漫画・劇画よもやま話


 1.磯田和一氏の話―知られざる「さいとうプロ」結成時メンバーの一人

 ふとしたご縁で,絵本作家・イラストレーターの磯田和一氏に知己を得た。磯田氏は,かつては熱心なマンガ少年そしてマンガ家であった。大阪在住であった磯田氏は,中学を卒業するやいなや上京し,永島慎二氏の所に転がり込んでマンガ修行をしていたりした。

 その頃に,
川崎のぼる氏と親しくなっていた。後に,一旦,故郷である大阪に帰った際には,佃竜二(ビッグ錠)氏と知己を得た。

 18歳になって再上京した際には,
ありかわ・栄一(後の,園田光慶)氏と親しくなり,各氏に居候をさせてもらったりしていた。

 
奇しくも,川崎のぼる,佃竜二,ありかわ・栄一(当時)の各氏は,大阪での貸し本マンガ家仲間であった。

 一足早く『少年ブック』に認められた川崎のぼるが上京しており,その後,佃竜二とありかわ・栄一が上京するのだが,磯田氏はこの3人と深く関わっていた人だといえよう。


 
また,再上京当時には,さいとう・たかを氏を中心に結成された「劇画集団」のメンバーとも交際があった。そして,初期の「さいとうプロ」に川崎のぼる氏や南波健二氏と共にメンバーの一人として参加していたという。

 
「さいとうプロ」結成時のメンバーの話は,私には初耳であった。磯田氏自身が過去のマンガ歴を披瀝するという予定があるらしいので、その当時のことが語られるのを楽しみにしている。




      2.磯田和一氏にお会いしました―2005年2月17日・東京医科大病院

 磯田氏とは2度、名古屋でお会いする約束をしていました。その際にいろいろお話をお伺いし、書けることは書こうと思っていましたが、実現することなく、この「よもやま話」も開店休業状態でした。

 お会いできなかった最大の理由が「大動脈解離」という大病でした。実際には、磯田氏は「奇跡の生還」を果たし、今はお元気なのですが、たまたま私が上京し、お会いした場所が、検査入院中の東京医科大病院であったということです。

 楽しい話が弾み、あまりにも長時間だったため、看護婦さんに(不在を)叱られたりしました。

 詳しい話は、磯田氏自身が語られる日を楽しみに待つとして、ここでは2点ほど報告しておきます。

 私と磯田氏の話が弾んだ中で、月刊少女誌時代の
永島慎二氏の絵柄が好きだ、と好みが一致しました。その際教えていただいたのが、「瞳(黒目部分)を、十字星形にして輝きを表現する」のを最初に始めたのが永島氏だった(以降水野英子氏や石森章太郎氏らも十字星の瞳を多用していく)ということでした。

 
川崎のぼる氏ビッグ錠氏の最近の動向にも話題が及びました。

 最近、一時ほど作品を見かけることがなくなったので、どうしているのかお尋ねした次第です。とはいっても、川崎氏は昨年『巨人の星』の再ブレイクでお忙しかったでしょうし、ビッグ氏もまんがジャパンの「新潟地震被害者援助のための色紙等のチャリーティー・オークション」で少しはその動向を知ってはいましたが。

 ここ数年は「消えた漫画家たち」などといって、有名漫画家たちの悲惨な状況を聞かされすぎたので、少し気になっていたのです。しかし、私の思いとは異なり、両氏はどちらかといえば「悠悠自適」な生活を送られていたようでした。

 川崎氏は、児童文学や童話の挿絵に魅せられて、童画を描くことを楽しんでいる日々だそうです。

 ビッグ錠氏は、ニューヨークやキューバに頻繁に出かけたりしていて、むこうで個展を開いたり、ニューヨークのジャズメンの演奏シーンをスケッチしたものを東京の画廊で発表したり、一コママンガ(カートゥーン)に今は夢中になっているそうです。

 年齢を重ねて後、好きなことにうちこめる日々を過ごす、というのは多くの人びとの夢見ることといってよいでしょう。特に、毀誉褒貶の多いマンガ界にあっては、若い頃の努力の結果にせよ、できた伴侶のおかげにせよ、うらやましく思いながらも、一安心した次第です。

