横山まさみちの思い出 U

劇画・漫画家への道A            ※「横みちソレーユ No.18」(横山プロダクション・昭和41年)より抜粋  

 昼間は働き、夜は学校、そして帰宅してから漫画をかくという三本立生活の無理がたたって病床に送ること、およそ半年。夜間高校卒業に近い頃のことだった。

 病名はろく膜であった。もはや無理のできる身体ではない。進学も漫画もあきらめねばならなかった。

 すべてをあきらめるという心の重荷がとれた故か、なにかホッとした気分になり、次第に健康を快復していった。

 しかし、何と因果な野郎か、健康の快復と共に、またぞろ進学や漫画に対するユメの虫が心の中でうごめきはじめた。

 ぼくは夜間高校二年生の頃からずっと愛知県の県庁へつとめていたが、卒業してからもそのままそこに勤務していた。出勤のたびに、同じ形で並んだ庁舎の窓を見ながら思ったものだ。「規格品はいやだ!」

 二十歳前後の青年によくあるように、心は冒険を求めていた。“男なら、やってみろ!”

 このままでは夜間高校卒業の学歴だけでは、小官吏としておわってしまう。苦労してもいい。生甲斐のある、変化に富んだ生活がしてみたかった。

 その頃、県庁で砂防工事に関する汚職事件があった。この汚職ってやつが、ぼくは一ばんきらいだ。

 ぼくは心ひそかに決心していた。「もう、県庁はやめよう…」

 東京へ行きたい。ただむやみに東京というマンモス都市へあこがれたのではない。自分の進みたい道が東京でなくては適わないからだ。

 東京で漫画をアルバイトに描きながら大学へいけたらなー。…これがぼくのユメだった。

 受験の春がめぐって来た。高校を卒業して2年間の歳月が流れていた。その間、ぜんぜん勉強はしていなかった。

 「とにかく受けるだけは受けてみようか」

 負け犬の遠吠えかもしれないが、スムースに昼間の高校を卒業しているなら東大ぐらい受ける自信はあった。

 しかし夜学を卒業して2年間、ぜんぜん勉強もしてないハンディではちょっと手がでなかた。健康のことも気になるので今からの猛勉も無理だった。

 「明治大学なら受かるかもしれない」(わが母校に対し誠に失礼ないい分かもしれないが、これがその当時の率直な気持ちだった。)

 試験勉強もせずに受験する明治に、ぼくは運命を賭けてみた。合格したら、それは「お前は東京へ行くべきだ」という神の啓示。不合格なら「無理はよせ」との神の啓示。…ぼくは勝手にこう解釈していた。

 そしてとにかく受験の手続きをすませた。

 春さきにはめずらしく、受験の日に雪が降った。校門をくぐるぼくに、ズァーと自家用車で泥をはねかけてった受験生もいる。「今にみておれ、ぼくだって…」

 試験が終わるとぼくはサッサと帰郷した。勤めもあったし、発表まで滞在する費用もなかった。合格・不合格を電報で知らせてくれるアルバイト生がいたのでそれに頼んでおいた。

 帰郷して4,5日たった日、電報がとどいた。「ゴウカク オメデトウ」

 普通なら大喜びすべきところ、ぼくはちっとも嬉しくなかった。誰もがまず合格か不合格かを心配する。ぼくの場合は合格してから心配し、迷いが生じた。果して上京し入学しても、漫画のアルバイトでやっていけるだろうか? その漫画だって、まだ描かせてもらえる出版社もきまっていない。更にさしあたって入学金として当時三万円余りが必要だった。

 ぼくはさんざん迷った。入学手続き〆切の日は次第に迫ってくる。

 ぼくの卒業した高校は県立だったので、県の学事課で発行している新聞にその年の大学合格者氏名が載ってしまった。おかげで、ぼくはひそかに受験していたのに、ぼくの所属している課にもバレてしまった。係長がぼくに言ったものだ。「合格したならきみは学生だ。公務員と双またはいかん、どっちかにしなさい。私としてはこのまゝ勤めていたほうがきみのためにいゝと思う。」

 ぼくはその頃事務官試験を受ける資格になっており、課長も推せんしていてくれた。事務官は大学卒業してからやっと受験できるものなである。係長は言葉を続けた。「今からまた4年間も学校へ行くより、今から事務官になっておいたほうがウンと得だ」

