第2話 ガンバと海
…物心付いたときには、母親はいなかった。親父と、ふたりで暮らしていた。小さい頃は母親のいる仲間が羨ましかった。
「でさあ、ガンバのお母さんって、どんな感じだったんだろうね?」
ボーボの他愛ない問いに、ガンバはちょっと真剣な顔で
「美人だった、って」
「本当に?」
「ああ、親父が言ってた」
「ふうん…」
「何だよ、ボーボ」
「だって、おいらガンバのお母さんもお父さんも、顔を知らないだろう?どんな顔だったのかなって、想像してたの」
「止せやい。馬鹿なこと、考えるなよ…」
ちょっと、照れくさそうにガンバは横を向いた。
「じゃあさあ、ガンバのお父さんって…どんなんだったの?」
まるで、ガンバが野次馬で見てきたことを聞くように、ボーボは問いかけてきた。
「優しかった。強かった。怖かった。一緒にいることが少なかった。そして…あっけなく死んじゃった」
ガンバは仰向けの姿勢になると、懐かしそうな口調で喋った。しかし、ガンバが箇条書き風に並べ立てた言葉を、ボーボは理解しきれない表情で聞いていた。
「強くて…怖くて…それで、優しいの?」
ガンバは、ちょっとおかしそうに笑った。
「そうさ」
「何だか、分かんない」
ガンバは、ますますおかしそうな笑顔を見せた。
「だって実際、そうだもの」
ボーボは、自分がからかわれているのではないか、と言った表情を見せた。
「ふだんは、優しかった。怪我や病気の時に、つきっきりでいてくれた。俺のおねだりを、何だかんだ言って聞いてくれた。
でも、約束事を破ったり、禁じられていたことをしたら、容赦なく尻を叩かれたっけ。それが、痛いの何の…そして、縄張りの巡回とか食料調達とか…
自分のことだけでなくて、仲間のピンチにはいの一番で駆けつけた。そして、相手が猫だろうが犬だろうが、ロックみたいな奴だろうがケンカして帰って来た」
…親父は、ふだんは服の下に隠しているけど裸になると体中に傷があった。
『これは、男の勲章さ』
いつも、そう言っていた。中でも、脇腹から背中にかけての古傷が、一番大きい傷跡で、一番の自慢だった。
だけどその傷がもとで…知らず知らずの間に傷が化膿し、ばい菌に侵されていて…2日ほど熱出して横になっていたんだけど
ある朝、静かに息を引き取っていたんだ。
『これはな、若い頃住んでいた町にいた、滅茶苦茶凶暴な猫と戦ったときの傷だ。父さん勇気ある仲間を集めて猫に立ち向かった、その時にな…
だが!何しろ、奴のおかげで仲間がとれだけ殺され傷ついたか…』
親父の武勇伝は、わずかな酒で酔った時に必ず口から出て来た。
ある日、俺がそれはもう聞き飽きたというと、親父はとたんに黙ってしまった。それから、沈黙が続き…突然、顔を上げた。
俺は、親父に怒鳴られるのではと思ったが…
『ところで、お前は海を知ってるか?』
これまた、唐突な話の展開に俺は返事ができなかった。
『海は、素晴らしい所だ。晴れた海は、とてもきれいだった。虹のように輝いて、あんな場所があるのかと感動したものだ』
初めて聞く『海』と言う言葉に、俺は惹かれた。詳しく話を聞きたいと言ったが…
『あの素晴らしさは、言葉では言い表せない。お前も、海を見に行くといい。その目で、海を見てこい。お前が、海を見に行ける歳になって海を見てきて
どんな感想を抱くか知らんが、この話はそれからだ』
「それから、親父は酔うと海のばかりした。言ってることは、いつも同じだった。海は素晴らしい、海はきれいだ、海を見てこい…」
「それだけ?」
ボーボが、ちょっと関心が薄くなったふうに尋ねた。
「そう。でさ、俺はいつか海ってやつを見に行こうと思っている」
「ふうん。で、その海はどこにあるの?」
「知らない」
ガンバの即答に、ボーボはガクッとした。
「知らないのに行くの?」
「ああ、海がどこにあるのか、どんなところなのか、全然知らない。でも…だからこそ、行きたいんだ。親父があれだけいい所だいい所だと 言っていた海…」
暗に、一緒に行こうと誘うような目でガンバはボーボを見たが
「おいらは、別にいいよ」
そっぽを向かれてしまった。
ロックとの『死闘』の後、ガンバは2〜3日の間動けなかった。その間、ボーボや仲間のネズミ達に介抱してもらい、食料を調達してもらったりしていた。
しかし、薄暗い住処でジッとしているのが、ガンバにとってどんなに辛かったか…やっと思うように動けるようになると、ガンバは待ってましたと外に飛び出した。
「んー、やっぱりお日様を浴びるのって、気持ちいーっ!」
ガンバが、思い切り伸びをしているとこちらを見ているネズミの視線に気づいた。
「だ、誰だい?あんたは…」
ガンバより、やや年上のそれでも若いネズミだった。鳥打帽を被って、帽子からはみ出た前髪で目は隠れていた。
「名乗るほどの者じゃ、ありませんよ。それより、あの卑怯者はどうなりました?」
「卑怯者…?って、ああ…ロックのことか。へへ、あれから俺がボコボコに叩きのめしてやったぜ」
ガンバは、両拳を交互に突き出しながら答えた。と、ふと何かに気づいたように
「…でも、あんたどうしてそれを?」
相手は、意味ありげに…顔の下半分が…笑っていた。
「ま、まさか…あの時、の!?」
「俺も、ああいう卑怯な奴が許せない性質(たち)でしてね。へへへ…」
「いや…ありがとう。あの時、俺、どうすることもできなくて…ボーボの命の恩人だよ。あの時は、本当に…助かったよ」
「ほお、ボーボさんってんですかい。お仲間は」
「あ…ああ。で、俺はガンバ。よかったら、聞かせてくれよ。あんたの名前」
「いや、止しときましょう。それに、俺はこの町のネズミじゃねぇし」
「…どういうこと?」
「俺はこう見えても、船乗りネズミでさあ。風の向くまま、気の向くまま、今日はこの船明日はこの船。あっちの港こっちの町…
この町には、知り合いがいるんでね。久しぶりに陸に上がったついでに、ちょっと顔を出しに来たってわけで」
ちょっと呆然とした顔をしたガンバは、急き込んで聞いた。
「じゃあ、海を…海ってのがどういうところか、知ってるの?」
「そりゃあ…俺は船乗りネズミとしちゃ、たいした冒険もしていないヒヨッコだがね…。まあ、町ネズミよりは経験豊富だね」
「お、教えてくれないかい?海って、どんなところ?どこにあるの?きれい?大きさは?いろいろ聞きたいんだ」
「お…おいおい、そう矢継ぎ早やに言われても。そうだな…」
それから、そのネズミから(彼は、とうとう自分の名前を名乗らなかった)話を聞いたガンバは、しばらく興奮を隠せなかった。
何より、いちばんの『情報』は…
『海がどこにあるのかって?ほら、そこに大きな川が流れてるじゃないか。その川をずーっと下って…川の流れる方へ進んでいくと
自然に海に出ますよ』
海への道のりが分かったガンバは、それ以来川面を眺めては見知らぬ海への思いを馳せるようになった。
そして、毎日のようにボーボに言った。
「なあボーボ、海を…一目でいいから、海を見に行かないか…?」