 
川崎のぼる・挿画『それぞれのベースボール』(国土社)、という本を、そういえば見かけたことがあった。




  3.磯田和一氏にお会いしました―2005年6月17日・新幹線名古屋駅口〜居酒屋「世界の山ちゃん」
 
 磯田氏が大阪での仕事の帰りに名古屋で途中下車してくださいました。午後5時半に待ち合わせして、気がつけば10時頃まで話しこんでいました。

 実の所、お会いしてからかなりたってこの文章を書いていますので、記憶が曖昧な部分もあり、細かいことまでは書けません。が、この時一番心に残り、悔やまれ、そして、悲しく思ったことは、
永島慎二氏のことでした。

 その頃、必要があって「劇画集団」のことを調べていた私があれこれと質問をしていた際に、磯田氏が何気なく「永島さんに会わせてあげましょうか」、と言って下さいました。本来なら、一もニもなく「お願いします」と言っておかしくないはずのことでしたのに、なぜか私は何も言いませんでした。そして、家に帰ってから、「どうしてすぐにお願いしなかったのか」、「馬鹿だな俺は」などと悔やんでいたのでした。

 その数日後、新聞で永島慎二氏が既に亡くなられていたことを知って、暗然とした気持ちになっていました。不思議だなと思う気持ちと同時に、なぜもっと早く永島氏にお会いできるように努力しなかったのかと、臍を噛みました。

 後のお話で私の記憶に残っているのは、
園田光慶(ありかわ栄一)氏がデビュー前にCMアニメ制作会社(「大阪コマーシャルフィルム(株)」)でアニメーターをしていた時代の話です。漫画家としてプロデビューする以前に既に、園田氏は描くことのプロだったようです。

 もう一つ記憶に鮮明なのは、私が持っていった小冊子に掲載されていた
川崎のぼる氏の作品(「俺をこの淋しい丘に埋めてくれるな!」『モーゼル96』23号・昭和40年)を見て、磯田氏が「懐かしいなあ〜」「この部分は僕がベタを塗ったんだよ」と、まるで子供のように(青年のようにというべきか)話していたことでした。

 その他、もっと細かなこともいろいろと教えていただいたのでしたが、とにかくこの日の思い出は、永島慎二氏の死去ということがらに塗り込められてしまっています。K氏いわく、「川原君の青春も終わったね」というのも、あながち的外れではないような気もしています。



           4.磯田和一氏にお会いしました―2005年8月4日・東京国分寺

 8月2日〜5日まで上京しました。

 8月2日は、
横山まさみち氏の「マイティジャック」出版のお願いでマンガショップを訪問しました。社長の後藤氏に快諾をいただき、一安心。

 8月3日は、
久松文雄氏と打ち合わせというか、まあ懇親会でした。この間お世話になっている横山プロダクションの、横山晃彦氏と山口千枝子女史を久松先生にご紹介できました。

 8月4日は、まず
東浦美津夫氏のお宅を訪ねしばし懇談。

 その後三鷹で時間をつぶし、夕方駅で磯田氏と落ち合い、国分寺へ。

 国分寺の駅を出ると、磯田氏は、青年時代の国分寺の風景を現在の風景とひきくらべて、一つ一つ説明してくださりながら歩いていきました。で、目的の場所(そこでゆっくりお話してくださるつもりのようだった)へ行ってみると、残念ながらお休みでした。そここそが、かの有名な「でんえん」でした。しかたがないので、また次の機会にということで、駅方面へと戻り、近くの喫茶店で話しこみました。

 
「でんえん」でアルバイトしていた美人と永島慎二氏を巡るエピソードは有名な話しですが、これはまた別の機会に書くべきでしょう。

 磯田氏の主目的は、彼の青春時代の回想記「国分寺物語」を私に読ませてくださるということでした。そこでは、かつての若き劇画家たちの青春時代が、平明な文章で、活き活きと描かれていました。本来それは、某ウェブサイト上で発表予定のものでしたが、些細な問題からペンディングとなってしまったとのことでした。

 あらかじめそのことをお聞きしていた私は、ぜひ発表すべきと思い、心当たりに持ち込むことを了承していただき、原稿をお預かりし、またしばしお話を続けました。帰りは、私の最寄の駅まで電車に同乗していただきました。

