c o m p l i c i t y   


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 気温は、アスファルトの照り返しに弄ばれるように、昇りつめている。雅人は、額の汗を拭った。
 色素が溢れて滲み出ているような真緑色の木々は、彼を強過ぎる日差しから守っていたが、同時に蒸しきった空気で彼を苛んでいた。
 風は、全く無かった。
 雅人は、閉ざされたままの玄関のドアを、穴の開くほど見つめている。満流は、朝早いうちに出かけたらしい。玄関から彼女が出てくる気配は、既にない。
 雅人は、躊躇に費やした時間の経過をリセットするように、機械的な足取りで歩きだした。
 人通りのない道路を横断する。熱で、景色が歪んで見える。熱せられた空気が不可解そうに首をひねっているかのようだ。
 雅人は、そのなかを泳ぎきり、必死に対岸に辿り着く。
 インターホンから、訝しげな女の声が聞こえる。
 雅人は、大きく息をついた後で、明瞭な声を発した。
「満流さんは、ご在宅ですか」
『姉は、留守にしてますけど・・・』
「そうですか。失礼ですけど、泉水さん、ですよね?」
『そうですが・・・どちらさまですか?』
「妹さんでも、結構です。聞いていただきたいお話があります」
泉水は、煙たそうな顔のまま、扉を開いた。
 遠くから見かけたときの華やかな印象よりも、意外に小柄で素朴な感じの女が、そこに現れた。雅人は、少し驚く。
 泉水は、初めて見る男の顔を、品定めするような眼で一瞥する。
 誰なのか、すぐに見当はついた。思ったより若く、貴公子然とした端正な顔立ちをしている。華著な体つきが、更に繊細な印象を増している。
 雅人は、真剣すぎる眼差しを隠さず、喰いかかるように泉水を見つめている。視線を集めることのシンプルな快感を超えて、細かな棘がちくちくと肌を刺すような不快感が、台頭してくる。
「お姉さんには、いつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ・・・」
 泉水は、条件反射的に、つくり慣れた笑顔をつくる。
「少しお邪魔してもよろしいでしょうか」
 雅人の眼は、焦点が合っていないように見える。
 泉水は、少し戸惑った。あるいは、戸惑った自己を演出した。
「え、ええ、構いませんが」
 泉水は、膨らんできた好奇心に、抗うことはしない。
「どうそ、お入りください」
 雅人は、大理石の敷きつめられた玄関に気後れを感じることも忘れて、まっすぐ前を向き、憑かれたように中へと踏み入った。
 ひんやりとした空気が、雅人の頬を撫でた。

「これを、拾ったんです」
 雅人は、包みを解き、白っぽい破片を広げてみせた。絞りの模様の、赤紫の風呂敷の中に姿を現したそれは、まるで遺骨のように、辺りの空気を静謐さで満たした。
「これは、満流さんの作品です」
「これが?」
 泉永は、大袈裟なくらいに驚いてみせる。
「拾ったんですか?どこで?」
「この裏の、竹林です」
「なんでそんなところで?それに、なんで割れちゃってるの?」
「わかりません。満流さんが自分で割ったらしいですが」
「自分で?どういうことかしら」
 泉水は、ロ元に手をやり、首を傾げる。しかし、全く眼中にない雅人は、視線を上げない。
「姉は、ちょっと変わってますからね。ご存じでしょうけど」
「だけど、なぜ割ったりなんかするのか、僕には見当もつきません。泉水さんなら、何かお分かりになるかと思って」
 私は泉水になりたかったの。満流の言葉が、雅人の脳裏をよぎる。それならば必ず、この妹が何らかの答えを握っているに違いない。雅人のなかには、恐ろしく単純な図式が描かれている。
「私?私が何か関係あるんですか」
「関係あるらしいです」
「どうして?姉がそう言ったんですか?」
「いや、そういうわけでは」
「私は、あなたと姉の間で何かあったのかと」
「いいえ、はじめから何かあるような間柄じゃありません」
 満流さんにとっては、と心の中で彼は言葉を付け足した。
 居心地の悪い沈黙が、鎮座する。
 雅人は、自分の手指に目を降ろす。ささくれた人差指に、わずかに血の滲んだ跡があった。彼は、めくれた皮を剥がさずにはいられない性分だった。
 泉水が沈黙に耐えかねている様子に、雅人は、言葉を継ぐ決意をする。
「ご結婚なさるそうですね」
「はい」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも、それが何か?」
「いえ、何でも」
「姉が、何か言ってました?」
「いえ、別に」
「でも、結婚のことは姉から聞いたんでしょう?」
「ええ」
「それが関係あるっておっしゃりたいんですか?」
「そんなことないです」
「でも、そう言ってるようなもんですよ」
 誘導尋問は、する側とされる側が入れ替わっても、続く。
 泉水は、雅人の表情をすばやく覗き見る。
「姉は、なんて言ってたんですか?」
「だから、別に何も・・・」
「どこまでご存じなのかしら?・私たちのことを」
「どこまでって?」
「私たちの母親が違うってことは聞いてるでしょ」
 雅人は視線を上げる。
「いいえ、初めて聞きました」
「なんだ。ご存じなかったんですか。余計なこと言っちゃいましたね」
「いえ」
「姉とつきあってどのくらいになるんですか」
「つきあってるなんてもんじゃありません」
「そんな、隠さなくってもいいですよ」
 泉水は、きれいに並んだ歯を大胆に覗かせて、笑う。
「隠してません。僕は、あなたがたのこと何も知らないくらいですから」
「ごめんなさいね。余計なこと言って」
 泉水は、氷の溶けかかったアールグレイを一ロ含む。
 雅人は、俯き加減のまま、微動だにしない。
「泉水さんが謝ることはありません」
「個展では、お世話になったんでしょう?どうもありがとうございました」
「いえ、僕は何もしてません」
「私も、彼と一緒に手伝いに行こうと思ったら、邪魔なだけだって言われちゃった」
「そうなんですか」
「腹が立ったから、期間中見にも行かなかったわ。私たち」
 私たち、と言った後で、自分が岬の行動を何も知らないことに、泉水は思い当たった。
「ご覧になりませんでしたか。とても素晴らしかったと僕は思いますよ。特に、これは・・・」
 雅人は、テーブルの上の破片を、視線で指し示す。
 違う時空に存在するかのようなその白い破片は、ただそこで、夢を見続けていた。雅人は、虚ろな眼で、その夢を覗き込もうとする。
 泉水は、自分でも気づかずに何かを直感している。不安が、細かな泡のように湧き上がってくるのを、ありのままに彼女は感じた。
「姉はね、私の結婚が面白くないみたい」
「なぜですか?」
 泉水は、慎重に言葉を選ぶために、会話のテンポを落とす。
「なぜかしら。私の幸せを壊したがってるみたいなんです」
「満流さんが?」
「あなたは、ほんとに何も知らないの?」
「知らないって、何のことですか?」
「とぼけないでください。姉をなんとかして欲しいの」
「なんとかする?」
「ちゃんと、あなたのところに引き留めておいて」
「どういうことですか」
「こんなこと私のロから言いたくないんです」
 雅人の眼には、力が入りすぎている。泉水は、それを観察しながら、言う。
「姉は、私の婚約者を奪おうとしてるの」

