国産マンドリン第一号製作者 鈴木政吉翁の生い立ち
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南谷 博一
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鈴木政吉翁
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国産マンドリン第一号製作者、鈴木政吉は1859(安政6)年11月18日、現在の名古屋市東区宮出町に生まれた。父(正春)は百姓の出で、士族株を買って尾張藩の軽輩(足軽)となったが、神官の娘で貞淑な妻の助力を得ながら細工好きの腕を琴、三味線作りの内職に発揮して、どうにか家族6人を養う身の上であった。
若くしてこの世を去った長兄の身代わりとしてほんぽうに育った次男政吉は、8才から3年程漢学をならった後、藩が新規に採用したイギリス式調練(兵士の訓練)の太鼓役に、年俸五両で出仕(民間から出て官に仕えること)したところ、半年でそれがドイツ式のラッパに改変されて失職する。続いて政吉は、新設の藩の英学校に給費生として寄宿する幸運に恵まれた。しかし今度は2年余りで廃藩置県に出会い、頼みの官費支給が絶たれて、中途退学の憂き目を見てしまう。「在学中は三度も謹慎をくらうほど腕白だった。」と豪快に回顧はするが、こうして政吉は維新の政変と貧乏とにさいなまれて就学のすべを失い、内職を家業にくら替えして武士の商法に打って出た父親の手助けをすることになった。家業を手伝って2年が過ぎた14才、政吉は乞われて、従姉(年上の女のいとこ)の嫁ぎ先である東京浅草の塗物商、飛騨屋の奉公人となった。その期間は主人夫婦が揃って亡くなるまでの約3年であったが、政吉はここで身内を逆手にとる酷使を、天与の試練と甘受し、終生の艱難に自らを支える貴重な体験を積んだ。深夜に人目を盗み、読売仮名付新聞で文字を覚えたり、必死の記帳、発信の基本を自習したエピソードも伝わっている。
昔の鈴木バイオリン工場風景
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思えば、バイオリン製作の一決め手となる塗りの感覚を日毎夜毎に養い鍛えた一コマもおそらくかけがえのない収穫であったであろう。帰郷後の政吉は飛騨屋仕込みの早起遅寝で奮闘し、翌年には父から一家をまかされるにいたったが、大工の半分位しか稼げぬ苦況が続いた。しかし政吉はこの苦況をしのげたのは、ひとえに仕事に対する面白さであったという。
1884(明治17)年に父正春が病死してからの不況は格別にこたえた。加えて鹿鳴館の鼓動が容赦なく、和楽器の見透し難にも拍車をかけてくる。思案のあげく、彼は学校教育に唱歌が採用されて、教師になれば高給が食めること、父のすすめで長年稽古していた長唄の素養を生かせば、それが可能なことを聞き、稽古仲間のつてで、愛知県師範学校音楽教師、恒川鐐之助の門をたたいた。するとほどなく、同門の甘利鉄吉から和製バイオリンを見せられて、たちまちそれに魅了されてしまう。政吉は徹夜で、それを模写し、一週間で仕上げた苦心の初作を教師恒川に見せた。そして嘉賞と激励とを潮に手掛けた第二作が売れ、注文も舞い込んで、助手数名を雇うようになった。(前出の和製バイオリンのことは詳しくはわからない。)1888(明治21)年初頭のことである。
帝国発明協会より
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日本産業協会より
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しかし数ヶ月後岐阜県師範学校に本物の舶来品があることを知り、自作のバイオリンを携行して、これに一騎打ちの比較を挑んだ結果は見事な惨敗であった。その後政吉は「……只茫然自失、帰来意気全く消沈し、鬱々として煩悶の境に彷徨しつゝありたるに拘わらず、需要者よりの注文は日々増加して、前途頗る有望なるのみならず、若し将来邦人中に該品の製造を出さざるに於いては音楽界の趨勢に伴ひて年々増加すべき該品の供給は全く之を外国に仰がざる可からず。向こう十数年の後には、其輸入額年々幾万円を計上するに至るべく、之を防圧して国益を計らんと欲せば、今日より全力を傾倒して之が研究を為さざる可からず。然るに従来の如く、本業の傍ら僅かに余力を割きて研究するが如きは、決して成功の美果を収むる所以にあらざるを自覚すると同時に、何物かの暗示を受けたるが如く、バイオリンの製造の業は全く自家の天職なりとの信念動かずに至りたるを以て、茲に畢生(一生、生涯)の勇気を奮起し、斃して(倒れて死ぬ)後、己の犠牲的精神を以て、親戚、家人等の激烈なる反対を排し、本業たる琴、三味線の製造業を廃したるなり」と述べている。
比留間賢八
1867(慶応3)年3月15日生
1936(昭和11)年4月15日没
享年70才
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1867(慶応3)年3月15日東京市麹町10丁目9番地に生まれた比留間賢八(1887[明治20]年度音楽職取調掛卒)は1899(明治32)年10月、農商務省海外実業練習生(貿易商)として単身ドイツのベルリンへ行く。実習の傍ら音楽の研究に没頭、同地にてイタリア人アッティーレ コルナティにマンドリンを学び、1901(明治34)年に帰国する際、はじめてマンドリンを持ち帰り、日本に紹介したのである。
当時政吉の長男梅雄(22才頃)は日本楽器(現ヤマハ)東京支店にバイオリン修理技術者として出向していた。梅雄はこの店で、同店の支配人で、寄宿先の主人でもある内藤文六郎(新潟県出身)より筆舌に尽しがたい教化を受けた。内藤は伊沢修二の秘蔵っ子、小山作之助の真弟子で、東京音楽学校はもとより宮内庁、陸海軍に絶大の信頼を持つ高潔の士であった。1902(明治35)年比留間賢八からの提言を取り次いだ内藤は政吉にマンドリンの製作を勧奨した。政吉は比留間賢八が欧州より持ち帰ったマンドリンを見本として日本で最初のマンドリンを製作したのである。(文中敬称略)
【参考文献】
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大野木吉兵衛 浜松短期大学研究論集 24,25号(1981.12,1982.6)
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飯島國男 比留間賢八の生涯 KK全音楽譜出版社(1989.11)
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鈴木政吉
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1859(安政6)年11月18日生
1889(明治20)年結婚
1944(昭和19)年1月31日没
享年85才
戒名 天徳院楽堂長久済韻居士
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妻 乃婦゛
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1866(慶応2)年生
1947(昭和22)年6月1日没
享年81才
戒名 盛隆院喜宝貞悦大姉
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(鈴木バイオリン製造株式会社社長 鈴木 秩)
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- 【鈴木マンドリン】
- 1918(大正7)年から1922(大正11)年に発売された、
602、604、605号マンドリン。
当時の価格(単位: 円)
No. |
1918.Oct. | 1922.Oct.
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602 | 8.25 | 12.00
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604 | 12.75 | 19.00
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605 | 18.00 | 25.00
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