無 彩 色 の 寓 話    


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 野生の馬の群れが、走る。
 命の滾りが、砂ぼこりを巻き上げ、嵐を起こす。木々を薙ぎ倒して、それでも、走り続ける。地の果てまでも、開拓しつくそうと、走り続ける。
 一頭の馬が、転んで、倒れた。もう一頭が、並んで、倒れた。群れは、それでも、走り続けた。
 やがて、地平線は跡絶え、そこに、海が姿を現した。群れは、それでも、突き進んだ。
 倒れた馬は、足を折って、苦しみにのたうちまわる。砂に塗れた体を、なお、砂に擦りつけて。
 もう一頭も、激しい空腹に、力なく、横たわる。乾いた砂を噛みながら。歯ぎしりの音を、響かせて。
 海は、全ての馬を呑み込み、波は、弔いの曲を奏でた。
 砂が、二頭の馬の墓標を、築いた。
 永い時が、流れた。
 
 流れる血には、色がなかった。彼女の視界からは、全ての色が消えていた。どす黒く光っている液体に、彼女は、両手を浸して確かめる。彼女の手は、真っ黒な血に染められた。それは、なめし革のように、滑らかだった。
 鉄を溶かしたような、金属的な匂い。絶望のレセプターを刺激する、残酷な匂い。
 サイボーグも、血を流して、死ぬのだろうか。
 
 脈打つ音は、自分の音なのか、彼の音なのか、わからない。激しい速さで繰り返される、その太鼓の音は、勝利の凱歌なのか、敗北の証明なのか、わからない。
 覚醒した意識は、激しく殴打され、逃亡を図った。全身を震わせて泣き叫んだ声に耳は塞がれて、音という音は消えてしまった。
 
 二頭の馬の墓標は、並んでいた。砂には風紋が刻まれ、鎖のような模様は、万華鏡のように、僅かづつ姿を変えた。吹き渡る風は、馬たちのいななきを聞いて以来、自らのうねりの音に、それを重ねて聞いた。
 
 彼女は、笑いを止めることができなかった。
 だって、私たち本当に馬鹿みたいじゃない! 結局こんなところで、こんな時間に、顔を突き合わせて笑ってるんだもの。ふたりとも、同じようなことを考えて、ふたりとも同じように失敗してさ、馬鹿みたいよ。
 もっと、馬鹿になりたかったんだろ。
 彼女は、幸せだった。それを壊さぬように、あるいは拒絶するように、笑い続けた。
 こんなばかばかしさは、奇跡的だわ。
 なんて阿呆らしい奇跡だろうね。
 こんなちっぽけな筋書きさえも、その青写真は、生まれ落ちた最初の瞬間から、それぞれの手の中にあったかに思われた。どんな偶然も、巡り合わせも、すべて書き込まれたページを捲りながら、日々確かめていくのだ。
 水が、低いところに流れるように、自然に。流線型のまなざしが、とても美しかった。
 
 逃走する男たちの後ろ姿が、角を曲がって消えた。消音された銃声は籠もっていたが、鼓膜の上で増幅された。
 店の階段を昇った出口で、彼は、石畳の上に脆く崩れた。彼女は、大きな子供のように、抱きかかえる。男の瞳は、大きく揺れた。完全に恐れの消えた、鏡面のような瞳。
 
 荒野の風の演じた物語は、幻を生んで、人々は確かに、馬のいななく声を聞いた。哀しい美学に彩られた、切ない旋律は、皆を虜にした。
 だが、人々は、知り尽くしていた。空に星座など存在しないことを。夢は夢に過ぎないことを。
 だが、人々の知らないこともあった。人はその娯楽無しに生きていけるのか。それとも、夢を食べずには、生きていけないのか。
 
 
 
 白い光が、不自然な回り方をしている。明るすぎる砂浜。
 鯨が、波打ち際で、横たわっている。巨大な、隕石のように。小さな波が、語りかけても、返事はない。大きな波が、表皮を洗っても、動かない。
 鯨は、夢を見ていた。
 
