第9話 我輩はネズミである
我輩が産まれた時、親は一瞬目を疑ったという。
「こ、これは一体…?」
そう、我輩の身体には『あるべきもの』がなかったのである。正しくは『それがそれと判らなかった』のだが。
「こ、これは一大事だ…」
その夜、親類一同が集められた。
「しかし…どうしたものかな」
「やっと授かった、それも男の子というのに…」
「何か、呪われてるんじゃないだろうか?」
「縁起でもない。単なる偶然だ。大きくなれば、そのうち…」
「保証があるってのかい?気休めなら、かえってかわいそうだ」
「だが、このままだとこの子の将来がなあ…」
「うーん、たまに短かったり細かったりするのはあるが…ここまで極端だとは」
座の者たちは、腕組みしてうなりあっていたが…
「まあ、身体の成長と共に立派な形になるのを、見守るしか…」
結局、こんな結論で納得し合うしかなかった。その時、
「わ、私は…この子を立派に育ててみせます…」
力ない声が、沈んだ座の空気を変えた。
「お、おいおい…寝ていなさい。産後の肥立ちが良くないんだから…」
「いいえ…もとはと言えば、私の身体が弱かったから…」
座の空気が、ますます打ち沈んだ。
「それでも、助かった生命なんです。多少のことくらいは…私が生涯をかけて、この子を守ってみせます」
涙を流して、哀願するような口調で話す母親の背中を、そっと抱いた男が言った。
「ハハ、安心をし。私達は、この子をどうにかしようとしているのではない。ただ、突然のことだけに、対処に苦慮していたんだ。
それは、この子の将来のことも含めて、と言う意味でだよ」
だが、後から聞いた話だが…もし我輩に兄弟がいたら、あるいはあの時、母親がその場に現れなかったら我輩の人生は
大きく変わっていたはずだ。
それというのも、もし兄弟がいれば、我輩のような子供は不要の扱いとなり捨てられて孤児になるか、あるいはまともな兄弟の一員としての扱いを
受けることはなかっただろう。
事実、この時に遠回しな言い方で、我輩を処分してしまえと言った者もいたそうだ。
まあ、今となれば我輩にとっても『過去の話』ではあるが。
とは言っても、やはり我輩にとって『身体的特徴』は、成長するにつれて大きな心のハンデとなっていったのは、事実である。
何しろ、それはネズミとしてのシンボルである。
それが『ない』のは(厳密には、短かすぎて見た目にはっきりとした形になっていないだけなのだが)
仲間からの格好の『標的』にされる結果となった。揶揄は、次第にいじめへとエスカレートし、周囲の大人達からでさえ、差別的な視線と
言葉を受けるようになった。
それに加えて、我輩の身体はチビである。もともと、産まれた時から虚弱な身体だったそうだが、発育も思わしくなかった。
従って、腕力や体力をひけらかすことは到底無理で、ケンカはしないしやっても勝てたことがない。
それでも、やがて我輩にも『自尊心』と言うものが芽生えてきた。
そしてそれは、我輩のように何らかの『ハンデ』を持つ者には、ある意味自分の支えとなったが、ちょっとしたことで傷つくものだ。さらに…
“せめて、話し相手がいればなあ…”
そう、我輩にはこんな心の悩みを打ち明ける相手がいなかった。
両親は、死ぬまで我輩の身体のことを気遣ってくれていたが、我輩としてもいつまでも甘えるわけにはいかない。
たまに悩みを打ち明けることはあっても、本音の何分の一しか話せなかった。そして、両親に対して
『こんな身体に産んでくれとは言っていない』
などとあてつけがましい怒りをぶつけることはしなかったし、できなかった。
両親は、我輩がそのことでいじめられ、泣かされてくるのを何よりも辛い気持ちで見ていたのだ。
やがて、我輩が両親に心配をかけまいと虚勢を張るようになると、それはそれで心を痛めていたようだった。
「……」
一方、それなりの『努力』をいくつか試みたことはあった。しかし、それらはことごとく失敗に終わった。
例えば…『栄養をつける』こと。これは結局お腹を壊しただけに終わった。それから『成長を促す薬』は、単なる栄養剤と判り断念した。
まあ、妙な副作用の出る薬でなかっただけ、良かったと言えるが。
または『物理的に引き伸ばす』こと…これが、もっとも手っ取り早くいろいろ試したものの、全くその功を奏さないで結局、尻に大きなあざや
傷をつくるに過ぎなかった。そして、それはますます親の顔を曇らせることになるのだった。
