1938-39年頃 セレベス島の日本人
Orang Jepang di Sulawesi pada tahun 1938-39

松田勲 粟竹章二 長崎節夫 土井正治 脇田清之

 外務省外交資料館の資料によると、1939年(昭和14年)頃のセレベス島における日本人は メナド日本人会が186名、モゴンドウ州日本人会14名、マカッサル124名、スラウェシ島全体で324名の日本人が記録されている。因みに日本の領事館は 在メナド領事館が昭和12年12月18日に開設されている。メナドはバタヴィア、スラバヤ、メダンに次いで蘭印では第4番目の領事館だった。在マカッサル領事館は昭和16年2月22日に開設、同年12月8日には閉鎖となっている。

スラウェシ島に於ける最初の日本人会は、大正4年に創立された「メナド日本人会」、次いで大正7年(1918年)にマカッサルに「マカッサー日本人会」が創立されている。更に大正9年(1920年)に「ブートン日本人会」(ブートン島)、昭和8年に「モゴンドウ州」日本人会が創立されている。なお、「モゴンドウ州日本人会」は「メナド日本人会」から分離して創立されたものである。

また、ジャガタラ友の会が蘭印時代の邦人の記録を編纂した「ジャガタラ閑話ー蘭印時代邦人の足跡ー」によると 昭和13-14年頃のセレベス島進出企業一覧には、マカッサル(セレベス島南部)で39社、マナド(セレベス島北部)で19社、島全体で58社が掲載されている。これらの資料をもとに当時の日本人の足跡について辿ってみたい。

 1)南スラウェシ地域

 「ジャガタラ閑話ー蘭印時代邦人の足跡ー」によると、セレベス島南部における日系企業数は合計39社。業種はココ椰子農園4社、コーヒー農園(トラジャ)1社、商業(商店、商会)が28社、写真館2社、理髪業2社、旅館業1社、撞球場1社となっている。商店の中には自転車の輸入販売関係(含む貸自転車)が11社、菓子製造も2社含まれている。場所はマカッサルが多数を占めるが、トラジャ、マリリ(ボネ湾の奥)、ポレワリ、クンダリと各地に拡がっている。

会社名 住所 責任者名 原籍 摘要
アンゴヤ農園 Kendari O.C. 大石 保 ココヤシ
安部商店 Makassar 主任 吉田 兵庫 雑貨輸入
朝日商店 Makassar 泉 清四郎 和歌山 自転車
バルップコーヒー園 Rantepao 岸 将秀 コーヒー・茶、規那
土井秋太郎商店 Makassar 土井 秋太郎 和歌山 自転車輸入
土井国松商店 Makassar 土井 国松 和歌山 自転車商
浜口浩一商店 Makassar 浜口 浩一 和歌山 自転車商
平田写真館 Makassar 平田 孝次郎 静岡 写真業
本田商店 Makassar 本田 輔司 栃木 自動車・タイヤ・修理
伊木写真館 Makassar 伊木 夥顕 宮城 写真
池田商店 Makassar 池田 宝蔵 東京 物産輸出
岩井ココ椰子園 Malili 岩井 清田夫 ココヤシ栽培
金子商店マカッサル支店 Makassar 金子 憲次 群馬 雑貨輸入・小売
苅底商店 Makassar 苅底 権之助 長崎 べっ甲細工商
岸下商店 Makassar 岸下 政治郎 和歌山 自転車商
北島商店 Makassar 瀬古 周吉 和歌山 自転車輸入
マピリ椰子園  Mapili Poliwali 川原 啓壮 ココ椰子
槙野理髪店 Makassar 槙野 吉次郎 和歌山 理髪業
松尾商店 Makassar 松尾 辰六 長崎 自転車業
松本商店 Makassar 松本 儀衛 長崎 仲買人
都商店 Makassar 松尾 辰六 長崎 製菓業
南筑貿易商会 Makassar 佐野 実 福岡 輸出入
南斗農園 Poliwali 佐野 実 福岡 ココ椰子・玉蜀黍
合資会社日印商会 Makassar 長野 勇 新潟 物産輸出
日本旅館 Makassar 管 政康 長崎 旅館業
緒方商店 T.C.J.L. 緒方 惟一 東京 物産輸出
大塚商会 Makassar 大塚 虎一 東京 撞球場
岡本 商店 Makassar 岡本 初太郎 和歌山 自転車業
エス・ジー・ケー商会支店 Makassar 主任:加藤勝雄 愛知 陶器輸入業
エス・ハ商会 Makassar 確井 春三 東京 物産輸出
沢田商会 Makassar 沢田 寛二 愛知 運道具
坪野商会 Makassar 坪野 正久 石川 一般物産輸出入
鶴間商店 Makassar 鶴間 吉次郎 和歌山 貸自転車
確井商店 Makassar 確井 佐一 東京 直輸出入
渡邊商店 Makassar 渡邊 豊喜 熊本 製菓業
和田商店 Makassar 和田 治太郎 兵庫 船舶売込業
矢倉商会 Makassar 矢倉 徳松 和歌山 自転車業
矢野商店 Makassar 矢野 福二 和歌山 自転車業
大和理髪館 Makassar 徳永 栄吉 長崎 理髪業