 蟹たちは、鯨を避けて、砂の上で、せかせかと働き続けた。
 鯨は、誰からも邪魔に思われた。やがて、クレーンで吊され、処分されることになった。
 死んだはずの、鯨。夢を見ていただけの、鯨。吊された鯨は、ぐったりと、空中を移動した。体中から、海水が一斉にしたたり落ちた。飛沫が、きらきらと輝いた。それは、砂時計のようだった。
 
 鯨のいなくなった海岸は、時を止めたように静かだった。ひとつ残らず、秩序立てられた世界だった。メトロノームに合わせて、波打つ心。涙さえ、決められた時間に流さなければならない。
 
 
 ふたりは、雨垂れの音を聴くように、じっと息を殺して、時の苦さを舌の上に転がしてみる。壊れたプレーヤーのように、無限に同じメロディーを繰り返して、その乾いた音色に引き裂かれるであろうことも、わかっていた。
 彼女のうつろになった瞳には、ただ淡々と積もる塵の厚さは、映らない。
 目をそらしたいものでも、まっすぐに、見据えていられる勇気が欲しかった頃。
 今では、握った指の微かな温度に、命の在処をようやく思い出せれば、それでよかった。いつか、このからっぽな時は、終わる日が来る。
 穏やかな死でさえ、この細い糸を掠めとることは、許さない。
 
 彼らは、穏やかな死には、勝ったのかもしれない。しかし、その答えが出ることは、決してなかった。
 
 




ψ




 長い長い眠りから醒めたように、私は、目を見開いて眺めた。酒場の淀んだ光は、相変わらず、濁った空気の中を散乱している。
 ここに来るのは、今日で三度目じゃないですか。男は、訊ねる。前髪の影が落ちているため、表情が見えにくいのに、目の光だけがよく見える。男の姿は、いかにも即物的な存在感を、そこに生んでいるにもかかわらず、その光だけは、不自然なほど、鋭かった。
 ええ。三度目です。私は、答える。男のほうから声がかけられたことは、少なからず、私を動揺させている。
 そうでしょう。この辺でよく見かけるタイプじゃないから。男は微笑んだ。
 
 
 これほどなまなましいイメージが喚起されたことは、私の経験になかった。
 永遠より長い一瞬を、一気に横切ったような感覚。ひとつの人生を覗き見た瞬間に、すべてが私の裡に取り込まれて、私の人生になってしまったよう。私は、彼女と一緒に笑い、彼女と一緒に泣いた。
 
 
 この辺は、初めてですか?
 ええ。初めてなんです。
 そうですか。この辺は、ちょっと物騒だから、気をつけたほうがいい。このあいだも、この先の中華街で、殺傷事件がありました。
 そうなんですか?
 ええ。本当に、気をつけたほうがいいですよ。
 男は、一通りの言葉を尽くしてしまうと、押し黙った。私も、その沈黙に耳を傾けた。男は、酒を飲んだ。私は、それをまじまじと見ていた。
 なんか、僕の顔に付いていますか?
 たいへん、没個性的な発言を、彼はした。私は、それをとてもうれしく思った。
 いいえ。何も付いていませんよ。私は答えた。
 夜が更けて、店はだいぶん込んできていた。男は、奥の、少し空いている辺りに、私を案内してくれた。
 何で、こんな店に、来たんですか。それも、三回も。
 変ですか?
 いや。別に。ただ、あなたみたいな人の、来るところじゃないかと。
 じゃあ、私は、どんなところに行ったらいいんでしょう。
 彼は、小さく笑った。私も、微笑んだ。
 
 
 私は、彼女と一緒に、苦しみさえした。彼女の未来は、守られていた。しかし、彼女は、今日を失ったのだった。彼女は、どう真実と向き合ったらいいのか、わからなかっただろう。何が本当のことかさえ、わからなかっただろう。
 彼女の視界には、どこまでも、際限なく繰り返された風景があった。鏡の中に映る鏡の中には、無限に続く鏡のイマージュがある。
 私は、彼の体から溶岩のように噴き出していた、あの熱い液体の温度まで、覚えていた。大きく見開いたその眼には、尽きることのない泉のように溢れ出す何かが、宿っていた。
 私は、ずっと、赤い色を嫌悪していた。そのことさえ、あの溶岩のような血の色を見て以来、植えつけられた恐怖心に思えた。ばかばかしいと思いながら、私はその考えを払拭できない。
 
