春のうららかな陽射しが、港町を心地よく包んでいた昼下がり…
「……」
シジンは、古びた帽子を目深に被って、椅子にもたれながらウトウトしていた。
「……?」
ふと、シジンは病院入口の呼び鈴を遠慮がちに鳴らす音で、目を覚ました。
「…どちら様ですか?」
やや間延びした声で誰何するシジンは、また近所の子供のいたずらではないかと思った。
入口に、誰かが立っているわけではなかったからだ。
「やれやれ…」
今は、午後の休診時間。入口には『急患とお急ぎでない方は、夕方までお待ち下さい』と断っている。
呼び鈴は、その『お急ぎの方』用なのだが近所の子供達には、恰好の遊び道具だ。
「あの…」
シジンが振り向いて診察室に戻ろうとした時、背中から細い声がした。女性のようだ。
「はい…?」
ビックリして振り返ると、入口から遠慮がちに半分顔を出すネズミの姿が。
「何か?失礼だが、お急ぎですか?」
決して、とげとげしい口調ではなかったのに相手は、その言葉に身を堅くしてしまった。慌ててシジンは、入口近くに駆け寄った。
「ああ、すみませんね。そういうつもりは、ないんですよ…」
「こ、こちらこそ…すみません。お休みのところをお邪魔したみたいで…」
「いえいえ…急な、診察のご依頼ですか?」
すると、また相手はドキッとしたように身を少しこわばらせた。
「い、いえ…その…」
シジンは、ちょっと怪訝そうな顔をした。
「実は…その、突然で申し訳ないのですが…ここで、働かせて下さいませんか?」
「えっ…?」
誰だって、この突然の申し出に戸惑わない者はいないだろう。しかし…
「まあ、お入りなさい」
シジンは、優しく彼女に声をかけた。相手は、この一言を言うのに精一杯だったのだ。ちょっと触っただけで今にも崩れてしまいそうな表情で
彼女はシジンの後に続いた。
「ところで、あなた…お名前は?」
「…ナギサと、言います」
シジンが、思わず手にしたお茶を床にぶちまけてしまったのも、無理はないだろう。
「…そう言うことだったんですね」
シジンから『事情』を聞いて、彼女はやっと笑顔を見せた。その表情を見て、シジンも安堵した。と、そこへ
「ただいま」
入口から妻の声がしたので、シジンは妻がどんな反応を示すものかと、ちょっとにやけた笑顔を浮かべて振り返った。
「おおい、誤解だよ!僕が、そんな男に見えるのかい?とにかく、僕の話を聞いてくれないか。ここを開けて、出てきてくれ。ナギサ!」
堅く閉じたナギサの部屋のドアを、シジンは必死に叩きながらナギサを呼ぶが反応はない。
その様子を遠巻きに見ながら彼女は…もうひとりのナギサはオロオロしている。
「センセイ、何かあったんかい?」
いつの間にか、婆さんネズミが怪訝そうな顔でこちらを見ていた。この婆さんは、夕方の診察時間になると決まってやって来る。
シジンを、茶飲み友達とでも思っているらしい。
「あ…もうそんな時間か…」
シジンは、夕方の診察の準備が何も出来ていないことに気付き、別のことでも焦り始めた。そんなシジンをヨソに婆さんはシジンの表情と
片隅でかしこまっている若い女性を、交互に見ていたが
「なるほど…センセイも、なかなか隅に置けないねぇ」
と、ニヤリと笑った。
「ご…誤解ですって!わ、私は何も…!」
「ああ、言わない言わない。あたしもね、死んだジイサンにゃぁ…若い頃、よく泣かされたよ。あちこちにね…」
シジンは、当惑顔で婆さんを見ていたが婆さんは頓着しない。
「それでね、奥さん!センセイにだって、いっぱしの甲斐性があるってことじゃないか!一度や二度の浮気くらい、大目に見てやりなって。
結局は、最後に奥さんのところに帰って来るんだから」
ドア越しに聞こえるように、大声を張り上げて婆さんはその日はそのまま帰っていった。
シジンがどうしたものかとオロオロしていると、その背中で静かにドアが開いた。
「ナギサ…」
「そうよね。あなたに、そんなことができるわけがないわね。ただ、突然のことで私も動転しちゃったみたい」
笑顔を見せたナギサに、シジンは安堵の表情を見せた。