 上のリストには抜けもあるようだ。「ジャガタラ閑話ー蘭印時代邦人の足跡ー」に掲載された野村栄太郎氏の「在南方40年の回顧」に出てくる南洋倉庫会社が入っていない。他にも大手企業の記載漏れの可能性がある。

南スラウェシの在留邦人の数について、外交資料館に残された資料ではマカッサルで 124名と記されているが、渋川環樹著 カメラとペン「蘭印踏破行」には昭和15,16年頃「マカッサに在住する日本人は170名、そのなかで玉城組を組織する沖縄の漁夫32名が、、」などと書かれています。2年のずれはありますが、日本人会に加入してない邦人もいたことも想像され、渋川記者の記録 170名のほうが当たっているかも知れません。参照「昭和15,16年頃のセレベス島」

和歌山県人の活躍

前記企業リストで興味深いのは、マカッサルに自転車の輸入販売関係(含む貸自転車)の企業が11社進出し、その大半が和歌山県の出身者であることである。マカッサルの北島商店の店主、瀨古周吉氏は、和歌山市北島の出身で、出身地の北島を屋号としていた。自転車の輸入を扱うほか、自動車部(ハイヤー)も経営していた。自転車の前にリヤカーをつけた、ティガ・ローダ(ベチャ)は、瀨古周吉氏の発明によるもの、との当時の記事がある。
 左の写真は 昭和6~7年頃に撮影されたマカッサルの「トコ・ア・ドイ」( Toko A.Doi) の写真である。マカッサル進出企業一覧表には「土井秋太郎商店」と書かれている。日本から運んできた自転車を組み立て販売していた。

 ところで、当時のマカッサルには、なぜ和歌山県人が多かったのか。和歌山県移民史によると、和歌山県人は、明治8年(1875年)頃から、濠州の木曜島へ渡り、真珠貝の採取を行っていた。明治25年(1892年)の時点で、木曜島には既に150人の邦人倶楽部があり、病院もあった。大正2年(1913年)8月3日、木曜島における和歌山県宇久井青年会創立当時の役員及び会員名簿を見ると、瀬古周吉、土井国松など、上述のマカッサルの進出企業リストに記載された人物が、重複記載されている。いつの時点で転進したのか 現時点で詳しい記録は見つかっていないが、木曜島の和歌山県人の一部が、ある時点でセレベス島に転進したことは確かなようだ。

金子商店マカッサル支店 (Toko Kaneko) のこと

野村栄太郎氏の「在南方40年の回顧」によれば野村貿易商会は昭和7年7月、新規にお得意先開拓のため、マカッサルに小売店進出を決めたが、ジャワ島のコトアルジョに本店を構え、近郊に5,6軒の支店を有する金子憲次氏所有の金子商店のマカッサル支店として開店することになった。昭和7年8月22日、南洋郵船の名古屋丸で神戸を出発、8月30日マカッサルに着いた。上手い具合に、商店街に当時の市長所有の1軒の空き店舗を借りることが出来た。開店までホテル住まいは軍資金が心配だったので、本田輔司氏宅にご厄介になったという。9月4日には店の向かい3軒両隣だけでなく、同市在住の邦人39軒全部に信州更級製干しそば持って挨拶に廻った。同市には1軒の美術雑貨阿部商店のほか、宮田製の自転車店 北島商店のほか多数あった、と記されている。開店までに電灯会社、ガス会社、水道局、郵便電話局への届け等、毎日東奔西走多忙を極めた。荷物の通関手続きは日本人経営の南洋倉庫会社の紹介によってMOLUKKE NV EEM というオランダの倉庫会社に船積証とインボイスを渡せば直ぐ手続きをやってくれ税金まで一時立替えてくれた。一番手こずったのは、売り子の募集であると共に売り子の質の悪い事であった。開店に先立ち広告ビラを同市の新聞に折り込んだところ、反響が多すぎて、売るものが過少であることがわかった。昭和7年9月25日(日曜日)、マカッサル到着後僅か25日目に開店することができた。金子商店の評判が急に拡がると商魂逞しい華僑は同じ街に同じ格好の店を開いたという。

