興亜専門学校生の太平洋戦争

マカッサル花機関と吉住留五郎

脇田 清之  K.Wakita

 太平洋戦争中、マカッサルに、インドネシアの独立の支援などを行う海軍特務機関、花機関があった。興亜専門学校(現亜細亜大学)等で、インドネシア語を学ぶ学生が大量動員された。しかし占領政策のふらつきにより、1944年4月に廃止になった。花機関の責任者は、インドネシアの独立運動に一生を捧げた吉住留五郎であった。
Selama Perang Dunia II, di Makassar terdapat lembaga rahasia angkatan laut Jepang yang disebut "Hana kikan" yang bertujuan untuk mendukung kemerdekaan Indonesia. Pada waktu itu mahasiswa yang belajar bahasa Indonesia di Koa Senmon Gakko (sekarang Asia University di Tokyo) terpaksa dimobilisasi. Namun lembaga Hana Kikan dihapuskan pada bulan April 1944 karena goyangan kebijakan pendudukan oleh pemerintah Jepang. Pemimpin lembaga ini adalah Tomegoro Yoshizumi yang mengabdikan hidupnya bagi kemerdekaan Indonesia.



故市来・吉住両君の記念碑

市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず
全人類のものなり

1958年2月15日
東京にて
スカルノ


PRESIDEN REPUBLIK INDONESIA
Kepada sdr. Ichiki Tatsuo
dan sdr. Yoshizumi Tomegoro.
  Kemerdekaan bukanlah milik
sesuatu bangsa saja, tetapi
milik semua manusia
Tokyo 15 Februari 1958
Soekarno

 東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗 青松寺(せいしょうじ)境内の右奥に、1958年(昭和33年)、当時のインドネシア大統領スカルノが、同国の独立に尽力した二人の日本人を顕彰した碑がある。1958年は、日本とインドネシア共和国との間の平和条約が締結された年である。


亜細亜大学構内にある興亜神社

戦没同窓生の英霊が祀られている

 JR中央線武蔵境駅ほど近くに立地する亜細亜大学、その構内の一角に、大学の戦没同窓生97柱の英霊が祀られた興亜神社がある。亜細亜大学の前身は、昭和16年(1941年)に設立された興亜専門学校である。神社内に建立された戦歿校友銘碑には、氏名、学年度、戦歿年月日、戦歿場所が刻まれている。戦歿場所は、アジア全域にわたっているが、その中で、バシー海峡・万光丸で17柱、マニラ沖・鎌倉丸9柱、マカッサル3柱、ボルネオ3柱などが目に留まった。

 1942年(昭和17年)の年末、青松寺の顕彰碑に記された、吉住留五郎が、この興亜専門学校、および同校と兄弟校である興南学院南方語学校両校を訪れている。太平洋戦争の最中、蘭領東インド(現在のインドネシア)に出征を志願する若者を勧誘するためであった。この訪問の半年前、1942年(昭和17年)の中頃、マカッサルに、海軍占領地区の情報収集を主任務とする「花機関」ができ、吉住留五郎はこの機関の責任者となっている。花機関の任務は、インドネシア語の通訳、治安・情報収集、そしてインドネシアの独立の支援、と幅の広いものであったが、戦前からインドネシア独立運動家との交流があり、蘭印政府から国外追放されたこともある吉住にとって、インドネシアの独立支援が最大の使命だったのではないだろうか。吉住隊員に課せられた使命は、適性民をスパイするということより、各地にばらまかれた隊員からの情報で、その土地の民情を中央に知らしめ、さらに軍人でない隊員たちによって、原住民との間に人間的なつながりを持つことであった。この吉住が、海軍の命を受けて、機関員を募集のため同校を訪問したのだった。吉住の講演は、威厳に満ち、説得力があり、学生の胸を打ったという。