 もっともである。しかしこれは再び公務員になった場合の話である。ぼくはもはや官庁へ勤める気はなかった。

 このことがぼくの迷いを一掃してくれた。

 『男一匹うまれたかあにや』

 ぼくはこの言葉が好きだ。そして東京へ行こうと決心した。

 「好きな道なら、やれるだけやってみるがいゝ。もし出来なかった時は、いつでももどってくればいいんだから」。こう言ってくれた母の言葉が唯一の力づけだった。

 入学金は退職金をあてればいゝ。あとは何とかやっていくさ。はじめから漫画がうまくいくとは考えない。その時は何だってアルバイトするさ……。

 日に日に上京の日は近づく。それまでに1冊でも仕上げておこうと、「サクラ貝姫」というお姫様を主人公にした時代物漫画を60頁かきあげた。

 いよいよ上京の時。きざっぽいが当時の日記をそのまま転載しておく。
  昭和27年4月9日 水 雨のち曇
  明くれば雨、しかも烈しい降り。朝の汽車で発つ予定だったが、雨のあがるを待って夜行にする。
  午後8時30分
  20年住みなれた名古屋をあとにする。汽車は何の情容赦なく時間通りに発車した。
       駅員はただ義務的に汽車を送りだす。そこには何の変りも感情もない。
  「昨日またかくてありけり。今日もまたかくてありなん」
  ただ俺だけはガラリと変る。
  横山正雄、このたびの上京、吉とでるか凶とでるか、微力ながらも男一匹、
      俺は自立の道を建て、自己を東京の空の下で磨いてみる。苦労は覚悟の上、淋しさも承知のこと。

  母さんお世話になりました。兄さん、弟も、家のことはたのみます。妹たちもすこやかに。
      おばあさんも随分達者で長生きしてください。
  総てよ達者で……。

 上京して真先に訪れたのは、高校時代にいくつも原稿を送っておいた、神田の同和出版社だった。しかし、行ってみると同和出版社の名はなく、そこには何とか印刷という看板がぶらさがっていた。ぼくはガックリした。大地にすいこまれていくような気持ちだった。とにかく以前ここにあったはずの出版社はどうなったか、聞いてみようと中へ入った。すると、そこに坐っていたのは、同和出版社の編集長をやっていた人だった?!

 もと編集長の話では、同和出版社はすでにつぶれ、今は印刷所になった由。従って今までの原稿料は払うことが出来ないということだった。そのかわり、知っている人がやってる出版社を紹介してあげると言ってくれた。

 ぼくにとっては今までの原稿料なんか問題じゃなかった。大事なことはこれから描かせてもらえる出版社がほしかったのだ。

 そして紹介してもらったのは日照館という出版社だった。ぼくは早速、持参した「サクラ貝姫」の原稿をみせた。一枚一枚原稿をめくる社長の手つきを見ながら、ぼくは気が気じゃなかった。

 「なかなかよくかけてるね」といわれた時には、その会社全体が光り輝いてみえた。だが描きなおしを命ぜられた。その頃は漫画原稿の描き方など教えてくれる所もなく、作家の原画を手に入れて参考にすることも出来なかったので、ごていねいにもアミの部分を総てウスズミできれいにぬっていったからだ。このままの絵とストーリイでいいからスミ一色で描き直してほしいとのことだった。描き直しなどいといはせぬ。先のことはどうとも、とりあえず一作でも描かせてくれる出版社がみつかったことは、こよなく有難かった。

 入学の手続きをすませ、学校の紹介で代々木へ下宿をきめた。明治神宮に近く閑静なところであった。二階の8畳間に二人、同宿生は秋田県人だった。下宿代は5500円と米3升。(当時はまだ食糧事情が悪かったので)

 昼間は学校へ行き、夜はコツコツと漫画のペンをとった。大学なんてところは割に時間的に余裕があり、それに新学期の初めで落ちついた授業もなく、漫画のペンはスムースに進行した。そして「サクラ貝姫」60頁をおよそ半月で完成させた。