 
 アムステルダムの街は、どうですか。ひととおり、歩き回ったんでしょう。彼は、訊ねる。
 なんか、恐い街だと思いました。わたしは、おずおずと答える。
 物騒なところは物騒ですけどね、そういうところばかりじゃないですよ。彼は、私を遮るように、言う。
 そういう意味じゃなくて。私の声は消え入りそうだ。
 そういう意味じゃなくて?
 なんか、運河が蜘蛛の巣みたいでしょう。捕らえられてしまったら、二度と抜け出すことができなさそうで。
 僕なんか、生まれてこの方、ほとんどが捕らえられっぱなしですけどね。
 ずっと、この街にいらっしゃるんですか?
 ええ、まあ、そんなところです。
 この街が、好きですか? 私は、少し不躾に、訊ねた。
 彼は、苦笑いをして、俯いてみせた。彼は、酒をもう一杯、注文する。私の分も頼もうとするが、私は、首を横に振って、合図する。
 嫌いじゃないんでしょうね。出ていかないでいるんだから。彼は、独言のように、つぶやく。
 世界の終末というものが、もしも訪れるとしても、この街は最後まで生き残るような気がします。
 そうですか? どうして?
 この街にいると、今でも既に、世界が終わりかけてるような気がしてくるから。
 街自体が、終末を生きているような?
 ええ。そんな感じがします。
 
 
 彼女は、信じていた。
 長い長いまどろみのなかの、幾筋かの瞬く閃光。その中に、すべてが生まれ、死んでいくことを。
 狂おしい錯視や幻聴が、彼女を占拠した。呼吸する空気も、飲み干す一杯の水も、何もかもが、彼の分身に思えた。
 彼は、どこにでもいるのだ。光の中に。瞳の中に。宇宙のすべての中に。彼女は、そう気づいた。
 夢を見過ぎても、罰せられない場所。馬たちも、鯨たちも、そこに集う。眼を閉じたほうが、それは、よく見える。
 彼女は、信じていた。信じたまま、死ぬのだろう。そして、とうとう、信じたすべてを真実として勝ち取るだろう。
 だから、彼女はいつでも、「永遠」のレプリカと共にある。
 
 
 私は、会話に慣れてきたために、少しずつ心を解放した。私は言葉を続ける。
 この街に来てすぐ、強烈に、既視感を感じたんです。
 前にも、ここに来たことがあるっていう、あれですか?
 そうなんです。そんなの、信じてなかったけど。今でも、あまり信じられないんだけど。
 僕は、そういうのって、あってもいいと思いますよ。
 彼の言葉は、思いやりから発せられたのか、本心から思うことなのか、わからない。私は、彼の顔を見る。
 彼は、押し黙ったままだ。着崩しているシャツの、襟元のボタンが、緩くなって取れかかっているのに私は気がつく。着ているものの印象が、とても薄い人だと、私は考える。この人が眼鏡をかけて現れても、それに私は気づかないかもしれない、と思う。髪の色が変わっていても、きっと気がつかない。
 彼は、不思議そうに、でもそれを責めるような風情では決してなく、私を見ている。私は、少し恥ずかしくなる。
 顔には、何も付いてませんよ。
 それはわかってます。彼は、とても優しい眼をしていたので、私は安心する。
 すいません。私は、次の言葉が出てこないのをごまかす。
 何で、謝るんですか。彼も、言葉を避けるように言葉を選んでいる。
 