 1943年(昭和18年)2月10日、吉住留五郎は、興亜専門学校、興南学院南方語学校両校の生徒を率いて、徳山港から貨物船、昌平丸(三井船舶、海軍徴用船、7,255屯)に乗り、マカッサルへ出発した。そのときの記念写真、寄せ書きの写真が、亜細亜大学の図書館に残されている。寄せ書きには『白雪の徳山埠頭、征途に就かんとするに当たり謹しみて藤原繁先生に贈る。昭和18年2月10日 吉住留五郎』と書かれ、66名の署名が残されている。藤原繁(1907-1978)は、興亜専門学校の実質的な創立者である。吉住留五郎と興亜専門学校学生の一行は、昭和18年3月3日マカッサルに到着し、約4ヶ月の現地訓練のあと、機関員は、東はティモール、西ニューギニア、小スンダ列島、ハルマヘラ、アンボン、セレベス、ジャワ、ボルネオと、海軍占領地区に分散配置された。その後、花機関の本部は、マカッサルからスラバヤに移った。1943年4月には連合軍によるマカッサルの空襲爆撃が始まっていた。

亜細亜大学図書館蔵書 藤原繁先生追悼集より

鎌倉丸・万光丸の悲運

  1943年(昭和18年)4月18日、後続の興亜専門学校の学生12名が、神戸港にて、海軍の徴用船、鎌倉丸(17,526総トン・日本郵船所有)に乗船した。この船は、かつて太平洋の女王として、北米航路に君臨した、世界に誇る豪華客船である。日本海軍がセレベス島を占領してから、多くの邦人がこの鎌倉丸でマカッサルの土を踏んでいる。4月28日、鎌倉丸は、南方向け軍需物資と、約2500人の海軍軍政区要員を乗せ、マニラーバリクパパン間を単独航行中、パナイ島沖で、潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。2000人以上の乗客が犠牲となった。興亜専門学校学生も9名が犠牲となった。船舶の沈没によって犠牲となった興亜専門学校関係者は、鎌倉丸のほかにもある。1944年(昭和19年)7月31日、これも日本郵船の万光丸(4,471総トン)が、ルソン島北方30哩の海上で、魚雷を受け、瞬時に沈没し、興亜専門学校学生17名が犠牲となっている。

更なる派遣要請

 1944年(昭和19年)のはじめ、海軍より、再び学生50名を派遣するよう、学校に要請があり、半ば強制的に、一年生50人が派遣されることになった。1944年(昭和19年)2月、一年生50名は、門司港を出航した。シンガポール、ジャカルタを経て、3月下旬インドネシアのスラバヤに到着した。ここは海軍第二南遣艦隊の根拠地で、花機関は、すでに空爆の激しいマカッサルからスラバヤに移っていた。彼らはここで第二南海派遣艦隊司令部付特務機関花要員として正式に任命され、2ヶ月にわたる特訓が始まった。マレー語の学習、戦況の分析、宣撫活動の方法などで、吉住留五郎氏も毎日のように教室に現れ、国際情勢などを教えたという。

花機関の解散

 花機関は1944年(昭和19年)4月1日、解散した。活動機関は約1年であった。解散の理由は分からないが、1943年(昭和18年)夏頃、「海軍占領地域は、将来とも海軍占領下に置く方針で行動するように言われていて、インドネシアの独立運動に一筋に協力して来られた吉住先生のご胸中は如何であったろうかと推察されました。」と書かれた回想記がある。花機関が発足して間もなく、このような方針が出され、花機関不要論になってしまったのでしょうか。(注:1944年9月になって、日本政府はインドネシア独立を容認する方針転換を行っている。)

 責任者の吉住はジャカルタの海軍武官府へ異動となった。各地に配置されていた機関員は、各地区の警備隊に組み込まれた。その後の対応について、配属先によってかなり対応が異なったようだ。遠隔地へ配属された機関員は、本部の指示も届かず、お互いに連絡もとれなかった。各自の判断で、諜報活動か、インドネシア独立運動支援かのいずれかに重点を置いて仕事をしていたという。諜報活動や通訳の仕事に関わった多くの隊員が、敗戦後、戦争犯罪容疑者として受難することになった。多くが戦犯裁判にかけられ、数名の者が死刑に処され、あるいは獄死し、10名ほどの者が7年から25年の刑を受けている。

