スラウエシ島の歴史と民族(3)

- 北スラウエシ ミナハサ -

 庵 浪人(イオリ・ナミオ)

箱庭の町

北の岬回廊の東端チップがプロテスタント・ミナハサ州で共和国最北に位置します。飛行機が右に旋回すると、眼下に蒼く愛らしいマナド湾と乳房のようなマナドトウア山が浮かび、緑の深い森に点在する白い家並み、このサムラトランギ空港が2000 m のクラバット山をかわす難しいアプローチだとゆうのを忘れさせてくれます。

左にゴルフリンクを見ながら港町特有の坂道を下れば、小さい広場に町の騒音が流れてこれも小さい乗合バスがひしめき、ちょうどガリバー物語の国に降り立った錯覚を覚えます。マナドは可愛いい箱庭の町なのです。

“私達は(ジャワとは)違うのよ”とオランダ第12番目の州を自任して、この間までまともな家庭はオランダ語を常用し、サロン腰巻きをしたがらず、男はソフト帽女はレースで着飾って日曜ミサを欠かさない植民が最も成功した地域で、植民地時代に多くマナド人がオランダ中間行政官に登用され、南のマカッサル・ブギス人から「太平洋の水ぜんぶ飲んでもお前の血は変わらない。ブランダ(オランダ)の犬」とまで罵られてもオランダ流に憧れたのも、ミナハサ族がおおらかで楽天的性格を生む豊かな自然環境があったからかもしれません。マナド娘は共和国最高の色白美人とつとに名があるのは、長い外国混血のなせる技で、それは長大な半島が大洋を二分して海原に突き出ている土地ですから、西洋人が渡来する以前も、香料や南海産物を求める華人商人の海上航路の拠点として多くの人々が往来し、ミナハサの人達の姿を見ればマレー人とは異なる血が歴然としています。

 トルデシャス条約(注1)で地球を二分したイスパニアとポルトガルはスパイスを求めて西と東からこの地域に殺到し、フィリピンから南下したイスパニアがミナハサに侵入しました。香料諸島テルナテ、テイドレは此処から眼と鼻の先だったからです。

 ある期間の横暴に耐えたマナド人達は、力を付けた新興勢力オランダに助けを求め、1673年にロッテルダム要塞を造り(日本軍の爆撃で焼失)、VOC(オランダ東インド)の庇護をうけることになったのです。以後の親蘭は変わらず、植民地反乱リーダー達イマン・ボンジョルなどはこの地に流刑になったのです。ジャワを追放されてこの地に流されたデイポネゴロ王子に従ったジャワ人達(1830年)の子孫はいまもカンポン・ジャワ村に暮らし、宮廷人の優雅さとマナドの西欧風が巧みに融和して最高の女性といわれているのもそれなりの理由があるようです。オランダは殖産に力を注ぎ、独立時ここには千人の児童にひとつの学校がありましたが、ジャワのそれは五万人だったのをみても、独立後半世紀でその格差が解消できるとは思えず、彼等がジャワや他の地域の人に対し知的優越感を持っているのが感じられます。

共和国一の教育医療環境

 マナド人はラマイラマイ(お祭り)好きで見栄っ張りで身上を潰すと陰口も聞かれますが、マナド人は遊ぶお金もない人の僻みと意にも介しません。ミナハサは現在は輸送交通環境の変貌で低迷していますが、それでも共和国一の教育医療環境を保持して今もって一番の富裕県なのです。なんといってもコプラ油脂、チェンケ(丁子)、ゴム林、コーヒー、米、野菜などないものはない豊かな土地だからです。チェンケ市場が暴騰した時、テイノール村は景気に沸き立ち、電気もないのにGEの電気冷蔵庫を庭先に飾って見栄を張ったといいます。

 太平洋戦争でダバオを飛び立った日本軍は、マナド・トンダノ飛行場に落下傘降下し激戦の後制圧し、空の神兵とゆう歌まで唄われた時代、兵士との混血児もスマトラアチェより多いのはこの地方の寛容さを物語るのではないでしょうか。

 マナドぼけの日本人は多く、マナドはミナト、ミナハサは皆様、トンダノ トンシェ トモホンの村名のトンは村人、東のゴロンタロは五郎太郎入植の地と日本との関連をなんとか結び付けたい気風がある程、大和撫子に見まがう美女も希ではありません。マナド人がオランダの犬でなかった証拠に、植民地時代の民族主義の知的指導者サムラトランギを生み、統一国家実現に貢献しました。(注2)

 共和国の腫れ物の華僑同化問題でもこの地は昔から融和していて、マナドチナと呼ばれて違和感がないのも土地柄でしょう。マナドの街もスパイスナッツのチェンケ時期には一帯がえもいわれぬ香気に覆われ、コリンタン木琴の音もまことにに女性的で、西からひしひしと寄せるイスラム圏から訪れると行き交う人々、チャペルの鐘の音、なぜかほっとさせる気分になります。