 この街から、出ていこうと思ったこともないんですか?
 ないといけませんかね。
 いいえ。そんなことは。
 僕は、この街が特に好きだというわけじゃないし、特に嫌いでもありません。出ていって、ほかの街を知ってみたいとも、あまり思わないんですよ。
 私は、黙って耳を傾ける。彼は続ける。
 ホテルとかに、たくさん部屋があるでしょう。大抵の部屋は、同じホテルの中にあれば、似たようなものですよね。だから、505号室にいるのに、506号室に行きたがっても、馬鹿みたいですよね。
 おもしろい例えですね。
 すいません。変な例えしかできなくて。
 いいえ。とんでもない。
 
 
 僕は、他人になりたかったんだ。彼は言った。彼女は、それを何度も味わうように思い出す。あなたは、その願いを叶えたわね。あなたは、あなたではなくなった。
 彼女は、想い出というものを理解しなかった。彼女は、現在の中に、想い出を生きていた。水平線が、空に溶け込むように、何もかもは溶け合った。亡骸は、壮麗な宮殿の中で、何度も甦り、新たなものへと再生した。
 生と死の境界。そんなものはとっくに奪われた。
 愛が彼女を奪い続ける以上、彼女も、彼女ではなくなった。そして、愛することで、自己は新たに確定される。その誕生の揺らぎの中に閉じ込められて、彼女はようやく、眠り続けることができる。
 
 
 部屋から部屋へ、いくつも通り過ぎて行くだけなのかもしれないって、思うんですよ。人間なんてみんな。
 彼は、穏やかに笑っている。でも、僕の部屋は、この殺風景なやつひとつだけで、十分です。
 騒々しい罵声が響いている。店の一角で、若い男たちが諍いを起こした。私はようやく、彼の声を聞き取る。
 ひとりの男が殴られて、古ぼけた木製のテーブルを突き飛ばしながら、私の背後に倒れ込んだ。グラスがいくつか、床に叩きつけらて割れた。ぬるいビールの黒っぽい液体が流れる。
 それを見て、私は、あの映像をまた思い描いている。
 思わず私は、てのひらを見つめる。不意に、急激な喉の渇きを覚える。灼けつくようで、喉に手をやる。叫びを押さえ込むように。
 彼は、私の様子を見て、たぶん誤解している。大丈夫ですか? 私は表情もなく答える。大丈夫です。
 
 
 彼女は、やがて、南の街へと旅立っただろう。本当の、青い色とやらを確かめるために。そして、それが彼女の色ではないことを、もう一度、知るのだろう。
 彼女は、南の海で、砂浜に転がる白い貝殻を、拾うかもしれない。そのふたつの貝殻が響き合うのを、彼女は、飽きることもなくずっと聴いていたいと思うのだろう。
 彼女は、すべてに背を向けて、ただ時をやり過ごすために生きているかのように、見えたかもしれない。
 しかし、眠り続ける鯨の言葉は、誰にも聞かれることがなかった。鯨はそもそも、何も言い訳をする気がなかったのだった。彼女も、それに倣うつもりなのだったろう。
 
 
 私は、自分で思うよりも、蒼白な顔をしていたらしい。感覚は切り離されて、その伝達の過程だけを私は感じることができた。その結果に生じる感情は、誰か別の人のもののように思えた。私はいつも、つまらなく傍観しているだけ。
 ただ、その時だけは、違った。初めから、この恐怖は私のものではないと知っていた。何かに取り憑かれて、外部から入力された思いをリプレイしているわけでもないことも、明らかだった。その混乱こそが、主体的に私を引き摺り込んでいる。
 突き飛ばされて床に転がった男は、逆に回した映像のように、不自然に思えるほどすんなりと起きあがった。猫背で、しかも撫で肩だったその男は、背後から見ると、憤りを背負っていることだけで哀しいくらいに滑稽に見えた。
 男は、殴られた相手へと飛びかかっていく。取り巻きから悲鳴が上がる。私の位置からは、揉み合う男たちは見えない。
 こぼれた黒いビールは、人々に踏みつけられて、散り散りになっている。しみったれた床は、意に反して、ビールの色の沢山の足跡に染められていく。私は、その様子をじっと見ている。それは血に染まった足跡ではない。自分に言い聞かせる。
 その時、またうずくように胸の奥が締めつけられる痛みを感じた。ふたつの次元が交錯するように、私の中で主導権を争っているみたいだ。どちらかを本物として認識しなければ、どちらも消えてなくなってしまいそうで、私は、訳もわからずに慌てふためいている。
 彼は、私を見ていたが、何か囁くと、私の腕を取って促した。その言葉は聞き取れなかったが、怯えている私をここから連れだしたほうがいいと彼が判断したのは、明白だった。
 