吉住留五郎のこと

  この花機関の責任者、吉住留五郎(よしずみ とめごろう 写真:荘内日報社)は、1911年(明治44年)、山形県西田川郡大泉村に生まれた。1932年(昭和7年)、21歳のとき、バタビアで雑貨商をしていた、遠縁の者を頼って、ジャワに渡った。その後、在留邦人向けの邦字紙を発行する、日蘭商業新聞の社長、久保辰二にひかれて、そこで記者として働くようになる。吉住は、インドネシア人や、華僑の人達の中を歩き回るうちに、インドネシア人が、オランダ300年の圧政のもとで苦しみ、独立への希望を持っていることを知る。アジアの小国、日本が大国ロシアに勝ったことをインドネシア人達は知っていた。こうした中、吉住のインドネシア独立運動家との結びつきが、蘭印当局の知るところとなり、1941年(昭和16年)1月、蘭印政府は、吉住を国外追放処分とした。当時すでに南方作戦を準備していた海軍軍令部は、インドネシアの風土、人間の心に精通した吉住に着目する。『ともかく、開戦となった際、インドネシア民衆の内側から、オランダに対し反乱を起こさせ、日本側の作戦を有利に展開させ得る人間は、吉住しかおらん』、のちにジャカルタの海軍武官府の責任者となる前田精(まえだ ただし、1898-1977)が語っている。前田は海軍駐在武官としてハーグに勤務した経験もあり、自由主義的な思想の持ち主であったと言われている。吉住のインドネシア潜入計画が練り上げられた。

 しかし計画は失敗。開戦直後の1941年(昭和16年)12月9日、吉住はバンカ島へ上陸した直後、日本人スパイとして逮捕された。逮捕されたあとは、他の蘭印在留邦人と共に、オランダの貨物船クレメール(Cremer)号に乗せられ、豪州に向かう。一般邦人も焦熱地獄の船倉に押し込められたが、スパイとして檻の中で、鎖で繋がれた吉住は、水も与えられず、20日間の航海で骸骨のようにやせ衰えたという。この拷問で、吉住は、後年、結核に冒される。その後、1942年(昭和17年)10月、捕虜交換が行われ、吉住は、シンガポール経由、ジャカルタに辿り着いた。しかし吉住は、厳しい拷問のため肋膜を病み、治療のため17年11月に一時帰国する。帰国中、吉住は興亜専門学校などを訪れ、花機関員の勧誘を行っていたことは、すでに記した。

そして1943年(昭和18年)2月、吉住は興亜専門学校ほか生徒を引率し、マカッサルへ渡り、花機関の活動を開始した。しかし、隊員達から集まる情報は、日本軍の横暴と、原住民の嘆きが多く、吉住の理想とは、まったく相容れないものであった。1944年(昭和19年)4月1日、花機関が解散すると、吉住は、前田精のいる、ジャカルタの海軍武官府で、渉外部第三課長の席を与えられ、情報活動を受け持った。その後も、吉住はインドネシア民衆の側に立った、模索を続け、1944年(昭和19年)、独立塾(Asrama Merdeka)を作り上げた。インドネシアの青年の中から優秀な者を選び、組織的な運動が出来るように教育しようという熟だった。講師には、のちに大統領になったスカルノやハッタがいた。

 8月15日終戦、インドネシアの独立宣言は17日に行われたが、前日の16日に、ジャカルタの一角で独立宣言が起草された。ここの出席したのは、スカルノ、ハッタ、スバルジョ。そして日本人は前田精、西嶋重忠、吉住留五郎の三人であった。