「…私は、ここから遠く離れた山間の町に棲んでいました。貨物列車で、一日半かけてこの港町までやってきました」
「どうして、ここまで?」
シジンの問いに、彼女(便宜上、こう呼ばせてもらおう)は
「兄を…捜しているんです」
「お兄さんを?何か、手掛りでもあるの?」
ナギサが聞くと、彼女は懐からよれよれになった写真を取り出した。
「兄です…この写真だけが頼りです…」
写真には、船乗りネズミ風の恰好をした若者が港をバックに写っていた。
「この写真は…?」
「一年ほど前、兄の友人に宛てて届いた手紙に、同封されていました。母さんには手紙一つよこさないで…でも間接的に、
私達に連絡をくれたのだと解釈しています」
シジンは、軽く咳払いをすると
「聞いた様子では、あなたのお兄さんは…家を飛び出して行ったのですか?」
すると、彼女は小さくうなずいた。
「…父さんと、喧嘩して。もう、三年…いえ、四年近くになるでしょうか。父さんも石頭でしたが、兄も意固地で…私と母さんが
取り成すのを聞きもせずに…」
「それで、この手紙と写真が?」
文面は、友人に宛てた手紙らしくお世辞にも上手いとは言えない字で、近況報告が綴られていた。
船乗りになって、あちこちの港を転々としていること、その本拠としてこの港町の名前が挙げられていること、そして添えられていた写真…
「どうやら、あそこのドックだね」
背景に写っていたのは、ここからそう遠くない湾内にあるドックの一部だった。
「そのようね…」
ナギサは、シジンに相槌を打つと彼女の方を見た。
「それで、この町にいればお兄さんに逢えるかもしれないと…?」
「はい…」
「でも何で、この病院を選んだの?」
「私、看護師の経験が少し…だから、どこか病院とかならばご迷惑をかけずに置いていただけると思って」
シジンとナギサは、お互いに顔を見合わせた。そして、夫婦の呼吸でお互いに了解を得たようだ。
「こんなところで良かったら、お兄さんが見つかるまで…居ていいですよ」
シジンの言葉に、彼女は目に涙を浮かべて頭を下げた。
「いいのよ、そんな。それより、お兄さんの消息が早くつかめるといいわね」
思わずナギサも、もらい泣きしそうになりながら彼女の肩に手をかけた。
「そうだよ。せいぜい、寝る場所と食事程度しか提供できないんだ。そんなにかしこまらなくても…」
「いえ、それだけでも十分過ぎます。私、勝手なことばかり言って…」
ちょっと気まずい雰囲気に、シジンは慌てて
「と、ところで…名前が同じでは、ちょっと区別しにくいからね。どうしたものかな…大ナギサ・小ナギサでは、変だしねぇ」
シジンとしては、場の空気を和ませようとして軽口のつもりで言ったのだが、大ナギサ…もとい、妻のナギサに睨まれて沈黙した。
結局、シジン夫婦は彼女のことを「さん」付けで呼ぶことにした。
翌日から、彼女はシジンの病院でまめに働いた。
とは言っても決して大きくない病院だし、シジン自身半ばボランティア的な感覚でやっているだけに、常に忙しいわけでもなかった。
「ちょっと、出かけてきます」
午後の休診時間になると、彼女は表にでかけた。
「気をつけてね。港ネズミや船乗りネズミの中には、気の荒い者もいるからね」
シジンは彼女を見送りながら
“こんな時ガンバ達がいれば、進んで彼女のために動いてくれるだろうに…”
と、腹の中で呟いた。
「あの…捜しているひとがいるんです」
彼女は、港で誰かに逢うと写真を見せて必死に尋ねて回ったが、誰も彼も一目写真を見て知らないと、首を横に振るばかり。
彼女が諦めて帰ろうとすると…
「そいつのこと、知ってるぜ」
目の前に現われたネズミは、口元にちょっと嫌らしい笑いを浮かべていた。いくら彼女が田舎者でも、この相手はちょっと怪しいと直感した。
事実、あっという間に彼女はチンピラ風に取り囲まれてしまった。
「悪いようにはしねぇよ、俺達と一緒に来なって」
彼らに抵抗するには、彼女はあまりに非力だった。彼女は、悲鳴すらあげられずにその場に固まってしまった。
その時…!