“仕方がないのか…”
我輩はある時期から、しっぽのことで悩むのを止めようと努力することにした。
何とかしようと努力して失敗するより、半ば開き直ることで打開しようとしたのだ。
もちろん、全て拭い去れるわけはない。しっぽは、何だかんだ言っても『ネズミの象徴』であることに、変わりはないのだから。
そんな我輩の、人生を大きく左右した出会いが二つある。
そのひとつは、言うまでもなくヨイショとの出会いだ。
「おうおう、ひとりを大勢でいじめるなんて、根性悪い奴らだな」
いつものように、我輩がからかわれいじめられているところへ、背後から声がした。
「何だと?」
振り返った連中は、ちょっとたじろいだ。歳は変わらないが、体格のいい腕っ節の強そうな奴が腰に手をあてて、こちらを見ていたのだ。
「……」
彼らは、しばらく睨み合っていたが相手の迫力に気圧された感じで、その場を後にした。
「全く…弱い奴にだけ強えなんて、情けない奴らだ」
逃げていく彼らの背中を、冷ややかな視線で見送りながら彼は呟いた。
「怪我は、ないかい?」
彼の言葉に、我輩は黙ってうなずいた。正直、この程度のことは日常茶飯事だったから、痛いとか悔しいとかと言った感情も、出てこなかった。
「でもよ、おめぇもだらしねぇぜ。やられっぱなしとは…ちったあ、相手に一発お見舞いしてやるくらい…同じネズミとして、情けないぜ」
我輩の心に、ある言葉だけが強く、深く突き刺さった。思わず、顔を上げると相手の顔をじっと見た。
「な…何だ…よ?」
びっくりした表情で、ちょっと引いた感じの相手に態度に構わず、我輩は訊ねた。
「き…君は、僕のことをネズミだと…?」
「はあ?何、言ってんだ?その身体、動き、前歯、どれを見たってネズミじゃねぇか。まさか、実はネコだなんて言うんじゃねぇだろうな?」
「いや…実は…この通り…」
我輩は、後ろを向いた。
「……?」
我輩は、相手からしかるべき反応が返ってくるものと覚悟していた。しかし…
「それが、どうしたんだい?そりゃま、シッポはネズミのシンボルさ。けどなあ、さっきおまえをいじめていた連中なんて、見た目は立派だが
中身が腐ったシッポだぜ。ご先祖様からの教えによ、シッポは長さや太さじゃなくて中身だってさ。くよくよすんなよ。
船乗りはな、そんなシッポが長いの、短いのでネズミを判断しねぇのよ」
これが、ヨイショとの出会いであった。我輩たちは歳が近かったこともあって、無二の親友になっていった。
もう一つの出会いが、我が師匠との出会いである。そのネズミは『シロヒゲ』と呼ばれていた。
高齢のようだが、実際の年齢が判らないほど頭の毛は真っ白で、頭の毛との境目が分からないくらい、顔中に髭をたくわえていた。
それがまた髪と同じく真っ白で、正面から見ると白い毛の固まりがモゾモゾと動いているようだった。
かように、外見や生活態度に頓着しない方だけに、周囲からは『変わり者』扱いされていた。しかしこの方は、大変な博識を誇っていた。
「ふむ…ふむふむ…これは、なんとも。いや、研究に値する」
どうやら、師匠は我輩を『研究対象』として見ていたらしい。それから我輩は、師匠の『研究心』(好奇心とも言えるのだが…)を満たすために
毎日のように師匠のもとに通った。
はじめは、我輩としても好奇心から我輩の身体を見る師匠の態度が、正直面白くなかった。
しかも、師匠は『研究』と称して、我輩の身体をいろいろといじくったり、血を抜いて見たり、うつ伏せに寝かせて身体を縛り付け、シッポの
部分を引っ張ってみたり…はっきり言って、とてもマトモな扱いをされてはいなかった。
しかし、それでも我輩が師匠のもとに通ったのは、師匠のお世辞にも広いとは言えない住処に所狭しと並んでいる
数々の『機具』類や積み上げられた『本』のためであった。
最初、それらを見るだけでゾッとしたものの慣れというか、我輩の中に眠っていた『好奇心』が動き出したのか、それらに興味を持つようになった。
「……」
何気に手にしてみた一冊の本…そこには、鮮やかな絵が見開きいっぱいに描かれていた。海の絵である。
そこには、色とりどりで形もさまざまな魚が泳いでおり、イルカが跳ね、クジラが潮を吹いていた。カモメが飛び交い…実にわくわくさせてくれた。
「面白いか?」
後ろから覗き込むように、師匠が訊ねた。
「これは…?」
