横山まさみちの思い出 W

劇画・漫画家への道C             ※「横みちソレーユ」(横山プロダクション・昭和42年12月)より抜粋

 大学を卒業した時、ぼくは人生の岐路に立っていた。どの道へ進むべきか? 青春の誰もがたどる一つのポイントである。

 どんな仕事にたずさわるにしても、もちろんそれにふさわしい才能は必要であるが、それ以前に重要なものがある―すなわち、それに対する情熱―である。

 「良し、漫画の道へ進もう!」ぼくの心はきまった。

 漫画の道に学歴は問題ではない。今まで描いた作品がぼくの履歴書であった。

 ここでことわっておきますが学歴は必要でなくとも、学問は必要です。よく漫・劇画家志望者の学生の方から「今学校で勉強していることは漫画家になるためには直接必要でないように思え、それよりも早くアシスタントになって……云々」という手紙をもらいますが大間違いです。今の学問が目にみえて直接役だつとは言いませんが、学校で学んだことが、いずれ必ず血となり肉となって現れてくるものです。大学までは行かなくても、許される方は高校は行っておいたほうがいいと思います。
 もちろん中卒でなれないこともありませんが、それには人一倍の才能と努力が必要です。家出などは絶対いけません。そんなものは情熱でなく、衝動です。ぼくはこの家出のことを本などにも時々書きますが、それだけ困らせられているんです。この世界へ入りたい方は、それだけの努力をし、親の承諾もえてから来てください。

 話が横みちにそれましたが、ぼくは、どうせ漫画の道へ進むのなら雑誌のほうでも仕事がしたい、と考え講談社を訪れた。ぼくはこれまで単行本専門で描いており、雑誌界では、くちばしの黄色いまるで幼稚園坊主であった。まず雑誌がこの幼稚園坊主にくれた仕事は漫画ではなく、「絵とき」であった。たとえば「すもう絵とき」といって、どの関取はどの位汗をかくとか、塩をまくとか言ったことを絵で解説するのである。雑誌「ぼくら」でこの仕事を半年ほど続けた。昭和31年春から夏にかけてである。
 しかしストーリィのある漫画の仕事は一向に与えてもらえなかった。

 元来ぼくはストーリィ創作が好きであり、こうしたギャグ的なものは、あまり好きでなかった。何とかまとまった仕事がほしかった。

 “当って砕けろ”ぼくは各雑誌社をまわってみようと決心した。冒険王の「秋田書店」へ行ってみたところ、ぼくが前に単行本で描いた「星よぶヒトミ」という本がこの社にとりよせられており、検討されているところだった。また、この社で「幼年王」という雑誌が発刊される企画のあった時であり、早速その仕事がもらえた。本誌に4頁の読みきり。頁数は少なくとも意気ごんでかいた。「だいふく大ちゃん」というのである。そのあとも4頁をたのまれて描いて持っていったら「幼年王」はもう廃刊になっていた。一つの芽がつみとられた。

 この間、単行本は日照館、葵出版、中村書店、ひばり書房と各社から注文を受けかきまくっていた。

 その主な作品は「疾風狼太郎」「地獄の天使」「裏町の黒幕」「黄金」「黒猫」「若いおまわりさん」「母の叫び」「白い雲に唄えば」等、時代物、現代アクション、少女ものといろいろ手がけていた。みな長篇である。

 この中でも今も思い出に残るのは「黒猫」である。この本はすごく評判がよく、2版、3版と出版され、のちに短篇誌がはやった時、これを出したひばり書房は短篇シリーズの名を「黒猫」とつけ、ぼくの黒猫を第1巻にしたほどである。

 こののちのことになるが雑誌で執筆する作家と、単行本で執筆する作家とは完全に別々になってしまった時代がある。現代ではまた雑誌、単行本の作家が一体となって来たが、この31年当時も、両方かけもちという作家が多かった。つまり歴史はくり返す、である。

 当時、作家にとって雑誌は桧舞台であった。この雑誌で執筆できねば一流といわれなかった。ぼくは単行本界ではその業界誌で常にベストテンに名をつらねていたが、何とかして雑誌界へも進出したかった。

