日本軍政下の木造船建造

脇田 清之

 
写真1
戦時中セレベス島における木造船進水式
セレベス新聞 昭和19年1月??日付
写真2
木造船船内作業風景
セレベス新聞 昭和19年6月3日付

 太平洋戦争中、物資の海上輸送能力増強、また現地における船舶の修繕施設の運営を目的として、軍の要請により日本の造船会社が東南アジア各地に進出している。セレベス島にも4社が進出した。4社が進出した時期は不明であるが、昭和18年2月3日付けのセレベス新聞に「民間企業により木造船起工」の記事が出て来る。
 写真1は昭和19年1月頃のセレベス新聞に掲載された進水式の風景である。「進水式は石田民政部長官代理や軍関係者臨席のもと、造船監督官立ち会いで、進水綱が切られ、日の丸を掲げた真新しい船体は滑るように動き始めた。自分らで造った船を見ていた黒山のような原住民たちは一斉に歓声をあげ、中には日本語で万歳、万歳と叫びながら船の跡について水の中まで入って行った者もある。」と進水式の模様を伝えている。
 写真2は現住民工員による船内作業風景で、「余る資材、上がる技術 制海へ・造船も順風満帆」と勇ましい見出しが付けられ、記事中「ここ製材設備の拡充に促されて伐木は進捗している。耐久、硬度においてララ材(学名トロシドロス・ペテイ・オラタ)はリグナムバイター(軸受材)にとって代わり造船材の現地自給に大きな役目を果たしている。原住民工員の熟練とともに邦人技術者はどんどん増員されている。」と書かれている。本当に順風満帆であったかは疑わしいが、大勢の日本人が投入されたことは事実のようだ。新南興業では130名、メナド造船でも数十人の邦人が働いていた。

 防衛庁防衛研究所に保管されている戦史室史料「戦中のボルネオ、セレベス産業開発」(堀俊蔵著)によると昭和18年1月18日中央決定によりセレベス島には下記の4社が進出と記されている。これらの造船所では日本の戦時標準木造船が建造されたものと思われるが、実際この島で何隻建造されたのかは不明である。

防衛研究所・史料 「戦中のボルネオ、セレベス産業開発」 @民政34
マカッサル 株式会社播磨造船所
マカッサル 新南興業組合(一覧別表では抜けている)
メナド、ブートン島ラハ メナド造船製造株式会社
ケンダリー 井関物産洋行

株式会社播磨造船所

   石川島播磨重工業出身の富田 健一氏の調査では石川島播磨重工業社史の中に、 「播磨造船所は昭和17年南方各地で軍が接収したアメリカ、イギリス、オランダの造船施設の運営について政府の委託を受け、同年6月インドネシアのスラバヤに分工場を開設したのを始め6工場を引き受け、工場の復旧、艦船の新造、修理を行った。さらに18年6月には満州国ハルピンに播磨工廠を開設、河川警備用艇の建造に当たった。」 と記録されている。また、小野塚一郎著 「戦時造船史」太平洋戦争と計画造船(日本海事振興会発行)の 281ページに、(チ)ジャバ、ボルネオ、セレベスの項あり、マカッサル(セレベス島)(播磨造船委託経営、 スラバヤ第1分工場(播磨造船委託経営)  スラバヤ第2分工場(播磨造船委託経営) 等の記述がある。播磨造船所が進出したマカッサルの造船所についての記録は全く残されていないが、おそらくオランダ海軍関係の施設であった現在の国営PT.IKI造船所 (PT. Industri Kapal Indonesia) と思われる。