追記:トコ・カネコのマカッサル支店はは同市目抜き通りのパッサル街に百貨店を出していた。マカッサル店は間口21メートル、奥行き98メートル総二階の細長い鰻の寝床のような店で、裏口は海岸通りへ突き抜けていた。 Passerstraat は現在の Jalan Nusantara である。(図南春秋 第12号 昭和51年1月1日)

バルップコーヒー園のこと

一覧表の中でバルップコーヒー園 責任者 岸将秀の名前があるが、これは 三浦襄が岸将秀と共同で開発したコーヒー農園。昭和5年(1930年)11月、世界不況のあおりを受けて事業は失敗する。三浦は撤退しバリ島へ移ったが、岸はそのままトラジャに残ったようだ。 参照 「セレベス時代の三浦 襄」

2)北スラウェシ地域

「ジャガタラ閑話ー蘭印時代邦人の足跡ー」によると、セレベス島北部地域における日系企業数は合計39社。業種農園10社、水産1社、商業8社となっている。場所はメナド周辺が大半を占めるが、トミニ湾内のゴロンタロには 4社、ポソにも 1社進出している。

会社名 住所 責任者名 原籍 摘要
デ・レーセンデ・ソン(日出商会) Menado 秋山 理 福島 自動車・貸切バス
絲永商会農園 Menado 糸永 太郎 ココヤシ栽培
勝間農園 Menado 勝間 順蔵 ゴム・ココ椰子・コーヒ
河合農園 Mongondou 河合 堅治 コーヒー
倉元農園 Mongondou 倉元 堅治 コーヒー・農業
栗本農園 Mongondou 栗本 唯 コーヒー
ケレロンデー農園 Menado 小林 常八 コーヒー・玉蜀黍
トコ・マタハリ Posso 鳴海 新太郎 東京 一般雑貨輸入
宮井農園 Menado 宮井 源太郎 ゴム・ココ椰子
森商店 Tominiboket 森 由五郎 長崎 雑貨商
南洋貿易㈱ Menado 社長宮島清次郎 東京 一般輸出入
南洋貿易㈱ Amoerang 社長宮島清次郎 東京 椰子栽培・コプラ
日蘭漁業㈱ Menado 勝山 三郎 東京 鰹鮪漁業
岡田・森農園 Mongondou 岡田雅雄・森貫次郎 コーヒー
管復農園 Mongondou 管復 寛一 コーヒー
田中商店 Gorontalo 田中鉄次 佐賀 一般雑貨輸入
巴商会 Gorontalo 宮井 源太郎 大分 一般雑貨輸入
内田商会 Gorontalo 内田 隼人 雑貨商・ヤシ・コプラ
森古々椰子園 Gorontalo 森 由五郎 ココ椰子・バナナ

 ところで Bitung は日本の水産基地としての歴史は古く、1920年代に大岩漁業が鮮魚販売、鰹節製造を開始している。1940年にはBitung在住の日本人は154人であったという。(海のアジア⑥ アジアの海と日本人 岩波書店) しかし、上記のリストにはBitung の企業は掲載されていない。