 吉住留五郎は、日本敗戦後、インドネシアの独立戦争に参加、一個師団の軍隊を持ってオランダ軍に対して、ゲリラ戦を展開する。このころから彼の結核は悪化し、血を吐きながら山中を転戦するが、1948年(昭和23年)8月10日、東ジャワ・ブリタル近郊のセゴン山中で戦病死した。37歳の若さであった。

市来龍夫のこと

 青松寺の記念碑に、吉住とともに記された、もう一人の日本人、市来龍夫は、吉住の日蘭商業新聞時代の記者仲間で親友であった。吉住とともに独立戦争に参加したが、1949年(昭和24年)1月9日戦死している。市来亡きあと、は、杉山長幹(インドネシア名スカルディ杉山)が特別ゲリラ隊長を継いだ。スカルディ杉山の墓はマカッサルの英雄墓地にある。

岡田晃三さん

 岡田晃三さん(1926~ )は、1943年(昭和18年)、興亜専門学校入学。語学はインドネシア語を専攻していた。1944年(昭和19年)2月11日、小雪の舞う下関港を、50名の学友とともに出港した。シンガポール、ジャカルタ経由でスラバヤに着いた。ここは海軍第二南遣艦隊の根拠地だった。海軍の兵舎に入って、1ヶ月間、インドネシア語、民族史、治安、諜報などの訓練を受けた。研修を受けたあと、マカッサル、メナドを経て、メナドから約500km離れたパレレー(Paleleh, 中央スラウェシ州トリトリ県)という田舎町へ着任した。マカッサルでは、メナド行きの船を待つ間、歌手の藤山一郎さんの歌を聴いたことはいまでも忘れられない。パレレーでは、インドネシアの独立のため、小学校の開設、インドネシア語、日本語の普及に力を注いだという。今日のJICAの青年海外協力隊のような活動であった。吉住の目指した花機関は、インドネシアの独立を支援する青年海外協力隊であったのかもしれない。岡田さんは、終戦後、約1ヶ月間、マナド刑務所での生活を経て、モロタイ島経由、昭和21年6月に復員した。

矢野弘明さん

 矢野弘明さん(1924~2008)も、興亜専門学校での学業半ばでマカッサルの花機関に組み込まれた一人であった。花機関時代、およびその後の経歴は不明であるが、「オランダ側のスパイを捕まえる仕事」も経験されたようだ。そのため矢野さんは、終戦後、昭和21年4月に戦犯容疑者収容所に投獄された。

 この収容所には、昭和21年4月の時点で、110人の邦人が収容されていたという。マカッサルの住民から「拷問された」「叩かれた」などの訴えにより死刑を言い渡された仲間も多数いた。処刑者の中には、興亜専門学校時代の同級生(海軍嘱託)3名も含まれていた。矢野さんの場合には、たまたまインドネシアの独立運動で、寝食を共にした現地の青年が「ヤノはいい人だ、食べ物や衣類を差し入れ、支援してくれた」と証言してくれたため、1947年(昭和22年)12月釈放された。1年9ヶ月の収容所生活の間、多くの処刑者の遺体処理、埋葬に関わった。1948年(昭和23年)1月復員。「死刑になるか否か、その瀬戸際にいたとき、昔の仲間が、私の命を救ってくれた」恩返しの気持ちから、帰国後、地元に、宮崎県インドネシア協会を設立、インドネシア留学生たちの支援を続けた。(写真:マカッサル法廷における刑死者(花機関の3名を含む)の慰霊碑

米山友一さん

 米山友一さん(1925~ )は、スラバヤで2ヶ月間の特訓を受けたあと、他の6名とともに、セレベス島のクンダリ(現在の東南スラウェシ州)へ移動した。そのあと米山さんは単身ボネ湾東岸のコラカに着任した。当時人口5000人ほどの街だったという。コラカの近くのポマラには、住友金属が接収したニッケル鉱山があり、多くの日本人が働いていた。濠州のダーウィンに敵のスパイ養成所があり、インドネシア人(おもにアンボン人)を教育して、日本の占領地区で暗躍させていた。こうした中、米山さんは商社駐在員を装い、スパイ狩りの任務にあたっていた。その後、花機関は、海軍特別警察隊に併合されたが、現地の人達はトッケイと呼び畏怖したという。(写真:南十字星 私の履歴書より)