 
 私、べつに恐かったわけじゃないです。
 どっちにしろ、あんなところに長居するのは、得策じゃないでしょう。あなたにとって。
 彼に導かれるままに店を出てきたものの、私は、残してきた何かに後ろ髪を引かれている。夜道を歩く足が、もつれる。地球の重力が、理不尽に増減を繰り返しているかのよう。体が軽くなったり重くなったりで忙しく、思考が緩慢になる。
 そもそも、この男のせいなのだ。この男の瞳の光が私の中に射し込んできて、それから、このおかしな夢が始まってしまったのだから。それなのに、私ひとりが罰を受けたようだ。私は、いつもなら押さえ込んで呑み込むはずの苛立ちを、不思議に率直に素直に、許してやることができた。
 チンピラの喧嘩なんて、ちっとも恐くなんかないわ。私が恐かったのは、そんなんじゃない。
 私は言い放つ。じゃあ、何が恐かったのよ。自分に問う。説明できやしないじゃないの。
 彼は、私が急に声を荒げても、当たり前の事のように顔色を変えない。無表情な男だ。
 そうですね。喧嘩を恐がっているようには、見えなかった。何か、悪い夢でも思い出したみたいでしたよ。
 私は、答えない。彼も、表情のない顔のまま、続けた。
 でも、そんなことはどうでもいいことです。恐怖は、すべて、過去の中にあるだけでしょう。忘れて、手放してしまえばいいことです。
 そんな簡単に、忘れられないことだってあるでしょう。私は、楯突いた。
 彼は、視線をそらして、運河の水面にあそぶ光を見ていた。毒々しいピンク色の反射光。有名な、飾り窓の女たちの界隈に、私たちは足を踏み入れていた。ショーウインドウに並んだ女たちは、慣れ切った仕草で自動的に媚びを売り、視線を集めようとする。
 運河の向こう側には、いかにも古めかしく厳かな教会が、大きくそびえている。あまりに不釣り合いに見えるふたつの世界は、対立するわけでもなく、馴れ合いになるわけでもなく、互いに無視し合うわけでもなく、ただそこに並んで存在しているように見えた。
 過去を忘れられないのは、忘れたがっているようで、本当はそれに依存しているからじゃないですかね。彼は言う。
 それはもっともだと、私は思う。しかし、今の私が、何に依存していると言うのだろう。突然現れた、脈絡のないイマージュ。それだけなのに。私は苛立つ。
 こぼれたビールが、血に見えたのよ。私にも、訳がわからない。また、大切な人を失ってしまうような気がしたのよ。
 大切な人を失った経験があるんですか。
 いいえ。
 
 
 私は、支離滅裂なことを言っている自分に呆れ、照れ隠しでも愛想笑いでもない、中途半端な笑みを浮かべているだろう。私は、それを隠そうと俯く。
 ごめんなさい。訳がわからないわね。
 なかなか上手に言葉にできないこともありますからね。それに、僕とあなたは、今夜知り合ったばかりで、どちらにせよ、あなたの過去のことなんて、僕には関係ないですし。
 過去のことじゃ、ないのよ。
 そうだろうと思いました。
 え? どういうこと?
 あなたは、後ろを向いて生きている人独特の匂いがしない。どこも向かないで生きているみたいですね。
 それは、こっちの台詞だわ。
 
 
 どこも向かないで生きてるのは、わりと大変でしょう。
 そうね。あなたは?
 そういうふうにしか、できないですから。
 教会の古い石壁を眺め、うつろな目をしたまま私は言ったのだろう。あなたの名前を、まだ聞いていませんでしたね。
 ああ。そうでしたね。僕の名は、メータといいます。





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