マランのアイスクリーム屋

Kenangan Es Krim di Toko "Oen" Malang

現在の店(撮影 粟竹) 店のメニューに印刷された1930年頃(?)の写真

粟竹章二さんは、第2次大戦中、マカッサルのセレベス民政部に勤務を命じられ、昭和19年2月1日、日本郵船浅間丸にて佐世保を出発、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤを経由し、4月13日にマカッサルに着きました。その間、マカッサル行きの船待の間、19年の3月頃、ジャワ島東部のマラン滞在中、毎日通ったアイスクリーム屋のことが忘れられません。粟竹さんはこのことを、『青春の想い出』に書いています。(写真左は粟竹さん)

 2年前、2009年7月、この粟竹さんの話を、マカッサルのA先生に伝えたところ、マラン在住のA先生の弟さんにも伝わり、そのアイスクリーム屋は、現在でも営業している有名な店、トコ・ウン (Toko Oen) であることがわかりました。後日改めてこの店の情報を、インターネットで検索すると、写真や情報が多数見つかりました。中にはこの店のマネージメントに関する研究論文もありました。

 たまたま、2011年6月、A先生のご長男D氏の結婚式が、東部ジャワのケディリ (Kediri) であり、この機会に粟竹、松田、脇田の3人で、マラン経由ケディリ行きの旅行を計画しました。勿論、マランの目的はアイスクリーム屋、それから当時粟竹さんが長期滞在した吾妻ホテル( 現在 Hotel Pelangi として、67年前と同じ外観が残されている)の訪問でした。戦時中、空襲の激しかったマカッサルと異なり、マランは市内随所に古い時代の建物が残されていました。

1)67年前のマランのアイスクリーム屋の想い出

粟竹さんの『青春の想い出』の中から、マランのアイスクリーム屋の部分を以下にご紹介します。

 日参したのは世界的に有名なアイスクリーム屋さんで「イタリア人の店」の支店がマランに有りました。スラバヤが本店でホテルの支配人が是非食べに行きなさいと教えて呉れまして、泰ちゃんと二人で出かけました。街外れの静かな所に目立たないお店ですが、とても美しいハーフカスの店員さんが愛想良く迎えてくれ、大きなカラー印刷の写真のメニューを見せてくれました。その種類の多い事アイスクリームにこんなにいろいろ有るのかと驚いてしまい、どれから食べようかと迷い、まず番号の一番から注文致しましたら、パイナップルのアイスで量も日本の3倍位でその美味しいこと,生まれて始めてあのような美味しいアイスを食べた事が無く二人で感激致しました。然しお値段も高く酒保のタバコが8セント、石鹸10セント、ビール12セントの時20セント致しました。けどこの味は覚えたら止められず、それ以後毎日通い番号順に食べて行きました。どれも全部味が違いデコレもトツピングも又ものによっては銀の大皿一杯でお腹が満腹に成ることも有りました。

一番印象に残っているのは「Gunung Api火山」で、大きな銀皿に何種類かのアイスで山を作り、周りを果物やその他で飾り、頂上にブランデーかしら火がついて居る素晴らしいもので、一人ではとても食べきれず、お値段も最高で確か70か80セント位だと記憶して居ります。  私は毎日でも良かったのですが辛党の泰ちゃんは飽きてきたと、私一人で通うようになりました。店では既に顔なじみなので,言葉も数多く交わせる様に成り世間話に近い会話も出来、もう座ると次ぎの番号の品を持って来てくれました。 今になって考えると、あの時代にどうしてあのような高度の製造技術が有ったのか,冷凍の機械は発達してたのかが不思議に思えますが、今にでもマランの忘れられない楽しい思い出のひとつです。

2)粟竹さんのトコ・ウン (Toko Oen) 再訪記

2011年6月22日、トコ・ウン(Toko Oen) はすぐ見つかりましたが、店構えが、私の記憶とはまるで違ったもので、一瞬戸惑いを感じました。しかしA先生から戴いた資料から、ここで間違いないので、店に入りました。そして先ずは、67年間の宿願であったアイスクリームを注文いたしました。  胸を躍らせて昔の味を感激を持って期待致しましたら、アレー、普通のアイスクリームだ、とガッカリ致しました。しかし待てよ、あの67年前の戦時下、日本では、アイスクリームなど口に入らぬときに、突然天の恵みか、あのアイスクリームを食べたのですから、さぞや味覚神経も驚いて感激したことだろう。現代の飽食の時代、美味しいものが溢れている今と比較するのは間違っている、と感じ、今度は別の視点で良く味を観察いたしました。