 主演する女優の台詞は、陳腐でなけれぱならない。
 広大な嘘の裾野に広がる、豊かな稔り。
 そこで両手を広げると、死角に入った兎たちは、怯えることを忘れてしまう。
 黄金の小麦の、芳しい香り。傾く陽光。そこは、ユートピアに一番似ている。
「お願いだから、姉をなんとかしてください」
「僕に何ができるって言うんですか」
「私たちは、利害関係は一致するはずでしょ」
「僕は利害関係の話なんかしていません」
「でもあなただって、姉をとられたくないでしょ」
「泉水さんこそ、彼をとられたくないなら、しっかり繋ぎ止める努力をしたらいいじゃないですか」
「そりゃそうだけど」
 いきり立っている雅人を笑うように、グラスの中の氷が高い音を立てた。水っぽくなった紅茶は、不味かった。
「でも、満流さんの考えていたことが、少しわかったような気がします」
「卑怯なことするわよね」
「僕は、卑怯だとは思いません」
「そう。そうでしょうね」
「満流さんを、赦してあげてください」
「あなたは、ずいぶん人がいいのね。あなたのことも裏切っているのに」
「満流さんは、あなたにショックを与えたいだけでしょう。ちょっとした悪戯以上のものじゃない」
「そうかな」
「本気であなたの婚約者に恋しているわけじゃ、ないでしょう」
「そう思います?」
「大体そのことだって、本当かどうか分からないじゃないですか。泉水さんの憶測でしょう」
「それはないわ。あの人は本気で私を憎んでる」
 言い放つその言葉は、寒々しい波動を四方に散らす。
 雅人は、その波動に少したじろぐ。泉水は、長く黒々とした睫をしばたきながら、面白そうにそれを見ていた。
「どっちにしろ、泉水さんの彼が、しっかりしていれぱ問題ないわけでしょう」
「しっかりしていれば、ね」
「そんなに信用できない男なんですか」
「信用できないって訳じゃないけど」
「でも、信じ切ってもいない様子ですよ」
「よくわかんないわ」
「わからないで、よく婚約なんてできますね」
「謎めいてるところが魅力だったり、するのよ」
 雅人への当てつけとも思われる言葉を、彼は、文字通りの意味で受けとめる。

