養沢毛ばり専用釣場がオープンした55年といえば、国内では広島で第一回の原水爆禁止世界大会が開催され、海外ではソ連(ロシア)が東ヨーロッパ七か国とワルシャワ条約を結んでいる。国内ではまた、米軍基地問題をめぐる砂川事件が起こっている。日本に限らず、世界各国がまだまだ戦争による影響で混沌としていた時代でもあった。
 そうした頃、ブレークモアは当時の日本人には馴染みの薄かった毛ばり釣り、とりわけフライフィッシングの専用エリアとして養沢川に専用区を設けた。彼はなぜこの地に毛ばり専用釣り場を設けたのだろうか。

ブレークモアは山野に分け入ることを
最大の生きがいとしていた。
大自然が作り出す美を心から愛していた。
 故郷オクラホマ・サパルパの森林地帯を父トーマス(同姓同名)に連れられてよく歩いていた。サパルパは緑深き森林地帯を有している。そこには様ざまな動物たちが生息し、数多くの美しい川が流れている。ブレークモアは父からフライフィッシングを教わり、狩猟の腕も磨いていった。オクラホマの緑豊かな大自然がトーマス・レスター・ブレークモアの人格を形成した。養沢川に毛ばり専用釣場を開設したのも、奥多摩、養沢の自然に故郷オクラホマ・サパルパの面影を見ていったからかもしれない。
 養沢毛ばり専用釣場のオープンの五年前、1950年、ブレークモアは友人のロジャースにあてた手紙の中で、当時の心境をこう記している。
(ロジャースなる人物はブレークモアの母校サパルパ高校の同級生だと思われる)。
「GHQ(連合国軍総指令部)で過ごした三年間は私の成長にとって願ってもない時間でした。私が鱒やその他の魚、日本の野生生物の生態について理解を深めることができたのも、このGHQでの公式の視察で日本国内の隅々を旅して回れたお陰でもあるからです」
A LIFE WAY OF TOMAS L . BLAKEMORE Series 1
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