 狭い岬には港町特有の坂道に花が乱れ咲き、肥えた馬車の鈴の音、ドウアスダラ、タンココ、バトウアングス、グヌンアンバン、ドウモガボネなど自然保護区は共和国一、山頂湖トンダノ(標高600 m)とあわせて公園の中に住む趣き、町内のロコン火山や郊外のソプタンは時に噴火(1986・89)しても随所の温泉の湯気で帳消しになるようです。

ブトン港

 ブトン港は水深、良水で対岸のレンベ島が風を遮り、浅瀬だらけの南海では最上の船溜りで、イスラムではなく飲酒は自由、美女が侍れば船員には忘れない港でしょう。列島では聞けない自作トランペットをマリアッチ風に吹く祭りに、彼等自身も忘れ去ったスペインの残映を見て、外来文化受け入れに何の抵抗もなくデイスコもダンドウットとロックしか聞けず、すばらしい韻を踏んで優雅に唄われる地歌の消滅した速さでこの小民族文化も消えてしまうだろうと大きな不安があります。

 マナドの20万人も外来人で純血は減少しているらしく、なにか華奢で壊れ易い箱庭都市の姿に見えます。箱庭の岬は何処に行くのにも車で半日もかからず、砂浜で火照った身体は少し丘を登れば涼風吹く高原で、住民のホスピタリテイも含め観光ポテンシャルは高いと予感されます。マナドでは蝙蝠や犬、椰子鼠までおいしく料理しますが、それもエスニックフッドになるでしょうか。

世界有数のドロップオフ

 アメリカでの医学留学を終えたドクトルバトウナは、郷里に広がる珊瑚礁を初めて紹介したのが世界有数のドロップオフを持つブナケンリーフで、ダイバー仲間では“ブナケンを潜らずダイビングを語るなかれ”と言われる程のスポットになりました。マナド沖に富士山ミニチュアのように海上に聳えるマナドトウアとマンテハゲに囲まれるブナケンは、町と指呼の間にありイスタナドウユン(竜宮城)もかくやの美しさです。マナド人は「ブナケンも数あるもののひとつ」といって驚きもしないのは、複雑な海岸線を持つ岬の至る所に小島や入り江が散在する‘箱庭’なのです。土地はまだ観光ダイビングはなく潜水漁法の時代ですが、素潜りでも欲しいだけの魚は簡単に手に入れられます。夢のような、、がぴったりのミナハサなのです。

 山上湖トンダノから少し入った山の麓にワトウ・ピナベテンガンの霊岩が鎮座します。少し昔に一人の農夫がお告げを受けて、ロットレ(数字当て富籤)を当て続け、それを元手にマカオに繰り出し胴元を破産させて凱旋し連日新聞に書き立てられました。挙げ句自分の死期も予言して、あぶく銭をすべて教会に寄進して予告通りそうなった逸話から、この存在感のある巨岩の信者たちの幸運がしばらく続いたので    す。政府高官もしばしば卦を立てに訪れるそうで、もしかしたら夢は珊瑚礁だけではないようです。

シアウ、サンギール、タラウド諸島

 マナドの北には海流の中にシアウ、サンギール、タラウド諸島がフィリピン・ミンダナウ島まで続いています。移民インド人が多く顔つきはコーカソイド的です。マナド人は広大なコプラ椰子林の管理をこの出稼ぎサンギール人にまかせて「儂の仕事は日陰で椅子に座って奴等が登って落とす椰子の実を勘定するだけサ」とうそぶいているうちに、勤勉な彼等は街に多くの商権を作っていったといいます。マナド人のパーテイ好きで怠け者、傲慢で見栄っ張りの噂は、この土地の裕福さからでた羨望も混じっているのでしょう。岬を西にゆけばボランモンゴンドウのイスラム国、バリのグヌンアグン大噴火で此処に移民した彼等が稲作を成功させただけでなく金まで発見して、里帰りは飛行機では共和国移民地ではここだけの繁栄で、町コタモバグはマスジャヤ(金の勝利)とも呼ばれます。周辺の高地は広大な野菜畑、コーヒー園、ゴム林が続き、農耕に秀でたバリやジャワ人の努力の賜物です。今は移民の多い新興地ですが、あとしばらくすると押しも押されもしない地域に発展するでしょう。

ゴロンタロ、リンボトの先

 ゴロンタロ、リンボトの先は徐々に乾燥して人口希薄、長大な半島に人家まばらな最果ての地と変わってゆき、赤道を横切ってお隣りの州都パルーまで森の黒檀や鉄木などの貴樹探しの山男のほか土地の人も踏み込まない過疎が続きます。

 

(注)

  1. 1494年 イスパニアとポルトガルで結ばれた海外領土分割条約で教皇子午線で両国の領地権を東西に二分した。イスパニアは東インド経営を諦らめ南アメリカに専心する。
  2.  G.S.S.JRatulangie (1891-1949) ミナハサの伝統的支配者層出身、オランダ留学、チューリッヒ大学理学博士。帰国後民族運動を指導、民族評論に健筆を振るい統一国家実現に貢献した。マナド空港、大学、道路などにその名を冠す。大の親日家。初代スラウエシ州知事。