落ち着いて良く味わうと、確かに街で大量生産してる製品とは一味違う手作りの繊細な味わいがあり、やはり歴史に残る味かなと、納得いたしました。 しかし店構えなど、納得いかない点も多くあり、若い店員に聞いて見ました。店員の話では、この店は創業当時より既に4回移転しており、私の通った1944年当時から3回移転していると言う。当時のことはよく知らないが、ダウンタウンを通り抜け、住宅街の一部にあったらしい、との情報を得ました。それなら私の記憶にも合致します。私が通ったのは、多分、ここに移転する前の、住宅地にあった店ではないかと思います。

当時は住宅街の中で店も小さくテーブルも5.6個であったと記憶してます。当時は「Toko Oen」でなく「イタリア人の店」と言っていました。現在店で働いている店員に聞いてみましたが、分からないようでした。当時の従軍記に吉川英治や森田たま女史の随筆にも出てくるが、何故「イタリア人の店」なのか現在では不明だそうです。イタリア風のアイスクリームの店だからでしょうか、当時の軍政部の職員が日本人にも解りやすいように改名させたのでしょうか?  翌日23日、再度店を訪れました。その時はこの店に勤続38年になる支配人のMr.Suryono Daeng Riza 氏に逢うことが出来ました。(写真左)彼からこの店の歴史など詳しく教えてくれました  Riza氏によりますと「今はアイスクリームは街に氾濫しており、昔はこの店だけのオリジナルを作っていたが、今では数種類にとどめ一切の化学添加物や合成香料など使わず天然ものに拘っているとのことで、昔のようにアイスクリームだけでは客を呼べないのでレストランを主体にするようになったと寂しそうに語っていました。 クッキーが有名らしく自慢してました。別れる際に昔の Toko Qen を覚えて居て下さり、訪ねてきてくれたのはとても嬉しかったと感激して堅い握手をして別れました。 別れ際にRiza 氏に「私が通っていた時の綺麗なハーフのお嬢さんは如何しているかね?」と聞いたら「きっと今でも時々Tuan の夢を見てますよ」とウインクしてくれました。  店の所在地や店構えなど昔の面影は残って居りませんでしたが、懐かしい昔の味に接し、本当に楽しかったマランの日々が、走馬灯のように蘇った楽しい想い出の2日間でした。この幸せの機会を与えて頂いた、アグネス先生ほかの皆様に、深く感謝申し上げます。

3)トコ・ウン (Toko Oen) の変遷

インターネット検索でこの店を調べると、トコ・ウン (Toko Oen)は、かつて4つの店があり、①ジョクジャカルタ(1910-1937)、②ジャカルタ(1934-1973)、③スマラン(1936-now)、④マラン(1936-1990)にあったと記載されています。ジョクジャカルタが1910年創業で、一番古いようです。その後ジャカルタは1934年、スマランとマランは1936年開業となっています。

 ところで、マラン店のメニューには "A Colonial Landmark Since 1930"と書かれています。別資料では1936年と書かれています。次いで説明文では、 This historical building was constructed around 1930. と書かれています。しかし粟竹さんが店員に聞いたところ、これまで4回移転しているとのことで、この辺りは、インドネシア流なのでしょうか、どうも曖昧です。

 トコ・ウン (Toko Oen)は、もともとクッキーの店だったそうです。マランの店では、今もクッキーを販売していました。1922年頃、トコ・ウン (Toko Oen)は、クッキーの店からアイス・クリーム・パーラーに変わる。粟竹さんが通った1944年の時点では、アイスクリーム・パーラーだったようです。その後、レストラン部門も開業する。レストランのメニューは、オランダ料理、インドネシア料理、中国料理です。

 マランの店は1990年、自動車ショールームとして買収されました。しかし、その後、この建物は、マランの歴史的建造物として認知されたため、マラン市は建物の改築を禁止しました。今もレストラン、アイスクリーム・パーラー、トコ・ウンとして営業しています。このような小さな古い店が、歴史的価値を認められたことは素晴らしいことです。この店のサービスは、食事や飲み物を提供するだけでなく、他の店では味わうことのできない、古き良き時代の郷愁なのかもしれません。外国からのリピーターも多いようです。

追記

 松井和久氏の話では、マランにある現在のToko Oenは昔のそれの直系ではない(らしい)ということでした。松井氏が現地で聞いたところ、Hotel Tuguのレストランのパンが昔のままのパンを出している、ということでした。この話は、今から約15年ぐらい前に、Hotel Tugu のレストランで確認されたそうです。店で働いていた職人さんがトコ・ウンから独立して行ったということでしょうか??

参考資料