 見覚えのある、小振りな車が停まっている。
 木陰に停めたものらしいが、今では日が昇りつめ、ボンネットを容赦なく灼いている。
 満流はそこに手を触れ、指を灼いてみたい衝動に駆られた。
 置き去りにされているカセットテープが、車内でとろけ出しそうに熱せられているのが見える。凡帳面な雅人らしくないなと、満流は思う。
 眩しく刺すような光が、アスファルトの上で、酔いどれたように踊り狂っている。
 影法師は、鮮やかな輪郭で縁取られ、墨汁をこぼしたようだった。しかしそれは、強い陽光のせいで、黒色というよりも限りなく深い藍色をしているように思われた。満流は、自分の影のなかに畳み込まれていく自分を、しばし想像する。
 やがて、諦めたように、彼女は歩み始めた。
 満流は荷物を抱えて、ぎこちない動作で玄関のドアを開ける。
 履き古した男物のスニーカーの横に、白いサンダルを放り出すように脱ぐ。
 チョコレート色のソファーの甘い色と裏腹に、そこに沈んでいるふたりは、苦く冷たい磁場を形成していた。
 ふたりは、まだ満流に気づかない。居間のガラス張りのドアの向こうに、ぎくしゃくとして噛み合わない二つの存在が、見て取れる。
 満流は、このまま盗み聞いていることもできるのだということに、思いも及ばない。子供の火遊びを止めようとする母親のように、一瞬、我を忘れている。
 静まり返った霧に煙る湖に、小さな石を投げ込むように、満流は扉を開けた。
 ふたりは、ほぼ同時に振り向いた。
「雅人、何の用なの?」
 見上げる雅人の瞳の色が、変わる。青みがかった白の中に浮かぶ、黒々と茂る原生林の島。
「来るときは電話くらいしてからにしてよ」
「そうだね。悪かった」
 泉水は、居心地悪そうに視線を外す。雅人は、満流以外の何もかもを打ち消すように、彼女だけを見ている。
「ずいぶん早かったね。どこへ行ってたの?」
 雅人は、見当がついているくせに、しらばっくれて尋ねる。
「窯に行ってきたの。私物は全部整理してきた」
「本当に、もうやめる気なんだね」
「そうよ。前から言ってるでしょ」
「僕は、まだ信じてないよ」
「勝手にしなさい」
 泉水は黙ったまま、水滴で水浸しになっているグラスを片づけようと、席を立つ。グラスの跡には、小さな水溜りができていた。
 満流は、その様子を目で追っている。
「なんで来たのか、訊かないの?」
「もうとっくに訊いたわよ。何の用って」
 満流は、テーブルの隅の包みに、目を落とす。
 それに気づいた雅人は、緩くまとめてあった包みを、もう一度開いてみせた。
「これ、見つけちゃったよ。かわいそうじゃないか。置き去りにして」
 にわかに顔色の変わった満流の横を、トレイを手にした泉水が擦り抜けていく。泉水は、姉の変化を見逃さない。
「どうして、こんなことしたの?」
 雅人は、出来得る限りの優しい口調で、尋ねる。
 満流は、黙っている。口の中が急激に渇いていくのを感じる。
「満流さん?」
「どこでこれを見つけたの」
「裏の竹林だよ」
「なんで?」
「え?」
「なんであの場所に行ったの?」
 満流の取り乱しぶりに、雅人は当惑を隠せない。
「なんで、って言われても」
「あの竹林に入ったの?なんで?何のために?」

 満流は、今にも目眩を起こして倒れてしまいそうに見えた。色白の肌は、残酷なほどに、青い血管の色をそのまま透かせている。
 雅人は、訳もわからず、罪悪感に怯え始めている。
 言葉を継げない彼は、凍りついたまま満流を見ていた。
 キッチンから、グラスの鳴る音や、水の音や、泉水の足音が雑然と聞こえてくる。
 時を止めたような空白に、時計の針を刻む音が大きく響いているのは、皮肉に思えた。
 満流は、魂の抜け殻になったように、立ち竦んだままだ。
 彼女の鼓動は、早鐘のように鳴った。彼女は、犯罪が立証され逃れる道のなくなった、容疑者だった。
 彼女は、白い破片のひとつひとつを見つめる。ゆっくりとそばへ歩み寄る。夢遊病者の足取りで。
 それらは、雪の結晶のように、それそれが異なる形をしていながら、それぞれが完壁だった。
 破片のひとつひとつから、今、解き放たれた魂が立ち昇っていくようだ。その瞬間は、美の誕生に立ち会う瞬間でもあった。彼女は、言葉に尽くせない美しさに、初めて触れたような気がした。
 音の消えた空間に、一本の矢が貫かれた。
 満流は、高速の矢の動きの、すべての瞬間を同時に見つめた。
 時というものが壊れて、秩序を無くしたように思われた。この瞬間を私は長いこと求め続けていた、彼女はそう直感した。
 私は、一度死んだんだ。あの竹林で。