永年の疑問が溶けてきた。平成25年 長崎が現地で入手した昭和13年8月時点におけるメナド在留邦人名簿(をもとに企業別に整理したのが下表である。

商業 南洋貿易 稲垣辰夫、細谷完二、中野正、渡部寿康 4
  セレベス興業 柴田鉄四郎、長野智 ほか 13
  二葉商会 柳井稔、上園勝治、菅原、小島正義、弥栄貞三、桶泉荘平 6
  金子商店 正田朝壽、金子繁雄、小熊利重、加藤清 4
  巴商会 山田稔、大谷茂、宮井源太郎、西浜岩一、畑田利夫、小口久 6
  播磨商会 安永盛雄 3
(商業計)     36
水産 漁業・造船 大岩勇 (1902年生まれ、経営者 愛知県出身、昭和20年没 享年43歳) 1
  大岩漁業 金城泰次郎ほか 59
  大岩漁業事務 青山辰巳 1
  大岩漁業機関係 中村久吉、山本正輝 2
  大岩造船部 牛田藤造、倉本(大工)、水井(大工)、加治(大工)、高橋(事務)、宮地、山本、山尾、森田 9
  漁業 玉城喜八 (昭和13年没) 1
  漁業ピジャック 我喜屋武秀ほか 18
  日蘭漁業 池春利ほか 36
(水産計)     127
農業 南貿農園 野田正雄、岩木勝常、宇野毎夫
  カラセ農園 伊藤俊太郎、若菜春時
  栽培業 上田、川辻、方倉、弥栄
  巴農園 加来亥太郎
  小林農園 小林常八
  セレベス農園 有村武熊、金子誠一、鳳至武知久
  ムゴンドウ農園 森庸太郎、森貫次郎、石橋理太郎
  水車業 栗本
  農園 栗本唯助 1
  ハロ農園 管復寛一 1
  コーヒー栽培 河合堅治、長谷部鉄蔵 2
(農業計)     22
サービス 歯科医 秋山、堺田、竹中、木田
  製菓業 鍋島三吉、田中鉄二(?)
  写真業 西山典八
  理髪業 金子好松 1
  雑貨業 池崎敏一、中尾友信、大山孝、今吉団冶、中尾友信、山田正雄、高田喜六郎 7
  大工 野村忠一 1
(サービス計)     16
総計     201

このデータは外務省外交資料館の資料による、昭和14年頃のセレベス島北部の邦人数、メナド日本人会186名、モゴンドウ州日本人会14名、計200名とほぼ合致する。資料によって誤差が生じるのは、集計時期の違いと、また邦人の出入りもかなり激しかったのではないだろうか。

3)セレベス南北事業の相違

 「ジャガタラ閑話」の中に、大正5年から終戦までセレベス島各地で農園経営に当たった 柴田鉄四郎氏の回顧録「セレベス島今昔」が掲載されている。柴田氏によると、南セレベス地域の在留邦人数は 北セレベスと似たり寄ったりだが、性格的に少々趣を異にしていたという。即ち、北部は会社組織が中心であり、農園の開発をはじめ、製油業、漁業の開発、小型沿岸船の運営、ペレン島の雲母鉱山の開発など企業的な活躍が多く、一方、南部では個人商社が中心で、総じて商業的であり、業種は一般貿易及び雑貨商などであったという。

 柴田氏は当時椰子王と称された清水兄弟商会に職を奉じ、専らコプラ貿易に従事し、マリアナ群島、マーシャル群島、ギルバード、エリス群島などで活動していたが、大正5年(1916)、南太平洋貿易株式会社を創立し、メナド支店を設け、サンギル群島タルナ、パタ、タマコシャオ、ハルマヘラ群島のテルナテ、トミニ湾のゴロンタロ、ポソ、北セレベスのケマ、アムラン、南のマカッサル等に分店を置き、コプラ買付け機関とした。丁度、第1次世界大戦 (1914-1918) の最中で、欧州へのコプラの販路がドイツ艦隊のインド洋風封鎖によって閉塞され、日本への輸出以外に道が無かった。そのような恵まれた機会に進出したため、当時の蘭印政府や民衆から歓迎されたという。柴田氏が社船金華山丸(450トン)にてメナド港に着いた当時は、北部セレベスにはシンガポール経由の日本人進出者が12,3人散在していた。その後、南洋貿易(株)が、南洋群島経由で進出し、大分賑やかになった。昭和16年、太平洋戦争の勃発時には百数十名の邦人が活躍するようになった。その内容はコプラ貿易を筆頭に、椰子、ゴム、コーヒー、カポック等の農園経営、雑貨商、タイヤ修理業、歯科医、水産業(鰹漁など)であった。