「痛てっ…!な、何しやが…イッ!」
彼女に迫っていた、チンピラ風が顔を歪ませて悲鳴をあげた。
「見たとこ、おめぇら港ネズミか?何にしても、ネズミの風上に置けない野郎どもだな」
いつの間にか、背後に日焼けした肌もたくましいネズミが忍び寄って、チンピラ風を後ろ手に締め上げていた。
「て…てめぇ…は!」
「俺のこと、知っているのか?だったら、話は早い。失せろ、シッポの腐った奴らめ!」
そう言って、チンピラ風を突き飛ばすようにして手を離した。彼らは、憎らしそうにそのネズミを睨み付けたが、捨て台詞を残して退散した。
「大丈夫かい?」
「ええ…ありがとうごさいます」
「何、どうってことないさ。まあ、港ネズミも、船乗りネズミも、本当は気のいい奴らばかりなんだがな…
たまにああ言う、シッポのひねくれた連中もいるから困ったもんだ。どれ、送って行くぜ。住処はどこだい?」
「…リッキーじゃないか!久しぶりだね」
シジンは、彼女を連れてきたネズミを見るなり嬉しそうな声をあげた。
「お久しぶりです。センセイ…」
事情を知らされていなかった彼女は、ちょっと驚いた顔でふたりを見た。
「ハハハ…もう1年近く前になるかな。リッキーは、チンピラ達と大ゲンカをやらかして、全身傷だらけで、この病院に担ぎ込まれてきたんだ」
「一世一代の喧嘩さ。何しろ、十数匹を叩きのめしたんだから」
「おいおい、自慢にならないよ。自分も、ボスとの殴り合いでボロボロだったんだぞ」
「ここに担ぎ込まれたはいいけど、全身の骨が折れたりヒビ入ったりして、声をあげることすらできないでいたら、センセイに一喝されてね…」
『君には、親兄弟はいないのか!万一のことがあったら、悲しませる相手がいないのか!』
「…親兄弟は、とっくに関わりがなくなったけどよ、あいつを悲しませるわけには。そう思ったら…」
「あれから、むやみにケンカはしていないだろうね?」
「誓って、してませんよ。今じゃ、あいつの他にも悲しませることのできない存在が…子供ができましたしね」
「そうか!それは良かった。あ、ところで…ナギサさん、例の写真は?」
シジンに促されて、彼女は事情を説明した。
「さあて…見ない顔だが。まあ、俺だって港ネズミ全部を知っているわけじゃないし、出入りも激しいからなあ。ま、当たってみましょう」
それから、ナギサさんの懸命の捜索は続いた。しかし、これと言った手掛りもなくやっと得た情報も、途中で切れてしまう有様だった。
「気を落とさないで。逢いたいと念じる気持ちを持ちつづければ、きっと逢えるよ」
シジンがいつもように優しく慰めるが、その言葉が白々しく聞こえるほどナギサさんは落ち込んだ気持ちでいた。
「シジン…リッキーさんが」
ちょっと居たたまれない気持ちになっていたシジンは、良い機会とばかりに立ち上がると、その場を後にした。
「やあ、どうだい?何か、つかめたかい?」
リッキーは生まれたばかりの子供のこともあるからと、1ヶ月ほど港町に逗留することにしていた。
「いえ…ナギサさんにゃ気の毒だけど、ほとんどゼロですよ」
「そうか…」
「どこか、航海中じゃないのかしら?」
「うーん…どうかな」
ナギサの言葉に、リッキーは首を横に振った。
「どういうこと?」
ナギサの問いに、リッキーは
「いえね…彼女の兄さん、マサさんとか言いましたっけ。見たとこ経験の浅い船乗りのようだし、そう言う連中が船に乗れるチャンスは…
今のご時世、かなり低いんですよ。まあ、こんな不景気な話したくはないんですがね…船乗りの世界も、今じゃけっこう世知辛くなってねぇ。
昔のように、腕っ節や冒険心から船に乗ろうとしても…ボスの器がいなくて。誰も、そういう生きの良い奴らの面倒を見ようとしない」
「なるほど…」
シジンの脳裏には、ふとヨイショの磊落な笑い声と笑顔が浮かんだ。
「…それに、ちょっと船に慣れたところで二言目には、やれ生活だの家族だのと…たまにゃ、女房子供の顔を見てやれって、しつこく尻を
叩かなきゃ船を降りなかった連中ばかりだったのに…今じゃ、子供が熱出したってくらいで船降りちまうんですから。時代…ですかね?」
苦笑するリッキーにあわせて、シジンもちょっと苦笑を浮かべて見せた。
「じゃあ、彼女のお兄さんは船に乗っている可能性は、かなり低いのね?」
「まあ、そういうことになりますかねぇ…」
