慶長十七年(西暦1612年)、名古屋城の天守閣に現れた金の鯱は、名古屋に住む人々のシンボルとされ、愛されてきました。
「尾張名古屋は城でもつ」という謳い文句は名古屋人なら誰でも知っています。
金の鯱が名古屋だけのものであったかというと、実は織田信長が築いた安土城が最初で、大阪城、江戸城にもあったようです。
しかし、他の金の鯱たちは火災に遭うなどして姿を消してしまったため、現存するものは名古屋城だけということのようです。
この名古屋城の金の鯱も天下が江戸幕府から明治政府へと移ったときに、名古屋城から降ろされ、危うく解体されかかったことがあることを皆さんはご存知でしょうか?
皆さんご存知の明治政府による廃藩置県に伴って武士階級のシンボルである全国のお城はその多くが解体され、名古屋城も解体の第一段階として金の鯱が降ろされました。
明治政府はこの鯱を各地の博覧会の客寄せの目玉として随分活用しました。雄の鯱は国内の博覧会を転々として展示され、雌の方はウィーンにまで渡り万国博覧会でヨーロッパの人々の目を随分と楽しませたようです。
奇しくもドイツ公使からの進言により解体されずにすんだ名古屋城に金の鯱を戻したいという名古屋の人々の気持ちが政府を動かし、明治十二年(西暦1879年)に、金の鯱は再び名古屋の空を泳ぐこととなったのです。
また、昭和十二年(西暦1937年)には盗難に遭うなど、ピンチをしのいだ金の鯱も昭和二十年(西暦1945年)五月十四日の空襲で焼け落ちてしまいます。
戦後、市民による名古屋城再建の運動が高まり、昭和三十四年(西暦1959年)再建された名古屋城の上にすこし小ぶりになった金の鯱が設置され、私達の目を楽しませてくれているのです。
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