ロッテルダム要塞(2)

太平洋戦争中のロッテルダム要塞
Fort Rotterdam selama perang Pasifik

脇田清之 Wakita K.

日本軍政時代のロッテルダム要塞とその周辺について、最近収集された資料を少し整理してみた。ロッテルダム要塞は昭和17年時点では資源調査団の本部、その後、昭和18年5月、この資源調査団が母体となった海軍マカッサル研究所が使っていた。 マカッサル研究所の職員が記した「海軍マカッサル研究所職員想い出集」、また、海軍地区南方資源調査団が昭和17年7月から12月頃にかけて撮影した写真、蘭印時代の写真などから当時の要塞の様子が少し分かってきた。

1)裏門(東門)・処刑場・謎の地下道

 「想い出集」には要塞内の研究所の配置図が残されている。(左の図)。この図によると、海岸通りに面したところ(図の右側)に正門があり(現在と同じ)、その反対側、建物のほぼ中央部分に「裏門」と記されています。このたび、この「裏門」を撮した写真が発見されました。昭和17年7月から12月頃にかけて海軍地区南方資源調査団員としてマカッサルを訪れた近藤鑅三郞(こうざぶろう)氏の写真アルバムの中に、ロッテルダム要塞の東側を撮した写真があります。(下の写真) この写真のほぼ真ん中に裏口らしきアーチ状の開口部が見えます。現在は要塞の壁の外側に大きな建物が接していますが、昭和17年の時点では建物は無く、草原のようになっています。裏門の先には水路を跨ぐ橋が見えます。
 写真で見る城壁内の東面に並ぶ建物の配置は想い出集の中の配置図と異なっています。配置図では大きな建物が描かれていますが、写真では比較的小さな棟が並んでいます。また要塞の中には大木が茂っていた様子も窺われます。

 

さらにこの想い出集には次のような記述がありました。
 南側に罪人の処刑用の広場か、 首切り用のギロチン台が赤茶けて残されて居た。裏門の通路はS字形に曲がっており、 二階には牢獄がそのままに残されて、大部屋、独居房が有り、何やら入獄者の落書きや、足枷せ、手鎖り、拷問用の責め道具が散乱していた。又同建物の南角の一階の半地下室は水牢の様に思われた。当時は商館と言っても支配者の軍隊・警察の機構を持って居たのであろう。
 所長室(所内中央の教会棟)の下のマンホールからカレボシ広場迄、地下道が有り、 施設部の人が入り確認したと聞いた。しかし現在は判らなく成っているとの事である。

 裏門(東門)についてインターネットで調べたところ、蘭印時代の1926年に撮影された写真があった。当時の兵士がパレードのため東門から出て、橋を渡っている写真です。("Rendez-vous Batavia - June 2006 - Holland" Drs D. Teeuwen Msc - H. Doorn 写真左)
 現在この辺りにはガルーダ航空などの大きな建物がありますが、近藤氏の写真から、1942年の時点でもほぼ同じ景観が残されていたようです。

 2009年6月、マカッサル湾、サマロナ島近くに沈む旧日本海軍の第11号掃海艇からの遺骨収集が行われた。遺骨収集のあと、ロッテルダム要塞の南、現在博物館になっている建物と城壁の間の広場で焼骨が行われましたが、この広場はかつて「罪人の処刑用の広場」だったのでしょうか。

2)かつて美しかった要塞周辺

 

蘭印時代の1925年に撮影された写真があった。(写真左) これを見ると1925年の時点では要塞の周囲に建物はないことが解ります。また要塞の北側、写真の右の部分、道路の配置が現在とは異なります。現在のカレボシ広場の北側を通る道路、 Jl.Ahmad Yani は一直線に海岸まで通っているように見えます。

 

Foto udara Fort Rotterdam pada 1925
"Rendez-vous Batavia - June 2006 - Holland"
Drs D. Teeuwen Msc - H. Doorn

近藤鑅三郞(こうざぶろう)氏の写真アルバムの中のもう一枚の写真には要塞内の建物が写っています。(上の左側写真) 当時と較べて、要塞内の建物の形や配置はすっかり変わっているので、この写真がどこの部分を写したのか分かりません。前述の配置図を手掛かりとして推測すると、多分、海寄りの北の角の部分ではないかと思われます。右側の写真は2009年7月に撮影された同じ場所の写真です。

昭和17年に撮影された要塞内の建物 要塞西北端の建物
平成21年7月粟竹氏撮影

 現在、建物の後ろに国営ラジオ局RIIの電波塔が見えます。しかも電波塔は要塞の壁際にあるのでたいへん目障りです。当時の地図で見ると、城壁の北側のラジオ局の場所は「ユリアナ公園」と記されています。この公園には野外音楽堂があり、美しい地域であったようです。この目障りな電波塔や建造物を撤去し、将来、ロサリ海岸~ロッテルダム要塞~(旧ユリアナ公園)~ハーモニー(現在の南スラウェシ文化・芸術センター)一帯が再整備され、再び美しいマカッサルの街が甦ることを願っています。

参考地図
戦前のロッテルダム要塞、ユリアナ公園、南スラウェシ文化・芸術センター・ハーモニーの位置関係。 (Google の航空写真使用)  現在の航空写真を使っているので道路配置は当時と異なります。

戦前、ユリアナ公園には野外音楽堂もあり人々は野外で軽音楽を楽しんだことが “Koningsplein 1916: Percakapan Senja Hari”に書かれています。

マカッサルへの空襲が激しくなって、この公園の辺りに防空壕が掘られたことが、当時の記憶を頼りに描かれた地図(平賀氏作)に記されています。

3)空襲による被害

 「想い出集」の中には 空襲によりロッテルダム要塞内の建物もかなりの被害を被ったことが記されています。小山幸七氏は次のように書いています。
 「昭和十八年十月下旬頃からマカツサルにも空襲警報、敵機来襲の日々が多くなってきた。敵の目的はボルネオ島のバリックパパン、サマリンダ、タラカンの油田地帯を壊滅せんと豪州北部又はニューギニア島のポートモレスビーの飛行場を飛び立った爆撃機の航路で、はじめの頃は通り過ぎる程度であったが十一月に入り先ずマカッサル港を空襲し、そして 十一月三日には敵機十二機が来襲し海岸線一帯を爆弾の雨、相当な被害を被る。 ロッテルダムのマカッサル研究所は庶務課に直撃弾、地質鉱物部、農林水産部、会計課 などの屋根に焼夷弾が落ちた。地質鉱物部長付属室の私達は危険を感じ、十月中に事務室 を部長官舎に移転していたので空襲の恐ろしきは知らなかったのである。その後ロッテルダム内での執務は困難となり十一月十五日をもってマカッサル研究所を 分散、縮小することになり各部ともそれぞれ疎開していった。

 一方、要塞内の関係者の話では、日本軍政時代に要塞内の北東の部分に2棟新築しているという。いつ頃何の目的で造ったのかは分かりません。

参考資料

2009年11月23日掲載
2009年11月26日加筆修正
2009年12月7日加筆修正