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                                                 磯田和一
’60国分寺村に集った若き劇画家たち   1959年−1961年の見聞録


                 ※感想やご意見・ご批判、特に事実誤認のご指摘があれば、お知らせ下さい。 メール

 

〔はじめに〕―プロローグ

 以下は1959年(昭和34年)春から1961年(昭和36年)秋までの2年と4カ月間に、

僕が実際に見聞した国分寺での若き劇画家たちの物語である。

 当時僕は17歳だったが、その2年前(1957年)の15歳の時に、漫画家になりたくて

上京を希望するも、両親の猛反対を受けたために仕方なく、東京まで12時間30分もか

かる東海道本線の鈍行に乗り込み、大阪から家出上京したことがあり、そのときは中学

時代からの大ファンで、手紙を出すと直ぐに返事を頂戴していた永島慎二氏(2005年逝去)

のアパートに押しかけ、約3ヶ月もの間、居候をさせてもらったのであった。

 のちの1970年代にやってくる青年誌ブームに乗って、学生運動に走る大学生からも

ノンポリの大学生からも支持された異色劇画漫画誌『ガロ』『COM』誌上での

「フーテン」(注1)や「漫画家残酷物語」(注2)のシリーズで大人気を博す永島慎二氏だが、

氏はその頃(1957年)でも既に少女雑誌『なかよし』での連載作品「サトコは町の子」

ほか、少年少女雑誌界で活躍する人気漫画家で、住所を頼りに訪ね当てた氏の住居は

国電(現在のJR)の大久保駅に近いガード脇の小さなアパートだった。売れっ子の漫画家

の家だから、さぞかし大邸宅だろうと想像していた僕には、これはとてもショックだった。

 緊張のあまりぶるぶる震えながら、ノックをした僕に「どうぞ」と言ってドアを開け、6畳間

ひとつと4.5畳ほどの板の間(台所兼)だけの部屋に通してくれたのは、どうやら僕よりは

4、5歳しか年長にすぎないアシスタント風の若者だった。電報を受けて驚いたとか、その年

で東京に家出してくる根性はすごいとか、ふーん、君が磯田君か……、などと先輩ぶった

口をきくこの若者は、僕のことや僕の名前まで既に知っていたような話し方なのである。

 「少し休んだら、この近くの定食屋にめしでも食いに行こう。そして帰りに喫茶店に寄って、

いろいろ話をしようじゃないか」先輩ぶった口どころか、先生っぽい話し方に、もしかして

この若者が永島慎二かもと思い始めた僕は、「あのう、もしかして永島慎二先生ですか?」

と恐る恐る訊いてみた。

 「えっ、誰だと思っていたの!?」氏の驚きようで、その青年が永島慎二氏であることが

分かり、今度は僕が慌てふためいた。

 中学2年生の時にプロ・デビューした永島氏は、デビュー後数年は経っていた当時でさえ、

まだ二十歳の若者だったのである。この事実には、有名漫画家がアパートの一室に住んで

いたことのショックよりも、もっと大きなショックを受けた。たった5歳の差。僕よりたった5歳

の年長者が、プロの漫画家になって6、7年になる中間、いや、僕にはベテランに映っていた

だけに、漫画家永島慎二の若さに驚愕し、また感動していた。

 国分寺の劇画家たちの話なのに、この<はじめに>で、なぜ永島慎二氏との出会いの事を

書くのか……。それは、その後の国分寺での体験に関連してくるためであり、この2年後、

永島氏もまた国分寺の劇画家たちと親交した時期があったからでもある。

 とにもかくにもこの家出少年を、義理もないのに同居させてくださった永島慎二氏は、当時

<むさしの・プロダクション>(注3)という名のグループを作っていて、多分漫画家たちと会う

ことが、僕の励みになったり勉強にもなるだろうと、同プロの同人諸氏や氏の友人たちを

連日のように紹介してくださるのだった。

 同人では杉村篤氏(コン・太郎/のちにイラストレーターとして活躍)、安松たけし氏、

中城けん氏(別筆名けんたろう)ほか、友人では石川球太氏、関谷ひさし氏、うしおそうじ

らを紹介してもらえた。

 それから3カ月ほどが過ぎた頃、僕の両親が永島氏に頼み込み、僕を帰阪させることに

成功したらしく、ある日氏から説得されて、とりあえず一度大阪に戻ることになったのである。

 帰阪するや、両親から高校に復学するか働くかの二者択一を迫られ、1カ月の猶予を貰っ

た僕は、1篇(24ページか16ページ)の少女漫画を描き上げ、それで芽が出なければ、どこ

かに就職すると両親に泣きついて、当時は大阪にも5〜6社あった貸本漫画の出版社に持ち

込みに行ったのだった。

 そのころは、三島書房からわかば書房に社名変更になった、そのわかば書房の本が好き

だったもので、まずは「わかば書房」に持ち込んだのだが、当時の編集長松阪邦義氏から、

ちょっとレベルが違うとか言われ、そのすぐ隣に在った「あずま社(注4)というわかば書房

(後出)よりも更に小さな出版社に見せに行くように薦められたのである。ここはいわば、わか