「海の世界を描いたものだよ」
「海…って、あの海を?」
師匠は、この言葉に笑った。
「いつも見ている港からの海は、本当の海じゃない。ここに描いてある海は、遥か遠くの海の世界だ。港も島もない、ただ一面海だらけの世界の様子だ」
これが、我輩の好奇心の扉を開いた。我輩は、次々と本を開いた。
難しい字が並んでいるだけのもあったが、分からないなりに読んだ。その過程で、我輩は文字を覚え言葉を知った。やがて、我輩は決意する。
知識では誰にも負けないネズミになろうと。
我輩がヨイショのもと訪ねたのは、それからしばらく後のことだった。
「何?海が見たいって…?」
その頃、ヨイショは何度も航海の経験があり親分とまではいかないものの、その頃にはいっぱしの海の男になっていた。
「ま、おめぇが行きたいってのなら止めはしねぇよ。ただなぁ…」
「ただ、何かな?」
「んー…ま、乗ってみりゃ分かるさ。けっこう体力勝負だからな。その辺りは、ちょっと覚悟しといた方がいいかもなあ」
今更、シッポのことを云々されたら我輩はヨイショの横っ面をひっぱたいてやろうかと思っていたが、体力や運動能力を言われると確かに弱い…
我輩は、ちょっと返事に窮していたのだが…
「それじゃ、次の満月の夜が出発だからよ。おまえがその気になったら、ここに来いよ。お前のことは、仲間達に俺から話しておくからよ」
ヨイショは我輩の返事を待たずして、我輩が航海に参加するものと決め付けて、はしゃいでいた。
「……」
こうなったら、仕方がない。我輩はヨイショの言っていた日に港に行ってみた。
「おおい、こっちこっち!」
ヨイショに手招きされて、我輩はその場に駆け寄った。
「紹介するぜ…俺の幼馴染ってやつだ。名前は…今度の航海で、決めようと思っている。よろしく」
見れば、ほとんど歳は同じくらいの…いわば、将来の親分候補たちだった。次に、我輩はヨイショと共にその当時の親分格に挨拶に行った。
「よろしくな」
「しっかりやれよ」
「おまえさんの門出だからな」
彼らは思っていたより、紳士的だった。この考えは、すぐに恥ずかしく思うこととなったのだが、正直言うとそれまで我輩は、彼らは腕っ節だけの
単純と言うか…だと、思っていたのである。
「さあ、今夜は派手に行こうか。出港の前祝いと、ヨイショの友達の海の門出を祝って。無礼講だぜ」
ヨイショの遠縁で、彼の父親の代までは海賊だった言う当時の親分は、その夜はとても上機嫌であった。
そして、海は初めてと言う我輩に何かと気を遣ってくれた。
かくして船出をした我輩を待っていたのは、文字通り『試練』の毎日だった。
まず、我輩を苦しめたのは、言うまでもなく船酔いである。出港後、半日と持たずに目が回り始めた。身体のバランスが取れない。
そして、その不安定な感覚はすぐに激しい吐き気に変わった。
胃の中のものを全て吐き尽くしたと言うのに、まだ吐き気が止まらない。胸が気持ち悪いのが続き、感覚も失われ、寝ていても落ち着かなかった。
結局、我輩は丸三日倒れていたのだが、ヨイショを始め船乗り達は、我輩のことをそれとなく心配してくれていた。
「おい、潮風に当たらないか?」
ある程度回復した我輩に、ヨイショが声をかけてきた。我輩は、ヨイショの後について甲板に出た。
「……!」
そこには、ただ一面に海が広がっていた。青い波が、どこまでも続いていた。その光景の素晴らしさは、本に載っていた絵の比ではなかった。
「どうだ?海って、素晴らしいだろう?」
ヨイショの言葉に、我輩はただうなずいていた。それに、約3ヶ月の航海の間に我輩の知識はいろいろと役に立った。
彼らは、経験から得た知識に絶対の自信を持っているし正しいのだが、計画とか計算となると大雑把である。
それから、不測の事態に直面すると結構オロオロしている。そんな時、我輩の助言がしばしば彼らの助けになった。
そんな彼らからつけられたあだ名が、いつのまにか我輩の名前になった。すなわち『ガクシャ』だ。
我輩は、その名に恥じぬようそれからも多くの本を読み知識を豊かにした。その結果、我輩の視力はどんどん低下し、今ではかなり度のきついメガネを
かけないと、まともに物を見ることができない。が…ウホン、我輩はそれをちっとも恥などと言う感覚で捕らえてはいない。他のネズミにない
我輩の『知力の証』であるからして…
おいヨイショ、ひとの頭を小突くことはないだろう…?