その他の造船所

 倉成好雄著「蘭印滞在記」(1988年清水弘文堂発行)には同氏が昭和19年2月から10月末にかけての約8ヶ月間マカッサルに滞在し、その間南スラウェシ各地を調査で訪れたことが記されている。その中に日本軍政下に進出した日系の造船所も含まれている。倉成氏はそこで従業員のための衛生指導を行っている。ここに出てくる造船所は南スラウェシだけなので北スラウェシも含めると相当の規模であったと思われる。倉成氏の資料は地方巡回の報告書なのでマカッサル市内にあった株式会社播磨造船所は除外されていたようである。また工場の所在地が中央決定と実際にあった場所とは全く異なっていて、当時の混乱ぶりが窺われる。また数千人規模のインドネシア従業員がいたので日本の木造船技術がその後のインドネシア木造船の建造技術にどの程度影響を与えたのか大変興味深い。

所在地 企業名 概況
バルウ 新南興業
バルウ出張所
木造漁船の建造で月に5隻建造、13名の邦人の下に約400人のインドネシア労務者が働いている。バルウ、タネテ、タカランの各川の上流に採木地がある。
パレパレ 新南興業 邦人130名、インドネシア人2,200人
ポレワリ
(トニヤマン)
井関造船
トニヤマン工場
ポレワリの南方約3kmのトニヤマンでがある。日本人32名の下でインドネシア人2700人。
マリリ川北岸 メナド造船所 邦人数十人、インドネシア人多数

 新南興業は所在地は中央決定のマカッサルではなく、実際にはパレパレとバルウで操業していた。元メナド造船所のマカッサル支店に勤務していた本木啓輔氏もパレパレの近くに木造船建造会社があったことを記憶していた。(2002.11.07 松井氏資料による) パレパレには現在も木造船の工場があり、パレパレの木造船工場は伝統的なピニシを建造するタナベルやマジェネのような砂浜ではなく、引揚船台を備えた“造船所らしい”造船所である。新南興業の技術を継承している可能性もあり興味深い。

 メナド造船所は北スラウェシのマナドに本工場があり、分工場は中央決定では東南スラウェシ州ブートン島ラハ(これはムナ島の誤り)となっているが、実際には南スラウェシ州のマリリ川北岸にあった。前述の本木啓輔氏も「 メナド造船は北スラウェシのボランギ工場とマリリ工場の二つの工場を持っていた。」と証言されている。本木啓輔氏はマカッサルからマリリへは1回しか行ったことはないが、パロポにオランダ人の宿泊施設があり、そこに1泊して翌日マリリへ向かったとのこと。(2002.11.07 松井氏資料による)

 井関造船の所在地は中央決定のケンダリーではなくポレワリであった。倉成氏はマカッサル研究所の衛生の研究者であったため資料を日本へ持ち帰ることが許され記録が残っていたこと、また実際に工場を訪問されていることから記述はかなり正確なものと思われます。

木造造船所の実態

 こうした木造船の工場はジャワ島、ボルネオ島にも多数あり、「戦時造船史」には下記のような記述がある。
「そして艦隊命令により造船の監督に関しては計画の樹立、発注、技術監督、特殊資材の供給は第102工作部(本部スラバヤ)において主管し、一般業務および会計の指導監督、造船施設の建設整備、木材の供給斡旋、労務者の確保斡旋などは民政機関がこれを担当した。その実態は昭和18年度計画については19年3月現在に於いて、造船所12、命令数73、起工数59、進水数24、完成18であり計画の23%に過ぎないが、そのネックは、主機関その他資材の入手難、技術工員および労務者の不足等であった。19年度においては3〜4倍の成果を期待(民政府関係約4万屯完成予定)して重点的施策を講じたが戦局のため予期の成果は上げ得なかった。」
  「なお、現地進出機帆船が諸種の状況から回航を急いだためと、船員の技能未熟または機帆船として無理な長距離輸送に従事させたため修理を要するものが多く、殆ど半数以上は修理中または要修理船であるため機帆船の建造能力とならんで修理施設の整備が緊急の課題であった。」

参考資料

  • 石川島播磨重工業社史
  • 小野塚一郎著  「戦時造船史」 太平洋戦争と計画造船 (日本海事振興会発行)
  • 倉成好雄著 「蘭印滞在記」 (1988年 清水弘文堂発行)
  • セレベス新聞

(2004年5月9日掲載)