね。最近の日本の現状は何と嘆かわしいこと・・

BUP様

“昭和7年8月22日、南洋郵船の名古屋丸で神戸を出発、8月30日マカッサルに着いた。” この南洋郵船は その後南洋海運と言う、日本郵船系列の船会社が設立されて、インドネシ ア航路は南洋海運に移りましたが、懐かしい船名は引き継がれました。 南洋海運は、戦前、戦時中は兜町に本社が在りましたが、戦後東京船舶 (株)と社名変更、日本郵船の子会社として、昭和26年に東京駅前の東京 ビル(旧)に移りましたが、小生の退社後、日本郵船に吸収合併されて、社名 のみになりました。

Tet 様

 マカッサルはいわゆるトコ族で自転車屋が多いのに興味が湧きます。大石性は静岡に多いです。 南興水産はパラオが本拠でしたが、塚本(当時20歳)が小型漁船にトランク一杯の札束を詰めて ビトンに向かったそうです(距離はそんなにはない)。海が綺麗すぎて鰹餌になる魚がおらず 苦労したそうです。フウフウはなまり節を教わった現地人の創作です。 魚のダシで調理するからマナドBuburは我々には旨いと感じるのでしょう。 その後アンボンへ(州庁舎が南興事務所だったとか)。命からがら脱出した海駿丸がムナ島で撃沈 された。(沈没写真があり現物もまだあるそうです) チモールのルイス氏との料亭での会合写真がありますが、あそこまで進出しようとしていたのですかね。

HS 様

 例外もありますが、出身県が海のある県、西日本に集中しているのですね。 和歌山は、アメリカへの移民を多く輩出している県だとは知っていましたが、 インドネシアのスラウェシにも多くの人が来ていたのですね。わたしの調査地の老人などに聞くと、昔のマカッサルの 一番の中心地は、今のJalan Timur で、ここはPintu Dua と呼ばれていたとのこと。 つい7年ほど前まで、実際、ここにはまさにパニンクル(角の店)の位置に、Pintu Dua という名前のクダイ・コピがありました。シンガポールスタイルの、海南鶏飯が食べられました。 今のヌサンタラからイリアンにかけてのJalan Timur には、金を扱う店がたくさんあったとのこと。さすがに、日本人で金を扱うような人はいなかった様子ですが、このあたりの 華人商人たちとは、どんな関係にあったのでしょうか。老人たちは、華人商人たちとの やりとりや、そのにぎわいのことはよく覚えているようですが、軍関係者以外の日本人の こととなると、まったく知らない様子でした。やはり棲み分けが徹底していたのでしょうか。
 ジョグジャカルタに来て思うのは、華人の存在です。マカッサルとは、まったく違うことに、 驚きます。マカッサルは、やはりインターナショナルな港町なのだなあと、 改めて痛感しています。ジャワの華人は、一口にいってしまえば、もうすっかりジャワ人。 チナ・マカッサルということばが、決して差別的に使われることがないのを思うと、 ジャワ人となってしまった華人の来し方が気になったりもします。

AS 様

 (マカッサルの企業リストは)皆新たに知る名前ですが、坪野商会とあるのは戦時中マカッサルにありました 「坪野商店」のことではないかと思います。 社長のお名前が記憶してるような気が致します。今月12日より戦友会の連中と 伊豆に車2台で9人の旅行をする事になってますので、その時民政部の住宅管理の 係りの中村氏が行くので、彼は商社の人たちにも詳しいので問い合わせてみます。 若し私のお世話に成った坪野さんならば懐かしいお名前です。良く甲板仕官の 斎藤さんと一緒にお食事に招待され酒保の仕事でも大変お世話に成りました。 確か河野?さん渡部さんと言う二人の女子事務員が居りました。

編集人

 OI 様のご意見に同感です。最近の日本人の現地進出は、自動車産業など大資本による進出を除いて、現地の資源、安価な労働力を使って商品を生産し、日本へ輸出する、または、日本から来る観光客相手の仕事など、総じて日本を向いた仕事が多いように思います。これに対し、戦前の日本人は雑貨をシンガポール、日本などから輸入して現地住民に販売する形態が多く見られる。一般雑貨輸入で北スラウェシ・ゴロンタロまで進出しているのは驚きです。野村栄太郎氏の回顧録でも、ヘルメット帽子を冠って、一軒一軒日本売薬を行商したことが書かれている。統計の上では低所得に見られているが金持ちはいくらでもいる。現地住民の為のビジネス・チャンスは今でもあると思う。


掲載:2007-3-10
追記:2007-3-14
追記:2008-6- 2
追記:2008-7-22