 居間のドアを閉じた音が、いつまでも余韻を引き摺っている。
 雅人は、戻ってきた泉水に救いを求めるように、視線を投げた。泉水は、まるで大海に迷い込んだ川魚のような表情をしている。
 雅人は、泉水がロを開いてくれることを願う。しかし彼女は、それをひらりとかわし、留まる。
 錨のように、三つの沈黙が沈んでいく。
「もう一杯、何か召し上がりますか?」
 泉水が、耐えかねて尋ねた。
「いいえ、もう結構です」
「お姉ちゃんは?」
 満流は、答えない。
「返事くらいしなさいよ」
 泉水の声は、冷たかった。雅人は、嘆願するような目で、泉水を見た。彼女の苛立ちが走り出しているのは、明らかだった。
「満流さん、もういいんだよ。別に責めてるわけじゃない」
 その言葉は、言い訳めいて聞こえた。
「よくないですよ。私のせいみたいにされて、すっきりしないわ。どうしてこれを割ったりしたの?なんで陶芸やめるの?」
 泉水は、まっすぐに満流を睨みつけている。
「泉水さんのせいになんかしてませんよ。それにもう理由なんてどうでもいいんです」
「それを知りたくて来たんじゃないんですか?」
「もうどうでもいいです。そんなこと」
「私ははっきりしてほしいな。こんなわざとらしいことして、誰かの同情を買おうとでもしたの?」
 泉水は、姉を挑発する。反応はない。
「誰かって、誰のことですか」
 雅人の声は、少し震えているようだ。
「ねえ、はっきりしなさいよ。それで同情は買えたの?岬さんは憐れんでくれたの?」
 満流は、その声がまるで耳に入っていないように、テーブルの隅を見つめたまま、床の上にへたり込んだ。幼い少女のように、爪先を外ヘ向けて、足をWの形に折り曲げて。
 彼女は、糸を切られたマリオネットのようだった。身体の芯を貫いていた糸は、もう引き抜かれてしまった。
 むしろ、何かを渇望することに似た、不可解な虚脱感だった。何も虚脱するものなどなかったはずなのに。
「お姉ちゃん聞いてるの?」
 泉水の、ひきつり気味の金属的な声がする。あどけない子供の弾くバイオリンの音色のようだと、満流はふと思う。
 あの竹林には、入ってほしくなかった。誰にも見つけてほしくなかった。誰にも、私の目を見て話してほしくなかった。私が存在していることを写し出してほしくなかった。誰にも、愛してほしくなかった。満流は、胸のなかで呟き続ける。
 でも、そんなこともすべて、どうでもよくなってしまった。
 大勢の人たちが笑いながら、彼女の竹林を無惨に踏みつけて通り過ぎていく映像。踏み潰された、草色の塊。刈られた下草が腐るような匂い。

 雅人が、しゃがみ込んだままの彼女に手を差し出す。
「満流さん」
 彼は、辛抱強く待つ。
 満流は、分裂したように、虚空を見つめ続けている。
「この欠片たち、僕がもらってもいいかな?」
 満流の目には、光がない。
「いいんだね?」
 雅人は、満流の両肩を掴んで、立ち上がらせようとする。満流は、動こうとしない。
 泉水は、放心した姉の様子に、急に恐ろしさを感じ始める。
 亡霊のようになった満流は、泉水が受け継いだ恐れをもう反射してはくれなかった。泉水の恐れは対象のない恐れだったから、向かうところを無理にでも創らなけれぱ、安定して存在できない。
 泉水は、満流を、一人の他人として見た。おそらく初めてのことだった。母の憎んだ亡霊の姿は、そこにはもう見受けられない。
「待ってよ。はっきりしてよ。なんで私のせいなのよ!」
 泉水の奏でるバイオリンは、より一層迷走し始める。
「私はお姉ちゃんを不幸にするようなこと、何一つしてないよ」
 雅人は、満流の前に屈み込む。満流は動かない。
「不幸せぶるんじゃないわよ。私はお姉ちゃんを苦しめた覚えなんかない。仲良くしようとしたってそっちが嫌がったんじゃない。ママが可哀想だったわ」
 満流はようやく目を上げた。滲んだ瞳を覗き込むと、雅人は胸苦しさに叫び出しそうになった。
「はっきり言いなさいよ。何がそんなに嫌なの?頼みもしないのに何をそんなに苦しんでるのよ?」
 満流は、頬にかかった長い髪をかき上げる。決断を下すような大きな吐息をひとつ、つく。
「なんでそんなに私を苦しめたいの? ねえ、お姉ちゃん!」
 泉水は、慌てふためく自分に気づき、さらに波打つ襞に飲まれる。
 雅人は、このまま満流をどこかに叩き付けて、壊してしまいたくなる。そしてその思いから、にわかに我に返った。いま俺は、彼女と同じ気持ちを味わったんだろうか? 彼女はこんな気持ちで、分身を破壊したんだろうか?
 満流は、気配もなく立ち上がった。
「泉水」
 力の抜けたその声は、柔らかかった。
「泉水が悪いんじゃないのよ」
 泉水は、言葉の栓を閉められたように突然押し黙る。
「泉水が悪いんじゃない。悪いんじゃないのよ」
 満流は、散り際の花のように微笑み、繰り返す。
「許して。泉水、許して」
 言葉は余韻をも飲み込んで、絨毯に吸い込まれた。