変化が現われたのは、歯切れの悪い言葉を残してリッキーは病院を後にしてから、二週間ほど後だった。
「おい、これ…あいつに似てないか?」
ドックに居を構える港ネズミのひとりが、写真を見て言った。
「ふむ…似てるな」
声をかけられたネズミも、写真を覗き込んで言った。
「そ、それで…居場所はどこですか?」
教えられた場所は、ドックの裏手にある場末の酒場が密集した地区だった。そこは昼間でもジメジメと薄暗く、とても独りで入り込めそうな場所
ではなかった。ナギサさんは急いで病院に引き返した。幸い、リッキーも来ていたので彼らに事情を説明すると
「よし、行ってみよう」
頼もしい返事が返って来た。
「どうやら、ここのようだな…」
シジンとリッキーがやって来たのは、安っぽい飲み屋の前だった。
入口のドアを開けると、中からは独特の喧騒とタバコの煙、酒の匂いに混じって、常連客独特の匂いが一気に流れてきた。
店はさほど広くないようだが慣れない場所だし、タバコの煙が立ち込める薄暗い店内で、特定の顔を捜すのは苦労する。
それに、あまり派手な行動は取れない。彼らは、店の片隅でじっとしていた。すると…
「…あれ」
リッキーが、シジンの身体を軽くつついた。そして、そっとあごで指し示した方には…
「…確かに」
カウンターの中にいるのは、あの写真とそっくりのネズミだった。彼らは、そこまで確認すると店を出た。
「…船乗りネズミどころか、あれじゃバーテン見習いってとこだな」
「何か、事情があるんじゃないかな…」
ふたりは、困惑の色を隠せなかった。
「それでどうする、センセイ?」
「ありのままを、話すよ。その後は、彼女次第だ」
シジンが、この辛い役目を負うことにした。
「…と、言うわけなんだ。ヒゲを生やしたりしていたけど、君のお兄さんにまず間違いはないと思う」
ナギサさんは、ショックを隠さずに聞いていたが
「一度、そこへ連れて行ってください。兄さんには、話があるんです」
翌日の夕方、まだ店が開く直前のタイミングを見計らって、彼らは件の店に行った。
「何だい?まだ早いよ」
カウンターにいた、店主とおぼしき中年のネズミがリッキーを一瞥して言った。
「悪りぃな…捜している奴がいるんでね」
相手の態度に構わず、リッキーはカウンターに近づくと例の写真を出した。
「こいつを、知らねぇかな?」
店主は、さっきと同じように写真を一瞥すると
「マサじゃねぇか。こいつに、何の用だ?」
「何、ちょっと話があるだけさ」
店主はリッキーの顔をジロリと見たが、リッキーは動じない。
「…裏にいるぜ」
「ありがとうよ。取っといてくれ」
リッキーは、ちょっと珍しい形と色の貝殻をカウンターに置いた。
店主は相変わらずの態度でそれを一瞥すると、カウンターの中の整理を続けた。
「裏にいるってよ」
店の表に出ると、シジンとナギサさんを連れて裏に回ると、従業員達がそれぞれに仕事をしていた。
ナギサさんは、その中から一目で『目的』を見つけ出した。
「…兄さん!」
場違いな、甲高い女性の声にその場の男達は一斉に顔をあげた。その中で最も驚いた表情を見せたのが、彼女の兄だった。
「ナ、ナギサ…?」
事情が飲みこめない彼は、ここでは何だからと彼らを別の場所に連れ出した。
「一体、何の用だ?俺を、連れ戻すつもりか?」
ナギサさんは、小さくうなずいた。
「だろうと思ったよ。悪いけど、俺にその気はないぜ。今更、どの面下げて親父の許へ帰れってんだよ」
マサは、懐からタバコを取り出すとそれに火をつけた。
「何かと俺を、腑抜けだの情けないのと半端者扱いして…自分のメガネに適わないことは、頭ごなしに否定して、まるで王様に
お伺いを立てるが如く、腰を低くしないと話を聞いてもくれない。何かと、正論ばかり頭ごなしに怒鳴り付けるだけ…
そんな親父の許に、俺がノコノコ帰れるとでも…」
「父さんは…父さんは死んだわ!半年前に…もう、この世にいないのよ!」
ナギサさんが、彼の言葉を遮るように大声をあげた。
親父は、田舎の町ではちょっとした「顔」だった。幼い頃は、それがある意味自慢でもあった。
しかし、俺は子供の頃から親父が近寄り難い存在として、うっとおしく思っていた。
俺自身、決して器用で要領の良い方ではなかったから、何か一つのことをするのにもたつくことも多かった。