 その頃、大人の雑誌も含め日本中で一番売れているのが光文社の「少女」だった。編集者も一番うるさいとの評判で、ここで執筆できればもう大丈夫といわれていた。どうせ当って砕けるなら、この日本一に当ってみよう、ぼくはこう決心した。

 ぼくは今まで描いた本のうち2・3点をもってこの「少女」の門をたたいてみた。その頃の光文社は講談者の5階にあった。ぼくは階段を一段ずつ昇っていった。ちゃんとエレベーターはあるのだが……相撲でいえばゲンをかつぐってやつだ、少しでも苦労しとかなくっちゃ……

 編集長は黒崎勇氏と言った。のちに週刊誌「女性自身」をはじめた人で、新企画に才腕を振い、作品にはきわめて目の高い、きれると評判の人だった。

 見本に持っていった本を手にする黒崎氏、パラパラパラ…もちろん内容までは読んでくれない。やがて「拝見しておきましょう。それに何か新しいストーリィをつくって持ってきてみてください。」 その日はこれでおしまい。――ぼくもそれ以上は期待していなかった。

 ぼくは新しいストーリィを考えた。今までにあるような少女ものではいけない、何か新鮮なものを……。そこで考えたのが、ぼくの雑誌界でのデビュー作となった少女探偵「シルクちゃん・ハットちゃん」である。

 シルクちゃんはその名の示すとおり絹のようなせんさいな少女で、頭が良く推理力が働く。ハットちゃんはハッとするような冒険も平気でする活発な少女。

 よし、このコンビでいこう。服装はシルクハットをかぶせ、えんび服を着せる――この独特の特徴を生かそう。

 ぼくは四百字詰原稿用紙20枚ほどに、創作したストーリィを小説のようにまとめた。登場する主な人物は絵をかいて原稿用紙に貼りつけた。

 ぼくは再び「少女」への階段をのぼっていった。原稿を読んでもらうまでの複雑な気持、不安と期待と二つ、われにあり。

 「ウーン感心しました。アイデァもいいし、実にストーリィがいい。本も読んでおきましたが、絵はもう一歩といったところですが、ストーリィや構成は一流です。それに今回の原稿のまとめかたも実に気がきいており、とても読みやすく感心しました。今まで何十人という新人のかたに頼んだことはありますが、こうい新しいやり方できた人は一人もいませんでした。」

 大賛辞であった。しかも名編集長の噂高い人からだけに一層嬉しかった。これをフロクにするから60頁にまとめてきてほしいとのことだった。それにもう一つ、「これだけストーリィの出来る人なら安心してまかせられるから」とて、本誌に2色ずりの8頁の作品を大至急かいてほしいといわれた。急なことなので…と答えると、「君なら帰りの電車の中でも創れるだろう」なんて言われ帰途についた。そんなに言われれば意地でも考えなくっちゃ……ぼくは電車の中で短篇8頁のストーリィを必死に考えた。そして創ったのが「星から来た少女」これは32年の2月号に掲載された。

 「シルクちゃん」のほうは本来は百枚以上にはなる作品だったので、これを60頁にまとめるのはたいへんなことだった。それを何とかまとめ、持っていったのだが……結果は描き直しだった。今から考えれば、百枚以上にはなる内容を60枚にちぢめたので、ただストーリィを追うのにいそがしく、グッとくる盛りあがりがなかったのだろう。まだまだ未熟だったのである。「描き直して来てほしい」といわれた時はひどくガッカリした。

 一ヶ月もかかってまとめた作品である。これが無駄になれば食っていけやしない。しかしここでくじけたらおしまいである。学生時代コッペパンだけかじって頑張った時のことを思い出していた。あの時は、卒業するまではとファイトをもやしたものだ。

 よ―し、採用されるまでは!