 その映像は、続いている。
 竹林のなか、踏み潰された草たちが、不可思議な緑の紋様を描く。その絨毯の上に、彼女はいる。うずくまる。
 彼女の上に情け容赦なく降り注ぐ真昼の太陽は、蒼白いほどの肌にちりちりと棘を刺す。
 もう、隠れることはできなかった。すべては暴かれている。
 彼女の、力なくぶら下がった腕。指の先からは、赤い血がぽたりぽたりと落ちつづけている。秘密にしておいた傷ロは膿んで、いつまでも治らない。足元には、緑と赤の、鮮やか過ぎる原色の饗宴。彼女は、目が眩んだ。
 そして、彼女は、意を決した。
 拳を握り締めると、てのひらのなかの蝶を空へ返すように、ゆる
やかな開花のように、指を開く。
 陽のもとに晒されたてのひらには、いつのまにか、傷ロが消えている。
 彼女は、急激に不安になる。
 至福の感覚は、霧のように薄れていく。辺りを見回しても、眩しすぎる光以外には何も見えない。

          Ψ

 満流は、暗い部屋のなかを、右へ左へ、歩き続けている。
 その緩慢さが、生じる感情のすべてを瞬時に蒸発させている。傷心であれ、無関心であれ、たちどころに飲み込まれていく。
 夜の底を浚うワイパーのように、彼女は規則的に動く。
 窓のそばで、束ねられたカーテンの裾と、彼女の長いスカートの裾が絡み合う。
 空気が、揺れた。
 岬は、その微細な空気の襞のなかに取り込まれていく自分の一部分を、手放す。卑屈な自由、変質した快感。
 満流は、歩みを止めない。機械的に動く身体は、白い闇を切り裂く、甘すぎる刃。
 岬の眼差しは、数限りない彼の分身となり、彼女の切り裂く闇を包み込み、常に縫合をし続ける。
 彼女の存在は、問いかけるが、同時にどんな返答をも拒絶しているようだ。言葉は、過去に封印されるように留まり、ショウケースのガラスの向こうに並ぶ、コレクションのようだ。指紋ひとつつけることも、禁じられる。
 傷ロを塞ぐ縫目だらけになった、空間。継ぎ接ぎだらけの荒れた空間は、饒舌に語る。フラジャイル、取扱注意。
 満流は、どこを向いていても、何も見ていないように見える。
 彼女の意識の支配から逃れたように、彼女の身体はとても生き生きとしている。肌のこすれる匂いが、強くたなびいては消える。
 薄く艶のある生地のスカートが、また翻る。衣擦れの音がする。
 岬は、強く目を閉じる。
 存在の残照が、僅かな余熱を残す。岬の意識は、その熱を捕えて強引に、暴力的に引き摺りまわす。
 彼の身体は、動かない。

 凍りついた斜面を滑り落ちるように、なすがままに動かされている塊。満流はまだ、うろうろと彷徨いつづける。
 漆黒という表現が最も近いと思われる、その髪の色に閉ざされて、満流の顔が見えない。
 岬は、その短い瞬間に、彼女の顔の造作を忘れてしまったような錯覚を抱く。慌てて彼女に近寄り、両肩を掴んで確かめてみたくなる。
 しかし、岬は動かなかった。翻訳されない衝動の生々しいイメージは、擦り抜けて上空へ立ち昇る。
 彼の視線が、強くなる。
 満流は、それを敏感に察知したように、わずかに足元をふらつかせた。彼女は、流れのなかから岸辺の固い岩に手を伸ばすように、壁際に置かれているチェストに手を触れた。磨かれたマホガニーの手触りは、ごつごつとして無愛想な岩とは対照的だ。
 満流の手首は、チェストの上に放り出されるように置いてあるランプを掠める。その場に不釣り合いな安物のランプは、手を触れると明かりを灯すタイプのものだった。岬は、およそ家具などには興味がなかった。
 ランプは、うんざりするほどの忠実さで仕事を行ない、灯された弱々しい光はそれでも、闇に慣れていたふたりの視神経を鋭く突き刺した。

 夏の訪れをけばけばしく彩るように、遠くで雷鳴が轟いている。まだ、雨は来ない。しかし風の匂いが変わっていた。
 閉め忘れられた半開きの窓から、雪崩れ込んでくる、ある予感。
 ふたりは、微かに痛む両目を庇い、立ち竦む。
 光は、慣れ親しんだことのない不思議な加速感に、ふたりを強引に巻き込んだ。
 満流は、立ち眩みを起こしたようにふらつく自分を、嫌というほど味わう。だがそれは、むしろ得難い快感だった。彼女は、このままずっとそれを味わっていたいと願った。
 岬は、光に背を向け、闇のなかに目を開いた。
 窓ガラスに、黄色っぱい白熱灯の光に描き出された男と女の姿が映り込んでいる。ふたりの映像は、ニ重に折りかさなるように映っている。
 満流は、チェストに寄りかかったまま、茫然としていた。岬は、その様子をガラスの中に見つめる。
 同時に、重なった自分の姿も見つめざるを得ない。窪んだ目に被った長めの髪が、翳りを多く含んだ視線を隠しているようで、実は強調していた。ロ元は、異様に歪んで見えた。
 岬は、そんな自分を強く睨みつける。
 窓の中の彼も、諦めたような冷笑を止め、彼を睨み返した。
 岬は、窓ガラスにゆっくりと歩み寄った。懐に、刃毀れの多い、錆びたナイフを隠しているかのように。
 折り重なった満流の映像が、彼の背中を見つめていた。
 ガラスに近づいて行くほど、その中の岬は、闇に呑まれて曖昧な存在となっていった。満流の映像だけが、明るいままでそこに残っている。
 ガラスを介して、ふたりはしばし見つめ合っていた。しかし満流は、そのことに気づいていない。
 稲光が、岬の視界を一瞬白く染めた。
 衝動的に彼は、窓を激しく閉じ、カーテンを引いた。満流の映像は、瞬時に消える。ふたたび、遠くで雷鳴が聞こえる。
 岬は、振り向く。
 満流は、視線を逃し、俯く。