 その本が出版されたときは言語で表わせぬ嬉しさだった。まだ印刷のにおいがする本に何ども口づけしたものだ。

 通う明治大学が日照館に近いのも便利だった。

 ぼくは高校卒業してからもずっと勤めていた関係で入学してからも背広を着ていた。はじめて下宿をたずねていった時など、下宿のおばさんに「本当に学生さんですか?」と聞かれたぐらいだ。はじめてもらった原稿料5000円也で学生服を買った。

 サクラ貝姫にひき続き、次は96頁の注文を受けた。ターザンがはやっていた時なので、ターザンものがほしいとのことだった。高校の頃趣味でかいていた時、ターザンも手がけたことがあったので嬉しかった。ともあれ仕事がスムースにあるよう心より祈っていた。

 「磨境の黄金」と題し、ターザンが土人の魔法使いの用いる毒草により小人にされてしまうというストーリイを作り、およそ一ケ月近くかかって描きあげた。

 ところが96頁の注文を受け、その頁数でまとめあげたこのターザンが出版されて本になってみたら60頁になっていた。適当にところどころ抜いてあったのだ。これではストーリイもくそもあったものではない。「印刷のつごうでこうした」とのことだったが、ぼくまで小人にされたような気がした。

 絵が下手だったためだろうか…などといろいろかんぐってみた。ずーつと後になってわかったことだが、これは96頁の原稿を適当にぬいてまず60頁の本にして発行し、しばらくたってから今度は96頁のまま題名をかえて発行するというやりかただった。言いかえれば、一本の原稿で2回発行するというズルイ方法だった。まぁ、いろいろあらーね。

 その頃、うしおそうじ氏の下町娘を主人公にした「オセンチ小町」等に人気があった。そこで下町娘(時代もの)を主人公にしたものを描いてほしいと注文をうけた。「お絹ちゃん浮雲日記」と題し、やはり96頁を一ケ月近くかかった描いた。(当時の単行本は96頁と60頁の2種類あった。)

 この作品はストーリイからいって大いに自信があった。発行されると大当たりで、結果的に、この作品がぼくがこの日照館の看板作家となるキッカケになった。

 だが描いた当時はまだこれが売れるかどうかも判らず、ぼくは他のアルバイトをはじめた。大体漫画単行本の出版は発行して3ケ月位たたなければその成績はわからない。返本といって売れ残ってもどってくることがあるからだ。ぼくが上京してから大体3ケ月になっていたが、最初の本が発行されてからはまだ3ケ月になっていなかった。結果はどうでるかまだ判らなかった。

 それにまだ漫画をかく収入だけでは到底学費と生活費をあがなうことはできなかったのでアルバイトをはじめたのだった。夏休みになった。いなかへ帰る友人をうらやましく思いながら夏休みの半分をアルバイトで過ごした。

 アルバイトは氷屋をはじめとしていろいろやったが、漫画とは関係ないことなのでここでは省略する。苦労はあったがよき体験でもあった。

 そして夏休みの残る一ケ月を帰郷し、別に作品の注文は受けてなかったが習作のつもりで「てまり姫と富士丸」というのを1冊かきあげた。96頁にまとめた。

 夏休みがおわり上京して日照館へ行ったところ、「どこへ行ってたんです。連絡しようにも行先がわからず待ちわびていたんです」と社長が大ニコニコでむかえてくれた。「お絹ちゃん浮雲日記」がすごく売れ、3版4版と重ねているということだった。(当時は1版で大体1万部。現在からみればまるで夢のような部数だ) もっとも原稿料は買いとり制といって、いくら売れようとかわりなかった。そんなことはどうでも、評判の良いことは、極めて嬉しかった。このあといくつでも描いてほしいとのことだった。

 いくつでもと言われても学校があるので、やはり月に一本か一本半がせいぜいであった。

 とにかくこうして、苦しくはあったが、どうやら自立して行くことが出来るようになったのである。ユメにみた学校と漫画の両立が本格的に始まったわけである。

 ここでお断りしておきますが、漫画家に学歴は関係ありません。ただぼくの場合、漫画を描かなくては学校へ行けず、学校がなくては心のよりどころがなかったんです。二つのうちどちらが欠けても、ぼくは上京しなかったでしょう。そしてこの二つを両立させることによって、自分というものを試してみたかったんです。



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