 インドネシアの独立宣言のあと、セレベス島でも独立戦争が始まり、日本軍から将校、下士官兵が脱走し、独立軍に参加する者もいた。兵補(日本軍政下に制度化したインドネシア人兵士)が独立軍の中核となった。東南スラウェシ州コラカのポマラの丹下隊の樺島一郎中尉、甲板下士戸渡勝身上曹、従兵渋江二曹がコラカ方面の独立軍に身を投じた。米山さんもインドネシアの独立軍に身を投じる覚悟であったが、上官の樺島一郎中尉から「おまえ達は若い。やり直しがきく。一度内地の様子を見てからでも遅くない。」と諭された。連合軍は日本軍を再武装させ、討伐隊を編成、独立軍の討伐を行ったが、地理に明るい現地インドネシア人の独立部隊は神出鬼没に行動し、逆に討伐隊に戦死者が出ただけで、その効果は上がらなかった。独立運動に身を投じた旧日本兵のほとんどは戦死したという。米山さんは、1946年(昭和21年)6月、他の旧日本兵とともにパレパレ港を出港、帰国した。戦後40年以上が経過しても、インドネシアの独立戦争に参加して命を落とした仲間のことを忘れることは出来なかった。1992年(平成4年)、米山さんは、マカッサル総領事館の佐久間氏や、コラカ県知事の全面的な協力を得て、当時米山さんの部下で、兵補のアリー氏と奇跡的な再会を果たした。そこで、はじめて樺島中尉ほか3名の最後を知った。1995年(平成7年)、米山さんは、現地にコラカ地区で独立戦争に参加し、戦死された方達の慰霊碑を建立した(写真上)。米山さんは、いまでも樺島隊長に命を助けられたことに恩義を感じている。

畑田実さん、金井清さん、池田末吉さん(追記 2012年10月15日)

 海軍嘱託、花機関所属であった畑田実、金井清、池田末吉の3名は、終戦後、日本軍の集結地に向かわず、請われて、インドネシア独立戦争に加わった。同じ興亜専門学校同期の岡田晃三氏によると、インドネシアの独立戦争が始まった直後、彼らが赴任していた地域のある部落が、オランダ軍によって焼き討ちされ、村民の多くが殺されたという知らせが3名のところへ届いた。3名は、これを座視出来ず、手榴弾と機関銃でオランダ軍の兵舎を襲撃したという。しかし、ダイナマイトによる兵舎の爆破に失敗し、 3名は即刻逮捕され、昭和22年6月19日処刑された。獄中、20歳を越えたばかりの3青年を、皆は爆弾三勇士と呼んでいたという。

おわりに (2012年6月21日)

 これまであまり知られていないマカッサルの海軍特務機関「花機関」について整理してみた。しかし実施主体である海軍の記録も探す必要があると考え、防衛研究所に残されている海軍の記録を探してみた。

 マカッサルには海軍の第23特別根拠地隊が終戦まで所在した。左の写真は、昭和17年3月10日~昭和19年12月31日「第23特別根拠地隊 戦時日誌」の中の、昭和18年3月31日時点の組織表である。吉住留五郎と興亜専門学校学生の第一陣は、昭和18年3月3日マカッサルに到着しているが、海軍特務機関「花機関」に関係する記述は見当たらない。さらに、大戦中の全期間を精査したが、花機関に関する記述は見つからなかった。花機関員は軍令部直属で花田行武少将をリーダーとする極秘の諜報組織であったから、当然のことかも知れない。(防衛省防衛研究所レファレンスコードC08030263300)

参考資料