 傍若無人な光に惹起された、混乱の極みの静けさのなかで、満流の心はこじ開けられたまま、その閉ざし方を忘れてしまった。
 岬が、彼女に歩み寄ってくる。彼女は、何が恐ろしいのか分からずに、震えた。彼女は、僅かに後退っていた。背中に、冷たく湿気た壁の感触が走る。
 岬は、光に吸い寄せられるようにやってきて、ランプに向かい合うように立った。彼の尖った顎や、頬骨の形をなぞるように、黄色い光は戯れた。
 満流は、彼の横顔を食い入るように見つめる。彼女は、命ある言葉を夢中で探した。だがどんな言葉もやはり、思いつく傍から死んでいった。だが一方で、彼女は、この沈黙がどこまでも続くことを祈ってもいる。
 岬はやがて、満流の方を向き直し、光を背後に抱いて彼女の正面に立ち塞がった。彼の顔は輪郭だけが光り、そのなかの表情は、闇に融けていく。
 満流は、いつか見た夢を、思い出していた。身を挺して、有毒な光から彼女を守ってくれたあの男の影。あの男も、ちょうど今のこのひとのように、顔がよく見えなかったわ。
 岬は、満流の両肘を支えるように掴んだ。
 一掴みの砂が指の間からこぼれるほどの空白の後、満流は、腕を振り払った。
 はじき合う磁石の極のように、ふたりはそれ以上近づくことができない。
 引き伸ばされたゴムのような、張りつめた波動が満ちてくる。
 ランプの光が、幽かに揺れているような気がした。
 岬は、片手を満流の頬に向けて伸ばした。手は、頬に触れる数センチメートル手前で止まる。宙に浮いたてのひらは、幻を愛撫しているかのように、穏やかに留まった。
 満流は、激しく胸に込み上げてくるものを、押しとどめるのに必死になる。両手は、胸元を掻きむしるように騒ぐ。それでも、全身の目覚めた意識が頬の下に集まってくるのを、感じずにはいられない。
 次の逃走路を、見つけなければならない。唇は、体内から何かを排出しようと、僅かに開かれる。岬の視線は、そこへ注がれる。しかし、満流の唇からは、ため息一つ漏れることがなかった。

 今となっては、満流はすべてを手放した後のはずだった。彼女を停めているのは、恐れではないはずだった。
 彼女は、また、自分が何を望んでいるのかわからないのだった。しかしそれは、過去に感じていた思いとは、また別のものかもしれなかった。
 彼女には、償い方がわからない。
 抱きつづけた抑圧を、彼女は抑圧された形のままで、外の世界へ投げつけようとしたのだった。
 そして、それは見事に、彼女のもとへ帰還してきた。
 満流は、岬から遠ざかろうとする。背中は、壁にぴったりと押しつけられる。冷たい汗の感触に似ていた。
 これ以上、自作自演のコメディに、彼を巻き込むことだけは許せなかった。満流は、岬を必要とすることを、自分の意志で止めようと決した。
 その時彼女は、ある事実が心に降りてくることを、初めて自分に許した。私は、このひとを、愛している。長い回り道の末に得たものは、たったそれだけの、ごくありふれた言葉だった。