4)皆様から頂いたコメント

OI 様

 戦前(戦後もかもしれませんが)の日本人のバイタリティーは凄いですね。最近の日本の現状は何と嘆かわしいこと・・

BUP様

金子商店マカッサル支店 の記事に関連して一言、“昭和7年8月22日、南洋郵船の名古屋丸で神戸を出発、8月30日マカッサルに着いた。” この南洋郵船は その後南洋海運と言う、日本郵船系列の船会社が設立されて、インドネシ ア航路は南洋海運に移りましたが、懐かしい船名は引き継がれました。 南洋海運は、戦前、戦時中は兜町に本社が在りましたが、戦後東京船舶 (株)と社名変更、日本郵船の子会社として、昭和26年に東京駅前の東京 ビル(旧)に移りましたが、小生の退社後、日本郵船に吸収合併されて、社名 のみになりました。

Tet 様

 マカッサルはいわゆるトコ族で自転車屋が多いのに興味が湧きます。大石性は静岡に多いです。 南興水産はパラオが本拠でしたが、塚本(当時20歳)が小型漁船にトランク一杯の札束を詰めて ビトンに向かったそうです(距離はそんなにはない)。海が綺麗すぎて鰹餌になる魚がおらず 苦労したそうです。フウフウはなまり節を教わった現地人の創作です。 魚のダシで調理するからマナドBuburは我々には旨いと感じるのでしょう。 その後アンボンへ(州庁舎が南興事務所だったとか)。命からがら脱出した海駿丸がムナ島で撃沈 された。(沈没写真があり現物もまだあるそうです) チモールのルイス氏との料亭での会合写真がありますが、あそこまで進出しようとしていたのですかね。

HS 様

 例外もありますが、出身県が海のある県、西日本に集中しているのですね。 和歌山は、アメリカへの移民を多く輩出している県だとは知っていましたが、 インドネシアのスラウェシにも多くの人が来ていたのですね。わたしの調査地の老人などに聞くと、昔のマカッサルの 一番の中心地は、今のJalan Timur で、ここはPintu Dua と呼ばれていたとのこと。 つい7年ほど前まで、実際、ここにはまさにパニンクル(角の店)の位置に、Pintu Dua という名前のクダイ・コピがありました。シンガポールスタイルの、海南鶏飯が食べられました。 今のヌサンタラからイリアンにかけてのJalan Timur には、金を扱う店がたくさんあったとのこと。さすがに、日本人で金を扱うような人はいなかった様子ですが、このあたりの 華人商人たちとは、どんな関係にあったのでしょうか。老人たちは、華人商人たちとの やりとりや、そのにぎわいのことはよく覚えているようですが、軍関係者以外の日本人の こととなると、まったく知らない様子でした。やはり棲み分けが徹底していたのでしょうか。
 ジョグジャカルタに来て思うのは、華人の存在です。マカッサルとは、まったく違うことに、 驚きます。マカッサルは、やはりインターナショナルな港町なのだなあと、 改めて痛感しています。ジャワの華人は、一口にいってしまえば、もうすっかりジャワ人。 チナ・マカッサルということばが、決して差別的に使われることがないのを思うと、 ジャワ人となってしまった華人の来し方が気になったりもします。

AS

 (マカッサルの企業リストは)皆新たに知る名前ですが、坪野商会とあるのは戦時中マカッサルにありました 「坪野商店」のことではないかと思います。 社長のお名前が記憶してるような気が致します。今月12日より戦友会の連中と 伊豆に車2台で9人の旅行をする事になってますので、その時民政部の住宅管理の 係りの中村氏が行くので、彼は商社の人たちにも詳しいので問い合わせてみます。 若し私のお世話に成った坪野さんならば懐かしいお名前です。良く甲板仕官の 斎藤さんと一緒にお食事に招待され酒保の仕事でも大変お世話に成りました。 確か河野?さん渡部さんと言う二人の女子事務員が居りました。

Wacin

 OI 様のご意見に同感です。最近の日本人の現地進出は、自動車産業など大資本による進出を除いて、現地の資源、安価な労働力を使って商品を生産し、日本へ輸出する、または、日本から来る観光客相手の仕事など、総じて日本を向いた仕事が多いように思います。これに対し、戦前の日本人は雑貨をシンガポール、日本などから輸入して現地住民に販売する形態が多く見られる。一般雑貨輸入で北スラウェシ・ゴロンタロまで進出しているのは驚きです。野村栄太郎氏の回顧録でも、ヘルメット帽子を冠って、一軒一軒日本売薬を行商したことが書かれている。統計の上では低所得に見られているが金持ちはいくらでもいる。現地住民の為のビジネス・チャンスは今でもあると思う。

参考資料