ば書房が一軍とすれば二軍の出版社で、扱う漫画家も一流と二流の差が歴然としていて、子

供心にも少しプライドが傷ついたけれど、そこを訪ねるや神崎社長(社長と言っても一人切り

で編集も営業もこなしていた)から、「お!上手いな、きみ。これ、うちで買わせてもらいまっせ」

と、わが耳を疑うようなセリフを聞き、半信半疑のうちに来月発売の貸本屋向け少女雑誌「若

草」(確か、この名称だったと記憶している)に「夕映えの丘」(処女作)を掲載してもらえること

になり、その日のうちに、原稿料として現金(たしか1ページ100円で16ページなら1600円、

24ページだったとすれば2400円だが、当時の高卒の月給が7500円〜8000円なので子

供にはけっこうな額)で払って貰えたのだ。帰路ポケットのお金が葉っぱか紙屑に変わってい

ないかと確かめるように、何度も何度も眺めたものであった。

 それで漫画を続けられると思ったのだが、次作は取ってもらえず、描き上げた2〜3本の短

篇を、研文社とか金竜出版社に持ち込みに回ったのだけれど、そうは簡単に売れるはずもな

く、2カ月が経ち3カ月が経ち、否が応でも働かざるを得なくなったのである。父は印刷会社の

植字工だったから、自分の勤める会社で働かせようとしたのだが、僕はどうせ勤めるのならせ

めて看板屋とか塗装工がよいと決めていたので、少しでも絵に関係のある会社に就職口を求

めていったのだった。

 そんなある日、わかば書房で出会って、自宅まで遊びに行かせてもらっていたありかわ栄一

(後に園田光慶と改名/後出)から、彼が一時勤めていたアニメーション制作会社が人材を募

集しているよと聞き、その会社の面接に臨むことになった。

 そんな次第で働くことになった僕はテレビコマーシャルのアニメーションを制作する会社、大

阪コマーシャル・フィルム(ここにはのちに世界的アニメーション作家になる木下連三氏や

精密ペン画で名をなす福田隆義氏がアニメーターとして勤めていた)に入社し、セル洗いや

セル塗りの仕事を続けていた。だが、会社が会社だから先輩同輩にも漫画家志望者が多く、

いったんあきらめかけていた僕の漫画家志向が逆に促進されることになり、当時一歳上の

同僚飯田信弘(いいだ・ひろ詩)と共に1959年3月、再び永島慎二氏を訪ねることになる

のである。

 そして、この二度目の上京を機に東京都北多摩郡国分寺本村(現在の国分寺本町)に

住むことになり、その頃続々と関西から国分寺に移ってきていた大阪の貸本漫画雑誌『影』

(「日の丸文庫」)(注5)系のいわゆる劇画家たちとの交流が始まるのだが、それまでの期間

は永島慎二氏のアパート(2年前に訪ねたアパートとは別で広くてきれいになっていた)に

2カ月間も居候させてもらって、出版社へ持ち込みに行ったりしていた。

 そんなおり、件の上京を共にした友人飯田信弘は永島氏の紹介で関谷ひさし氏のアシス

タントとして関谷宅に住み込むことになり、僕の方は、永島氏の提案で国分寺にアパートを

借りることになったのだが、その契約金や最初の2,3カ月分の家賃は、永島氏が出してくだ

さった。感謝し恐縮する僕に、「金というのはね、有るときは人にオゴる。無いときは人にタカ

る。そんなものだからさ、気にしない、気にしない」と言い、平然とされていた顔を今でも鮮明

に思い出すことができる。

 

(注1)「フーテン」/’70年前後の、ヒッピー華やかなりしころの若者を描いた青年漫画の名作シリーズ。

(注2)「漫画家残酷物語」/永島氏渾身の作品で、氏自身とその周辺の人や物をモデルに、当時の漫画家やその

アシスタントたちの日常を描いた力作シリーズ。

(注3)「むさしの・プロダクション」/プロダクションというより同人または集団で、永島氏を頼って上京して来た、

青少年と共に結成された5、6名のグループ。

(注4)「あずま社」/この大阪は南に在った「あずま社」と「わかば書房」は、棟つづきの隣りどうしで、特にわかば

書房は、当時の関西在住漫画劇画家のサロンのような雰囲気があって、いつ訪ねても誰かしら漫画家と編集長が

歓談していて、ここに出入しているうちに、件の有川栄一(ありかわ栄一の当時のペンネーム)と知己を得たり、

高橋真琴氏、佃竜二(後のビッグ錠/後出)氏、楳図かずお氏、徳南晴一郎氏、吉田松美氏、社領系明氏、

田中美智子氏、東田健二氏(別名/白井豊)、入江修氏、後恵二郎氏などを見かけ、ただ彼らを間近に観たという

だけでドキドキ興奮しながら漫画への情熱が促進されていった。このうちありかわ、佃両名のほかに、後年交流が

あったのは、今は疎遠だが後恵二郎氏である。後さんには社会勉強だといっては、アルサロやパチンコ屋に連れ

て行ってもらったのが懐かしい。

(注5)『影』/昭和30年代の貸本漫画全盛のころに登場した、大阪の八興社が刊行した雑誌形式のアンソロジー

で、この形式はこれ以来他社からも続刊されていった。


’57〜’59年頃の永島慎二氏のアパート 大久保駅ガード下の喫茶「亜麻亜亭」は現在も健在だ





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