なかなか片付かずグズグズしていると、親父は『分からないなら、聞けばいいじゃないか』と言う。
それならばと別の機会に、分からなくなったので親父に助けを求めた。だが…
『そんなことくらい、自分で考えろ。とことん自分の力でやりもしないで、助けを求めるのは情けない』
でも、俺としてはどうしても行き詰まったので聞いているのだ。口の中で文句を言うと突然、親父の平手が飛んできた。
その頃からだろうか、心の中で親父を認めなくなってきたのは…
やがて、子供の頃は世界の全てだった田舎の町は、単なる世界の一部…いや、ほんの片隅にも過ぎないと分かると、親父がどんなに知れた顔でも
それは所詮、田舎町の中でのことであって、尊敬は急速に蔑視へと変わった。
しかし、親父の態度は変わらない。ちょっとでも、自分の考えに反することは認めようとしない。
親父の言うことは正論だから、結果として俺の方が間違っていることがある。いや、むしろその方が多い。
しかし、それを諭すと言うより頭ごなしに言ってくる態度に、あらゆる面で反発を覚える。
親父の方も、それ見たことかと言う態度でくる。
そして…とうとう、俺は田舎を飛び出した。当てなんかなかった。ただ、新しい別の世界を見てみたかった。
2日ほど、貨物列車に揺られて着いた場所は全くの別世界だった。そこで、俺は『海』ってのを初めて見た。
この海の、遥か向こうにある世界を知りたくなった。港で船乗り達の話を聞き、その思いはますます強くなった。
「…だけど、現実は甘くなかったよ。ポッと出の田舎者が貰える仕事は、港での下働きが関の山さ。まあ、覚悟はしていたけどね」
自嘲気味に笑ったマサは、タバコの吸殻を足元に捨てた。
「じゃあ、あの手紙は何なの?ウソついたわけ?それも、父さんや母さんに直接出さずにお友達に宛てて…間接的に、父さんや母さんに
知られることは、分かっていたでしょう?」
「ヘッ、こんな俺でも見栄の一つくらい、張ったっていいじゃねぇか」
その時、それまで黙って話を聞いていたリッキーが、すばやくマサのもとに近づくと彼の胸ぐらをグイと掴んだ。
「さっきから聞いてりゃ…情けねぇ奴だな!ちっぽけな見栄にしがみついて、誰が悪いのとひとのせいにして逃げやがって!
おめぇみたいな奴が、船乗り仲間に認められるわけがねぇだろう!いいか!俺らの世界はそんなに甘くないんだ。そんなヤワなシッポじゃ
お前は船に乗る前に、溺れ死んじまうだろうぜ!」
マサは、突然のことにちょっと驚いていたが、リッキーの言葉に何も反論しなかった。
「ケッ、つくづく情けねぇ奴だな。やめた、やめた。その横っ面、殴り飛ばしてやろうかと思ったが…殴る価値もねぇ。サッサと田舎に帰りな!」
リッキーに突き飛ばされて、尻餅をついたマサはそのまま動かなかった。ナギサさんが、すかさず駆け寄って
「帰ろう、田舎に。母さんが…ううん、父さんだって病の床についていた時に、いつも言ってた。今日は帰ってくるだろう、明日こそ元気な顔を
見せに来るだろうって…ずっと、ずっとよ。だから、せめて父さんの墓に手を合わせるくらいでも…ね?」
マサは、その場に座り込んでうなだれたままだった。
「妹さんの…ナギサさんの言うとおりだよ。君のお母さんが健在なら、まずは安心させてあげなさい。その上で、君はまだ若い。自分の道は
それから考えるといい。何かあれば応援するよ。このリッキーも…ちょっと口も気も荒いが、いざとなれば誰よりも親身になってくれるだろう。
だから、ここはひとまず…」
シジンが、マサの肩に手をかけるとマサの肩は小刻みに震えていた。彼は、泣いていたのだ。
「あ…ありがとう…ホントに、嬉しいんです…俺みたいな…」
シジンは、優しく彼の肩を叩いて慰めた。
数日後
「じゃ、元気でね」
「いろいろ、ありがとうございました」
「落ち付いたら、連絡ちょうだいね」
「おふたりも、お元気で…」
彼らは、貨物列車に乗って田舎に戻って行った。列車が小さくなるまで見送ったシジンとナギサが振り向くと、リッキーの姿があった。
「何だ、来ていたのかい?」
シジンが声をかけると、リッキーはちょっと笑って
「いえね、あいつにこれをね」
彼の手には、珊瑚のかけらが載っていた。彼らにとって、航海安全の『お守り』だ。
「なるほど…」
「でも、何でここにあるの?」
「え、こいつは子供の分ですよ。さっき、あいつにはちゃんと手渡しましたって」