 満流の頬は、ますます熱く脈打っている。岬の右手は、頬から少し離れて留まったままだ。頬と右手のあいだの空間は、徐々に、真空に近くなっていくように思えた。
 唇を開けば、圧縮された叫びが噴き出して、永遠に我を失いそうな気がした。満流は、奥歯を強すぎるほど噛み締める。
 そのために頬の筋肉は緊張して張りつめ、岬の手は水晶のように、その波動を増幅した。
 満流は、もう耐えられなかった。岬の腕を振り払おうと、左腕を上げる。ふたりの腕は、サーべルとサーべルのように、十字に交差する。交差した部分の微少な面積の肌が、触れ合う。高圧の電流が、流れる。
「もう、やめてよ」
 満流は、目を伏せている。掠れて、ようやく聞き取れるような小さな声が、くぐもったまま発せられた。
 岬は、腕を降ろす。満流は、両腕を抱えるように胸元に集め、麻のセーターの襟元を握りしめる。
「岬さんは、泉水と一緒に生きることを選ぶわね?」
 セーターは、今にも引きちぎられそうに強く握られている。岬は、満流の両手の表情に、視線を注ぎ続ける。
「僕は、泉水を愛しているんだろうか?」
 岬は、呟く。
「わからないの?」
「わからないよ」
「愛すると、決めればいいのよ。今ここで」
「そうか」
「なんでも、本気で決心したことは、その通りになるわ」
「そうだね」
「私も、泉水とあなたを振り回して、遊んでやろうと決心したの。そしたら、その通りになったでしょ」
 満流の言うことは、嘘でもあり、本当でもあると、岬は思った。
「でも、一番振り回されたのは、自分自身だろ」
「もちろんよ。そうしたかったの」
「そんなに自分をからかって、面白かったか?」
「面白かったわよ」
「自分をいじめるのは、もうやめろよ」
「あなたこそ、もっと自分の意志で生きなさいよ」
 岬は黙って、満流の目をを見つめた。
「さあ、決めてよ。泉水と生きることを選ぶって」
「それを、君は望むのか?」
「私が望むかどうかじゃない。岬さんが望むかどうかよ」
「僕は、どうでもいい。なんでもいいんだ」
「何言ってるの」
 満流は、これ以上ないほど、ぎこちなく苦笑した。
「僕は、何も望むことはない。君が望む通りに、僕はする」
 満流は、彼がふざけているのだと思い込もうとする。しかし、それに失敗する。
「君は、どうしてほしいのか、教えてくれ」

 雨が降りだしたようだ。さざめく雨音が次第に大きくなる。
 岬には、表情がない。雨音が耳に入っているのかどうかも、満流にはわからない。
 満流は、凪いだ海に仰向けに身を委ねるように、壁に全身をもたせ掛けた。しかし身体の熱は、どこにも逃れて行かなかった。満流は途方に暮れる。
 雨は、何も洗い流さない。汚れた手をいくら繰り返し洗っても、爪の間は汚れたままなのだ。強迫観念。逃げ腰のメタモルフォーゼ。
「そんな勝手な話は、ないわよ」
 満流は、ひどく酔っている人がするように身体をくねらせて、密やかに笑い声を漏らした。
「じゃあ、あなたは、泉水に望まれたからそれに答えて、今度は私が望むからそれに答えようって言うの?」
「そうだね」
 岬の声には、迷いがない。
 満流のなかで、憤りが膨れ上がってくる。愛しさと混じり合い、どちらも沈澱しては行かない。
 岬のなかでは、私と泉水は完全に平等に扱われている。私は、決して泉水に勝つことはできないんだ。満流は思う。
 彼女は、息苦しくてたまらない。自分がまだ、泉水に勝ちたがっているという事実。彼女は、それを認めたくないために必死に急流に逆らって足掻く自分を、空から見下ろす鳥になろうとする。
「駄目よ、そんなの」
 切れかかった蛍光灯が、その瞳のなかで瞬いている。
「岬さんは、泉水を選ばなきゃいけないの。そうでなきゃ駄目なの。私は勝ちを譲らなきゃいけないの」
「どうして、そうでないといけないんだ?」
「私は自分から負けるの。そうしなきゃほんとに負けてしまう」
「勝ち負けなんて、もう止めろよ」
「わかってるわよ。わかってるけど」
「正直じゃないね」
「ずるいわよ」
「僕が?」
「全部、私に決めさせてるじゃない」
「僕には、欲求がないから」
 岬の表情は、動かない。
 満流は、壊れた機械を闇雲に揺さぶるように、彼の意識も有無を言わさずに揺さぶり尽くしたいと願う。
 その願望がとめどもない熱の放射となって、彼女の内側を焼いている。音もなく、焦げつく匂いすらない。
「欲求がないのは、愛がないからよ。ひとでなし」
 その言葉とともに、満流のなかで、何かがはじけた。
 満流は、岬のシャツの襟元を掴んで、乱暴に引き寄せる。
「私は、あなたなんか必要じゃない。もう必要じゃない」
 岬の肩の向こうに、揺れるランプの光があった。雨音がだいぶ強くなっている。光に焦点を合わせると、満流の目には、それ以外のものがほとんど映らなくなった。
「今度はあなたが私を必要として苦しめばいい」
 満流は、荒々しい動作で、唇に唇を押しあてる。
 彼女は華々しい四色の炎を、四つの花のように燃やしている。
 掴んでいたシャツの襟元の、二つ目のボタンの糸が切れ、ボタンはふたりの隙間に誰にも気づかれずに転がり落ちた。
 満流は手を離し、そのまま岬の首へ両腕をまわす。花冠を手折る悪意を知らない幼子の手のように、彼女の腕は男の首を手折ろうとしている。
「もっともっと苦しめばいいのよ」
 落葉樹からおちた葉が舞う。涙にまみれた言葉が舞う。岬の耳元に、それは降り積もる。
 頬を伝った涙は、赤く滲んで今にも崩れ落ちそうな唇を潤す。母なる海に抱かれた珊瑚が萌える。むせび泣く。
 涙は、四つの炎を収めることなく、より燃え立たせる。
 火勢は増し続け、やがて四つの炎は溶け合って、ひとつの真っ白な光となる。
 岬は、その光に貫かれる自分を見つめている。そこには、言いようのない安堵感が眠っていることを、彼は知っている。恐れに飼い慣らされた着心地の良い殻を、そこでは捨て去らなければならないことも、彼は知っている。
 岬は、満流の身体に両腕をまわす。腰まで届こうとする長い髪は、思ったよりもひんやりとした感触を伝えた。その冷たさにようやく促されたように、彼は満流を抱き竦める。

