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| とにかくこんな風に、国分寺での僕の日々は善き先輩たちの間を往来したり、喫茶店や居酒屋に連れて行って もらったり、ときにはビリヤードやパチンコにも連れて行ってもらったりと、それはそれは楽しい時間の連続だっ た。背伸びしてカッコつけて、さいとう氏のおさがりのベレー帽をかぶり、一人前を気取り始めていたものだ。そう いえば、煙草を吸い始めたのもこの頃である。 大久保に住む永島慎二氏も、実家が国分寺線の鷹の台に在ったことから頻繁に国分寺にやって来るようにな り、さいとう氏らと交流を密にしていた時期で、僕もたまに喫茶「でんえん」に呼んでもらったり、これがまた感激 でだれかの手伝いの約束がある日でも、その人たちに頼み込んで永島先生と会う時間だけはなんとか捻出した ものである。 「磯田君、稼いでいるそうじゃないか。先にさいとう君に会ったとき、俺より忙しくしてるよと言ってたけれど、そ ろそろ手伝いを減らして自分の作品を描かなきゃ上京してきた意味がないぞ。まさかアシスタントに成りに来た んじゃないだろ」 あるとき真顔で言われたものだから、それを機に自分の作品を描き始めようと決心したのだっ た。 さいとう氏は、ベタ塗りの依頼を三度に一度は断るようになっても理解してくれたばかりか,事ある毎に励まし てもらったのを憶えている。佐藤氏は、ベタ塗りは別の人に頼むから、君は登場人物の特に女のキャラクターを 僕の代わりに描いてほしいと言い、その後ほんの一時期だけだが佐藤まさあき作品に出てくる女のキャラクター は僕が代筆したのである。だが、当時の彼の作品には女のキャラクターがそんなには登場しなかったので手伝う 時間も減り、自分の作品を描く時間が増えた。 それでも手伝いを断り始めると、人によっては生意気に思われ悩んだこともあった。失礼を顧みず正直に言う ならば、不思議にも後年ビッグになった人たちは、みな寛大にも生意気盛りの僕を叱咤激励してくれ、出版社へ の持ち込みの口添えまでしてもらえたのだが、逆に、けっきょくはビッグになれなかった人たちからは、ただ生意 気なガキだと云われ、大いに嫌われシカトされていたのも今では懐かしい……。 そうなのである。今思い起こせば17歳にしては実に小生意気なガキだったと思う。それだもので、この生意気 さが嫌われた要因だったと思うが、道で出会っても無視されたりするとかなりこたえ、落ち込むこともしばしばだっ た。 「ちっこい人間の、こまかい嫌がらせなんか、気にしとったら生きていかれへんど。そんな奴、お前も無視した らんかえ」と、ある日悩みを相談したさいとう氏に励まされ、頷けたのはいいが融通のきかない世間知らず、ほん とうに自分から諸先輩を無視し始めたものだから、ある人には本気で憎まれてしまい、喫茶店で出会ったりする と、「おっ、天才少年が来はったで」とか「今度、ベタ塗り手伝わせてもらおかなぁ」などと冷やかされる始末で、数 年後ならこちらも、「もしかして喧嘩売ってはるんですか?」とかなんとか言い返せるのだろうが、当時はただ真っ 赤になるだけで、泣きたいのを耐えるのがやっとこさであった。
彼は、いわゆる劇画集団とか劇画工房という同人を作る人たちとは距離を置いていて、また他の人たちよりも はるかに若いのに絵も上手く既に人気漫画家だったこともあり、数人の先輩同業者からは妬まれていた。その上 寡黙な少年であったことなども加わって、先輩たちの溜まり場には、滅多には顔を出さなかったのである。 大阪時代に、川崎のぼるがアシスタントをしたことがあるさいとう氏とは、たまに会っていたらしいが、ある日つ いに僕はさいとう氏宅で川崎のぼると出会えたのである。さいとう氏がよほど忙しかった時で,手伝いが僕だけで は間に合わず川崎も呼ばれていたのだ。 |