 8月5日には、お預かりした原稿と重たい荷物を抱えて本郷のあたりを右往左往していました。今にして思えば、わかりやすい場所だったのかも知れませんが、思いもしないようなビルの小さな一室でした。そこで原稿を預け、少し話し込み、バックナンバーが欲しいと申し出ると、うれしいことに在庫をくださったので(10冊ほども)、

 荷物こそはまた増えましたが、喜びいさんで帰途につきました。帰りの新幹線の中で、それらの本をむさぼり読んだことは、いうまでもありません。

 (後日談)原稿は掲載こそ決まりましたが、出版側の磯田氏への連絡不足(無し!)により、結局、原稿引き上げという事態となりました。しかし、何とか公にしたいという私の気持ちもあり、また磯田氏の好意もあり、うまくすればこのホームページ上で発表できるようになるかも知れません。

 これまで、細かなことまでは語れなかったこの「よもやま話」のコーナーですが、やっとそれらしいものになるかも知れません。 乞うご期待!!



      

  5.一峰大二先生に園田光慶氏のことを聞き取りしました―2008年7月31日・ご自宅にて

 匿名希望の某氏(その昔園田氏の仕事場−小金井市緑町−に遊びに行っていたとのこと)より、いろいろな情報をいただいた。

 その内の一つに、園田が一峰大二氏の手伝いをし、「煙草が吸い放題で、待遇が良かった」という言があった。園田光慶と一峰大二との結びつきというのが今一つピンと来なかったので、機会があれば確認する必要があるなと考えていました。無論、よく知られているように、一峰大二氏は桑田次郎氏と兄弟弟子なので、その流れなのかなと思ったりしてはいたのですが。そうした私の想像は、全く違ったものでした。

 伝手をたどってお宅を訪れた私に対して、本当に快く迎えてくださった一峰大二先生のお話は、次のようなものでした。

 園田光慶が手伝った作品は「クマ王物語」(『小学四年生』1964年11月号の別冊付録)。大部のページ数にかなり煮詰まっていた一峰氏を見て、たまたま遊びに来ていた園田が手伝いを申し出たようです。具体的には、そこに登場するカウボーイを描いたそうです。

 その際に(作品とは関係なく)、「下書きなしに!」(一峰)サラサラと描いたというカウボーイの一枚画を見せていただきました。絵は、その前年に描いた「黒のGANマン」(『刑事』35号・36号)を想起させるものでしたが、やはり達者なものでした。

 「煙草が吸い放題」というのは、仕事場で好き勝手に煙草が吸えるのかなと考えていた私の思いとは、ちょっと違った話のようでした。当時、まだ煙草を吸ったことがなかった一峰氏に煙草を奨めたのが、園田だったとのこと。そんなニュアンスの延長線上のもののようです。

 「待遇が良かった」という言葉のほうは、簡単には説明できない内容を含んでいるような気がしました。私も感じたのですが、何よりも一峰氏自身の人間性と、抜群の相性を感じさせる奥様の、二人が醸し出す家庭の雰囲気がその底にはあったのだろう。

 園田との出会いを尋ねる私に、「どこかのパーティで出会った」とする一峰氏と、「どこかの編集者が連れて来たのでは」とする奥様の2説があったが、「ガハハ」と豪快に笑う園田の笑い方が気に入ったとする一峰氏と、園田は気が合っていたのだろう。

 おそらくは小金井の仕事場から、当時は珍しい10段変速の自転車に乗って、しかも下駄で、一峰氏の所にやって来ていたそうである。とはいえ、園田が一峰氏の所を訪れたのはそう多くはなく、数度(当時3度ほど、後に1・2度)程度だった、とのことである。


 ※
(感想)一峰大二氏のお話を伺っていると、当時の園田光慶(ありかわ・栄一)は、永島慎二氏が『漫画家残酷物語』で描いた、喫茶店にたむろする
「劇画集団」の仲間たちの一人である「ありやん」そのままのようである。当時24才の園田は、自信に溢れ(おそらく「天才である」と自他ともに認めるところであった、と言っても良いだろう)、後塵を拝した川崎のぼる(内心、忸怩たるものがあったのだろう、と推察している)に引き続き雑誌連載を果し(「車大助」)、順調に連載を獲得し(「巨人ジャンロ」・「ホームラン探偵局」)、おそらく人付き合いも比較的良かったのだろう。



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