 満流の身体は、嗚咽に震えている。北風に震える、枯れかかった冬の樹。ぎしぎしと軋む枝を絡ませて、ふたりは立ち竦む。
 雨だれが淡々と響き、満流のための伴奏をしている。
 岬は、満流を包む腕に力を込める。彼女は薄いガラスで出来ている。しかしそれは、すでに砕けている。彼は確かめる。
 やがて岬の腕が、彼女の籠もった熱を逃がし始める。満流は脱力する。ぐったりと岬に寄りかかる。
 眠ってしまった子供のように、彼女は急に静まり返り、身体がずっしりと密度を増したように感じる。岬はその重みを受けとめ、より圧縮しようとする。時というものが微睡むほどの密度にまで。
 そうすれば、砕けたガラスはふたたび結晶化し、再生することが出来る。
 彼は、自らの強い欲求に示唆されたその命題を、決して受動的にではなく抱きしめている自分に、気づこうとしていた。
 満流は死んだように身体を投げ出したまま、呟く。
「苦しまないで。私があなたを守ってあげる。私があなたを苦しめて、私があなたを守るの」

 彼女は燃えつきて灰になる。
 唇はまだ、細かく震えているように見えた。触れれば血が噴き出しそうな、そんな残酷な赤さをしていた。
 濡れた頬には、一束の髪の毛が、固まって張りついている。
 全身の皮膚が消えた炎と引き換えに、蒼く、さざめきひとつない夜の海のように静まり返っている。目のまわりの薄すぎる皮膚と、鼻の頭だけが、うっすらと赤らんでいる。
 岬は、彼女の細胞のひとつひとつを脳裏にとどめようとしているかのように、彼女を凝視する。
 満流の瞳のなかに、黄色い光が揺れている。
 彼女はまだ、その光を見つめつづけている。
 岬の視線は、満流を透過して、壁に映ったふたりの影へと向かう。
 ふたりは、視線をそらし合いながら、確かな互いの存在を見つけようとしていた。
 岬はぼんやりとした瞳のまま、満流の頬に張りついた髪の毛を、指先で剥がしてやる。満流は首を少し傾け、髪を肩の後ろへと流した。耳元から降りる顎の線、そして首筋のなだらかな曲線が、そこに現れた。
 満流の身体は緊張から解き放たれ、完全に無防備に晒されていた。その曲線が、それを証明している。
 岬は、もう一度満流を抱き寄せる。壁の黒い影がひとつになるのを見つめる。
 満流は、ゆっくりと、目を閉じた。

 花冠の影が、揺れた。
 燻る炎は、燃え尽きるまで、見つめられ続ける。
 くべられた花弁が灰になりゆくとき、ひとを恍惚に誘う、あのえも言われぬ薫香が生まれる。彼女は、それを胸の奥探く、痺れるまで吸い込む。
 融点が下がり、とろけ出す骨髄が、電気信号に変わって駆け昇る。
 避雷針は今や、天蓋を貫く。
 鎮魂歌のように、鼓動が鳴り響く。
 剥がされた痂の下の、生まれたての新しい皮膚に、そっと触れてみる。満流の全身の肌は、完全に生まれ変わったようだ。
 薫香は、鎖骨の上の窪みに溜まり、受けとめられるのを待ちわびている。
 水と油が対流し、混じり合い、甘く乳化され始める。
 岬は、壊れた制御装置を投げ拾てる。意図することを止めたしなやかな筋肉は、ごく素直に、よりしなやかに変身した。
 茶色がかった、細く腰のない岬の髪のなかを、満流の指はあてどもなく泳ぐ。その柔らかさが、指の隙間を這う。
 互いの存在の外側に押し出された澱を、拭い合うようにまた汚し合う。

 かたちを喪い、糸の切れた凧のように虚空へ舞い上がる冷たい過去の死骸が、やがて螺旋を描いてたちのぼり始めるのを見つめる。
 満流はその先に、天井を這う蠍の姿を見つける。
 毒を抜かれ、燻された蠍は、じっと留まったまま動かない。捕えられた哀れなざりがにのように。
 自我を脱ぎ捨てるプロセスは滞りなく遂行された。
 赤黒かった蠍の身体は、色褪せて溶けるように闇に同化した。
 時は既に彼女のなかで流れを失っている。
 永遠と見間違うほどの一瞬の後、そこに真っ青な蟹が現れた。
 黎明の空のような、深い群青。満流はその美しさに見とれた。
 蟹の足は、流れる水のように滑らかな動きをただ繰り返す。その瞳は底のない湖の如くすべてを映した。
 満流の存在は、統合された。
 青い蟹は彼女だった。彼女は青い蟹だった。






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