 その後また一ヶ月ほどこの作品にとりくんだ。

 その作品を手にした黒崎氏はニッコリうなずいてくれた。そして一言「よくやったね。」

 この時のシルクちゃんハットちゃんは第1話「どろんこ天使」昭和32年3月号少女の別冊ふろくに掲載された。ところがこのふろくに掲載された作品が本誌も含めてすべての作品の中で人気投票第1位になったのである。

 がぜん4月号からは本誌で連載をはじめるように言われた。しかもトップ頁の色ずりである。

 「みやこちゃん」これがぼくの雑誌連載のはじめである。これは6ヶ月連載し、この跡「牧場は夕やけ」という作品を9カ月ほど連載した。

 またその間、ふろく長篇読切りをいくつも描いた。当時はふろくでも二百頁以上もある厚いもので、その中に百頁近い作品が3つ位づつのっていた。当時描いた主な作品は「シルクちゃんハットちゃん第2話」「あの鈴を返せ」「おなじ顔の少女」「兄さん負けないで」「赤いトランク」「まゆみちゃん」「わたしはルミじゃない」「ガラスのおうむ」「その人は犯人じゃない」

 大体「少女」を中心に描いていたが講談社の「なかよし」「少女クラブ」(今は廃刊・現在の少女フレンドの前身)からも頼まれるようになり、「赤いカーネーション」「夕やけの唄」「なぞの右手」「水色のコンパクト」等を描いた。

 雑誌に描くようになってからは少女ものばかり描いていたので、たまには少年ものを描きたいと思っていたところ冒険王から何か描いてくれと頼まれた。昭和32年の暮である。

 それで前に単行本用にと思って途中まで描きかけていた時代もの「ゆうれい剣士」という作品をみせたところ「おもしろいからこれを前後篇にわけてふろくにしてほしい」とのこと。そこでそれを雑誌むけに描き直した。それの評判がよく、本誌に科学ものを連載してほしいと依頼された。その頃の科学ものはすべて宇宙やロボットが対象であり、何か新しいものを……と考えついたのが海底人(シーボトム・マン)である。人間を海底でも住めるようにした悪人と、少年探偵との戦いである。すべりだしの評判はすこぶる好評だった。しかし内容を深くしたいと考えすぎ、程度も高めようと、科学とその逆の文化果てつる土地の土人を登場させるなどして、あまりにも手を拡げすぎたため、収拾がつかなくなり、結果は失敗作だった。

 冒険王のふろくには、「不死身の剣士」「地球から消えた男」「死者の足音」「足跡を残すな」「怪盗乙」等も描いた。

 またこの秋田書店から「ひとみ」(今は廃刊)という少女雑誌が発行されるようになり、これの創刊号から連載することになった。これには「一ばん星の祈り」というのをはじめた。

 とにかくいそがしくなった。昭和32年から34年にかけては、ぼくにとってもっともいそがしい時代の一つであったと言える。

 その当時アシスタントを使っている作家は少なく、一人ですべてを描く場合、せいぜい月に4本が限界といわれていた。また雑誌を4誌受けもつようになれば、一応「いい線いっている作家」といわれていた。ぼくは「少女」「少女クラブ」「冒険王」「ひとみ」「なかよし」と執筆し、いそがしい作家の一人になっていた。

 この頃単行本界では長篇ものにかわり短篇誌が勢力をのばしつつあった。これらには暇がなくてなかなか描けなかったが、もともと単行本は好きだったので、時には執筆していた。

 ぼくにとっては一つの黄金時代であった。

 子供の時からなりたいと思っていた漫画家への夢がかなえられたのである。高校は夜学へ通い、その余暇に漫画を勉強し、大学ではアルバイトに漫画を描き、卒業してからはそれを職業としたわけだが、一応その苦労が身を結び、児童漫画家の一人として名をつらねるようになれたのである。

 だがこんなにいそがしく、仕事も十分あったにかかわらず不思議にいつも不安がつきまとっていた。

 「いつ切られるかわからない――いつ仕事がもらえなくなるかわからない……」

 自信がなかったのだろうか……とにかく腕一本に生涯をかける職業だ。それにきわめて生存率のはげしい世界だ。現に何人もの作家が登場しては次々に消えてゆく。一流中の一流になればともかく、こういった職業のおおかたの者が常に感じている不安かもしれない。

 いつもつきまとっている不安……やがてそれが現実となってぼくの上に重くのしかかってくる時が近づいていた。
それにいかに切りぬけるか、生命を賭けて戦わねばならぬ時期が、ぼくの身近に迫っていた。

 



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